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短い時間の長い瞬間 (最終話)

短い時間の長い瞬間
27[短い時間の長い瞬間(最終話)]

ツツジの枝の隙間から相変わらず青い空が見えていた。
赤いツツジの花は綺麗に咲いているのもあれば、もう萎れて茶色くなっているものもある。
私はもう少し咲いていたかった。こんなはずじゃなかった。どこで間違ってしまったのだろう。
今まで何度も考えたことを美涼はまた考えていた。
話し声が聞こえた。
「この人何?酔っ払いからしら、それとも死んでる?」
「死んでないよ、ほら胸のところが動いているもん」
「じゃ、酔っ払いだね」
「行こ」
美涼は目をうっすら開いたままその会話を聞いている。
「助けて」と言えば、救急車くらい呼んでくれるのかもしれなかったが、もう生きる気力というものがまるでなかった。
何もかも失ってしまった。
故郷の両親、一人娘の美佳、剣志、希望、夢...…
何が悪かったの?誰のせいなの?
私なのか、いや違う。
あの閉鎖された田舎のせいなのか、それとも憧れ続けた東京のせいなのか。
意識が朦朧としてくる中で首筋に生温かいもの感じた。土に含まれる水分なのか、花びらから漏れる水滴なのか、もうそれを拭うほどの力も残っていない。
また話し声が聞こえた。
「この人何しているの」
「おい大丈夫か」
「嫌だ。口から泡吹いてるよ」
「どうせ、ラリって意識混濁してるんじゃねーの」
「救急車呼ぼうか?」
「やめとけ、事情聴取なんかされたらめんどくせーし」
「だね、行こ」
美涼は足だけ外に出して倒れている自分の姿を想像しながら、きっと笑いに値するほど滑稽な姿なのだろうなと思った。
たぶんあと何分かで自分は死ぬだろう。
「ママ、遊ぼうよ」という美佳の声が聞こえたような気がした。
『ごめんね美佳ちゃん、ママはもうこんなになっちゃて遊べないよ。
 ごめんお父ちゃん、ごめんお母ちゃん。
 剣志、美佳をよろしくね。
 誰のせいでもないよ、みんな私が悪いのよ。
 わかってたの、でも気持ちの焦りをどうにもできなかったの』
薄れゆく意識の中でそう思うことが精一杯だった。
遠くでサイレンの音が聞こえる。その音がやんだと思ったら、数人の男たちが近寄ってきて「大丈夫ですか?しっかりして下さい、病院いきましょうね」と声をかけてくる。
「東京にも優しい人がいるんだな」と思ったのを最後にかすかに動いていた美涼の胸の動きも止まってしまった。

商店の大きな時計が11時3分をさしていた。
一段と熱を帯びた太陽の光が美涼の足を照らしていた。

そこにいたみんなが何が起きたのかを把握するまでの数秒間、
交差点は時が止まったように静かになった。
再びざわめきが至るところかわ沸き上がると、よほど関心のない人以外は立ち止まり、行き交う車も否応なしに立ち往生している。
剣志は仰向けに倒れていた。
自転車は数メートル離れたところで形を変えて倒れている。
誰とはなしに「救急車」「早く」「触るな」と叫んでいる。
剣志にその声が聞こえていたが、それが自分に向けられている言葉なのか、別の何かが起こっているのかさっぱりわからなかった。
目は閉じているようだが、不思議と空の青さと太陽の熱は感じられた。
どこも痛くなかった。苦しくもなかった。
ただ少しずつ意識がなくなってくる。
俺は何してたんだっけ?会社からどこへ行く予定だったんだっけ?
そうだ。自転車だ。自転車に乗っていたんだ。
急いでたんだ。何かにとても急いでたんだ。
死ぬのか、俺、このまま。
嫌だ。死にたくない。せっかく新しい生活が始まったばかりなのにこんなのあんまりだ。俺が何をした。何の罰だ。嫌だ、嫌だ。
叫んでいるつもりだが、それは声にはならない心の叫びだった。
どこからか波の音が聞こえた。
それは、穏やかにゆっくりと寄せては返すさざなみのような波だった。
とても優しげなその波音はものすごく遠くから聞こえるようでもあり、耳のそばで波打っているようにも感じる。
その波音を消すかのように、「救急車きたぞ、がんばれ、がんばれよ」と誰かが叫んでいる。
誰だか知らないがありがとう。でも波音を消さないでくれと思う。
綾乃に会いたい、美佳に会いたい。
そう思った瞬間、朧げに見えてた青空も見えなくなった。
太陽の熱も感じない。
波音もザザァ〜という最後の音を残して消えた。
静かに冷たいアスファルトの中へと吸い込まれていく感覚があった。
剣志の人生の幕が降りた瞬間だった。

