見出し画像

空洞を飾る、カネコアヤノ

 じりじりとした、この世のものとは思えない強さの太陽光で外は溢れている、8月。今年も夏がやってきた。今年の夏の日付たちは、海に行くこともなく、リゾート地へ出かけることもなく、粛々と私のワンルームマンションの中で進められている。私は外に出かけたくてうずうずする性分でもなく、友人らとおうち○○をする性分でもなく、ただやるべきタスクをこなし、ごくごく普通の夏の日の生活を毎日ひとりで過ごしている。

 日々の楽しみは、どのコーヒーを淹れるか、どのハーブティーを飲むか、どんな音楽を聴くか、どんな部屋着を着るか、そんなとこである。SNSを見れば、友人らが予想外にもバーベキューや旅行に行っていて、世間とか普通とか常識とかそういう基準を設けるのは、所詮自分自身なのだと感じることも多い。世間では自粛警察という言葉が浸透しつつあるらしいが、私は特に周りとの温度の差を恨むこともなく、ただ、どちらかというと、外に出るという危険を冒してまで手にしたいものが外の世界にないことに気づいた程度だ。(今は信じられないくらい暑いし。)

 そういう虚しさを見つめたり放棄したりする日々なのだけど。虚しさに慣れただけなのかもしれないけど。今の日常には、洗って干されたマグカップの中から今の気分を選ぶだけでちょっと鼻歌交じりになる自分がいて、なんだか不思議である。人と顔を合わせる時間や回数が減って本来の自分の生活の律が取り戻されたのかしら。明らかに私と誰かで過ごす時間はなくなったし、遊び相手のほとんどは自分自身になったのに。

 なんだか知りたくなかった。私は一人で生きていくのが好きだった人なのか。この星には八十億とかいう数の人間がいるのに、その全部がいてもいなくても私の幸せは大して変わらないないのか。毎晩夢に出てきて嬉しいのか苦しいのか分からないようなことがあった君も、本当は私は必要としていなかったのか。周りの人達がよくしてくれるのに心が開けなくて泣いていた私はさみしいふりをしていただけなのか。そうか。知りたくなかったし、それを知って哀しいような気持ちがしたけど、私って本当は強い子だったのかな。

 哀しいけど涙は出なくてむしろ毎日楽しい日々が続いて、自分の心なのになかなかうまく扱えなかった。そんなむしむしとした夏。ぴったりだったんです。カネコアヤノさんの歌たちが。2年ほど前から、巷では力強い歌声の可愛らしい見た目の女性シンガーソングライターが話題らしい、というのを聞きつけ、今までもインターネットやらサブスクやらで曲を聴いてきたつもりだった。その時は、私の手元にはないような小さな幸せに気づけるやさしい生活をしている人の歌だと思えてしまって、まっすぐに聴けなかった。そんな感覚が少し前にはあったものだから、今になって彼女の歌がスッと染みていくのがおもしろおかしくもある。

 彼女の歌には「あなた」とか「きみ」とか近くにいるような人を指す言葉は出てくるけど、なんだかどれも何かを一枚挟んだみたいな響きがする。その一枚が涼しげなオーガンジーの布なのか分厚い鉄壁なのか分からないけど、彼女の歌の物語の主人公は私のような哀しいけど強い気持ちを知ってくれている人な気がする。もやもやした気持ちはあるけど、どんな名前で辞書に載っているのか分からない気持ちで、でもそんなものも彼女は軽やかに、深いところで歌っていてくれる。

 私の歓迎できない強さは、何かが欠けた穴だと思っていた。だけど、それは違うんだね。何かが当てはまりそうな見かけをした、空洞が私の中にはあるんだね。カネコアヤノさんはそんな空洞を美化することもなく、否定することもなく、ただそこに空洞があることを歌にしてくれている。ありのままという言葉が嘘らしく聞こえるほど、彼女の歌や歌声は彼女のそのもので。私が考える正しさや寂しさは本当は無理やり作ったおとぎ話だったのかもしれない。悲しくないのに無理やり悲しまなくていいんだよ。ひどい話だけど、なんともない顔で受け入れてもいいんだよ。

さよーなら、悲しまなくちゃと必死だった私。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?