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不幸中にしか幸せはないのか、敏子の場合[掌編小説]

敏子は今日53歳の誕生日を迎えた。もうこの歳になると誕生日だからと特別に何かあるわけじゃない。誕生日などもう来なくていいと思うくらいだ。それでも工場のパート仲間が近所のケーキ屋で買ってきたショートケーキとお茶でお昼休みにちょっとした誕生会をしてくれた。誕生日だからということではなく、こうやって同年代の仲間と楽しくお昼休みを過ごせることが平凡ではあるが幸せなことだと思っていた。

残ったショートケーキをもらって午後5時半にパート先の工場を出た。いつも帰りにスーパーに寄って帰るのだが、お昼にいつもは食べないケーキを食べたせいかあまり食欲がなく、今日はいいやあるもので済ませよう、どうせひとりなんだしと思ってスーパーには寄らずに帰宅した。夜遅くになってもお腹は空かず、残り物のケーキも食べれずにいた。お風呂に入って寝る準備をしている時に軽く咳が出た。その咳が何かの合図のように急に倦怠感が襲ってくる。熱を測ると37.2度。一瞬、世を騒がせているコロナという言葉が頭をよぎる。でも次の瞬間「まさかね、たぶん風邪だわ」と思う。というより思い込ませようとした。そしてそのまま就寝した。

朝になって熱が上がっていた37.8度。喉が痛い。頭痛もする。咳の出るスパンが短くなってる。それでも敏子はまだ風邪だと思い込もうとしていたが、朝からテレビで「コロナ、コロナ、」と叫ぶ声を聞いていると、テレビの中から「あなたはコロナだ」と警告されているようで怖かった。その日はパートを休んだ。工場に電話をかけて「実家の母の具合が悪いから」と、誰もが一度は使ったことがあるだろうありふれた嘘をついた。敏子は迷いに迷って高血圧の治療で通院している病院に電話をかけて事情を話す。「ここではPCR検査ができないからできる病院を紹介します」と言われ、言われるがままに紹介された病院でPCR検査を受けた。そして次の日の午後には正真正銘のコロナ患者となった。

陽性と知らされた日から何日経ったのだろう...入院するほどではないと言われホテル療養も空きがなくとりあえず空きが出るまで自宅療養して下さいと言い渡された。ひとり暮らしだし家族に迷惑をかけることはなくそれだけは救いだった。工場には、母親の具合があまり良くないのでしばらく休むとまた嘘をついてしまった。同居の家族はいないが、東京に大学に通う息子が住んでいる。もう4年生でこの春卒業する予定だが、コロナ禍のせいで就活もうまくいかずいまだに内定はもらっていない。

「このまま決まらなかったらどうするつもり?」

「何とかなるよ、バイトでもしながらゆっくり探すよ」

「こっちに帰ってきたら?」

「いや、やっぱり働くには東京がいいよ」

こんな会話が最近の息子とのLINEのやりとりだ。この息子に今の自分の状況を知らせるか迷っていた。

日を追うごとに熱が上がってきた。今朝は初めて39度までいった。熱で体がフラフラして思ったように動けないのが辛い。食事も最初は簡単なものを作っていたが、そのうちお湯を注ぐだけで出来るカップラーメンやスープのようなものになり、それも辛くなって今はソーセージ、ゼリー、お菓子のようなそのままで食べれるものしか口にしていない。保健所からの電話が時々かかってくるが「今、入院できる病院を調整しています。もうしばらく自宅療養をお願いします」としか言わない。それに対して抗議するエネルギーも残っていない。徐々に食料も底をついてきた。ベッドサイドにあるのはペットボトルに入った水とお茶だけだ。高熱で意識が朦朧とする中、そのペットボトルを通して見えた外の景色を見た瞬間「このまま死んでしまうのかも...」と、初めて死を意識した。

夫と離婚してから15年、苦労はしたがシングルマザーとして息子を育てあげ、一流とまではいかないまでも東京の大学に行かせることもできた。もう私の人生それで充分ではないかと自問自答する。もういいや、楽になりたいと思う反面、「私はいつ感染したんだろうか?デパートに買い物に行った時か?そういえばヘアサロンに白髪染めに行った。あの時か?それとも工場の誰かが陽性者だったのか?」と、犯人探しを必死でやってしまう。人間というのはこんな意識朦朧とした中でもいろんなことを考えてしまうのだなと、ふふっと気持ち悪い笑みが溢れていた。

そんな時息子からLINEがきた。「どう、元気してる?」といういつもの日常的なLINEだった。スマホに浮かび上がるその文字を見て涙がこぼれた。いつもならすぐに「元気だよ、あんたは?」と返信するのだがそれができない。ひとしきり泣いた後、返信をした。

「あのね、私、コロナになっちゃった。今、家で寝てる。熱があるから何もできない。食べるものもなくなっちゃった。最後にあんたに会いたいけどそれはできないからね。あんたはしっかり生きるんだよ。就活頑張ってね。バイバイ」

震える指で打ち終えた。そして送信。息子からはしばらく返信がなかった。既読になったかの確認をするつもりもない。ただ息がし辛くなっていることにまた一歩死近づいているのだなと思った。そして頻繁に眠くなるのも恐怖だった。それからどれほど眠っただろうか、スマホの着信音で目が覚めた。スマホの時計を見ると4時間半ほど過ぎていた。電話に出る。息子からだった。

「今、家の前にいる。看病してやりたいけど中には入れないから玄関の前に食料を置いておくから後で取りに来て」

「ありがとう。東京からわざわざごめんね」

「そんなこと当たり前や、しばらくこっちの友達の家に泊まらせてもらうから何かあったら電話して」

「ありがとう、ありがとう」

「それじゃ、また。ちゃんと食べてや」

「ありがとう、ありがとう...」

敏子は泣くしかなかった。泣くほど辛いけど泣くほど幸せだった。自分が育てた息子が片親だからとグレることもなく、こんなに優しい人間に育ってくれたことが誇らしかった。あの子なら大丈夫。きっとうまく生きていってくれるだろう。泣きながら敏子はまた眠くなってスマホを枕元に置いて毛布を首までしっかりと掛けた。そしてペットボトルを通して見える景色を見つめながらゆっくりと瞼を閉じた。

敏子は玄関先の食料には一切手をつけることはなく、深い眠りに入っていった。頭痛も息苦しさも倦怠感も何もない深い安らかな幸せな眠りだった。

読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。