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東京駅の光の当たらぬ深い沼

短い時間の長い瞬間
7[東京駅の光の当たらぬ深い沼]


剣志はしばらく言葉が出なかった。
人間というのはたった数秒の間これだけのことが考えられるのかと思うほどいろんなことを考えた。
いろいろ考えたわりには「美涼のことなんで知ってるの?」という平凡な問いかけしか浮かんでこない。
綾乃は剣志がこれほど動揺するとは予想してなかったみたいで、「驚かせてごめんなさい、いつか話してくれると思っていたんだけど…」と不安げに言った。
剣志は隠しているつもりではなかったが、自分の中で言うタイミングというのがあって黙っていた。それはいずれ綾乃に結婚を申し込もうと思っていたこともありその時に離婚経験があることを話しするつもりだったのだ。それなのに自分がわざと隠してたみたいに思われたのかと思うと、それが気まずかった。
綾乃がぽつぽつと話し始める。
「私ね、美涼さんとは高校が同じなの。私の方がひとつ下で同じバドミントン部だった。美涼さんが卒業と同時に就職で東京に行ってからは全然連絡などしてなかったんだけどね、この間、年末に帰省した時に美涼さんのことが町中の噂になっていたのよ。派手な格好して離婚して子供連れで帰ってきたって…その子供もなんかの病気を持ってるって…」
「病気?」
「知らないの?私も詳しくは知らないけど、テンカンっていうのかな」
剣志は月に一回養育費を振り込む時に美涼に電話をして子供の様子を聞いている。先月電話した時には「元気にしてるから心配しないで」と言う美涼の言葉に疑いなど持たなかった。
「田舎だからね、そういうマイナスイメージの噂は広まるのが早いのよ。都会だったらマンションの隣に住んでる人がどういう人なのかなんて興味もないし知りもしないんだけど、田舎だと一駅先に住む娘の着ている服までわかっちゃうの。東京生まれの剣志にはわからない感覚だろうけど、みんな暇なのよ、人の噂くらいしか楽しみがない人たちなの」
「そうだったんだ…」
「美涼さんがなんだかかわいそうで、何か力になれないかと家に尋ねて行ったんだ。東京での生活のいろいろを聞いてるうちに、離婚した相手が剣志だとわかっちゃった。写真も見せてもらったわ。娘さん、美佳ちゃんっていうんだっけ?剣志に似てるのね。可愛かった」
「ごめん、黙ってて。でもタイミングをみて話すつもりでいたんだ。でも世間って狭いね。同じ高校だったなんてドラマみたいだ。でも本当に隠すつもりじゃなかったんだ」
「わかってる。美涼さん、顔色も悪くて元気がなさそうだった」
「何も知らなかったよ。子供が病気だということも、実家に戻っているということも」
「田舎ってね、怖いよ。噂が人を殺すんだよ」

まだ半分くらい残っているモツ鍋がふたりとも口に入らなくなっていた。
剣志は、美涼のことは正直どうでもよかった。すでに離婚してるのだし新しい恋人も目の前にいるのだし、でも子供の病気のことだけは気になって仕方がない。

「今日はこれでお開きにしよう」
そう言って綾乃は帰り支度をし始めた。いつの間にかあの騒がしかったアメリカ人もいなくなっていた。
剣志が会計を済ませて、店の外に出ると綾乃はコートのポケットに手を突っ込んだままビルの外に目を向けて、「ごちそうさま。東京駅のライトアップが綺麗だよ」と言った。
「そうだね」と言ってはみたものの、剣志にはそれも今は目に入らなかった。

剣志は重い気持ちのまま自分の部屋にたどり着いた。
綾乃とデートした夜はいつも気持ちよく眠れるのに今夜はそうはいかないようだ。こんなうじうじと考えこむ自分が嫌でならなかった。
昨日までは、いや、綾乃とモツ鍋を食べ始める頃までは溌剌な自分であった。数時間で人間の頭の中や体って変わるのだなと思った。
スマホが鳴った。
きっと綾乃からのおやすみの電話だと思ってすぐ画面を見てみたら、美涼の名前が画面に映し出されていた。タイミングがいいのか悪いのかわからず、出た方がいいのか出ない方がいいのか、また数秒の間にいろいろ考えた。
『出ないとこのまま悩み続けることになる』そう思って電話マークをタップした。向こうから聞こえてくるのは大勢の人の騒ぎ声で、そんな中で美涼の「もしもし〜」という声は酔っているようでだらけた感じがした。

数秒で出した決断が、これからの剣志の人生を大きく狂わせてしまうことになろうとも知らずに剣志も「もしもし」と声を出した。


つづく


*前回までのストーリーはマガジン「noteは小説より奇なり」に集録してあります。興味のある方はそちらの方もよろしくお願いします。


読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。