商業ビルの飾り時計は11時3分をさしている。
救急車が剣志を乗せて去っていくと、それぞれがまた歩き始める。
少し暗い気持ちを引きずりながら。

波打ち際にいたカップルはもうかすかに後ろ姿が見えるくらいのところまで行ってしまった。彼らは翡翠を見つけることができたのだろうか。この後に及んで菜津はそんなことが気になっている。
敷いているブランケットに大量の赤い染みが広がってしまった。このブランケットは、冬になると母が膝掛けに使っていたものだ。黄緑色に濃い緑色の葉っぱが描かれている。菜津が吐き出したものでブランケットに赤い花が咲いたようになった。
喉に何かが詰まってうまく息ができないが、「お母さん...」と呟いた。そして続けて「お父さん...」「亮太…」家族の名前を順番に呟いて、ゆっくり目を閉じた。
波の音がかすかに聞こえる。綾乃さんが言っていた「人間は聴力が最後まで残るのよ」と。ここが海辺で良かった。波の音を聞きながら最後を迎えられるなんて幸せ者だ。だってこんなに息が苦しいのにとても穏やかな気持ちだもの。これは神様が願いを叶えてくれたのかもしれないと思う。
「神様、健やかな死をありがとう」と最後に呟く。
スマホの着信音が鳴る。
もう確認する力はない。水筒の横に転がっているスマホは11:03と表示されその下に『着信1件』の文字が浮かび上がっていた。

菜津の新たな旅が始まった。
パスポートがなくてもどこへでも行くことが出来る。
セスナより早く、飛行機より遠くへ、自由に飛んで行ける。
ただ旅先から絵葉書を書くことも、お土産を買って帰ることもできない旅ではあるけれど。

* * *

ママはこんな東京のどこか良かったのだろう。
空気はくすんでいるし、空にはいつも灰色のもやがかかっている。
ビルがひしめき合って、ここに住む人は楽しい顔をしながらもいつも何かに怯えて生きている。
私はこんな東京のために捨てられたのか。
ママはこんな東京のために死んだのか。
商店街の植え込みの中で死んでいたと聞いた。
「冗談じゃないわよ」と、思う。
空を見上げると灰色の空に白いセスナが飛んでいる。
旅が好きでいろいろな国に行ったけど、そういえばセスナって乗ったことがないなとふと思う。

後ろから声がした。
「美佳ちゃん、ごめ〜ん。遅くなっちゃった」と、叫びながら綾乃が小走りでやってきた。
「あっ、お母さん、そんなに走ると転ぶよ。もう若くないんだからね」
「さてと、何食べに行こうか?美佳ちゃんの誕生日だからさお母さん奮発しちゃうよ。なんでも好きなもの言って」
「そうだなぁ。モツ鍋にしようよ。お母さんも好きでしょ」
「イタリアンとかフレンチとかじゃなくていいの?」
「モツ鍋が食べたいの。あの東京駅の近くにある店がいい」
「よし、じゃ席空いているか電話してみる」
綾乃と美佳は楽しげに東京の街に消えていく。
「ねぇ、お母さん、セスナって乗ったことある?」
「ないなぁ」
「私ね、セスナに乗ってみたいんだよね」
「いつか、一緒に乗ろうか?」
「いいね、いいね」
  
ふたりの会話は幸せを含んで弾むように街中を転がっていった。



あとがき
長い間読んでいただきありがとうございました。
この物語は最終話を一番最初に書き始めました。
明るく希望のある物語が好きな方には申し訳ないのですが、
希望の陰には必ず絶望があって、それは隣り合わせで存在しているということを書きたかった次第です。
稚拙な文章でその思いの半分も表現しきれていませんが、ここ数ヶ月本当に苦しみながら書きました。
最後は3人の死から20年後、美佳は25歳、綾乃は53歳になった姿を付け加えました。
またどこかで美佳と綾乃の姿をお伝えできればいいなと思っています。
ありがとうございました。

2022.5.17   イトカズ



*マガジン『短い時間の長い瞬間』を作成しました。
1話から最終話(27話)まで収録済です。




読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。