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闇が深まれば深まるほど、真の光と偽りの光を見せつけられることになる

世界の混沌は、日々、深まっている。そして、この混沌の深淵化には、恐らく、際限がない。あらゆる混沌が深まれば深まるほど、底なしの闇が眼前に広がり、多くの人たちは、絶望することだろう。

しかし、恐れる必要はない。

あらゆる病が根治するには、激しい痛みや過酷な排毒といった好転反応が起きるように、社会に溜まりきったヘドロを抜き去るためにもまた、大きな好転反応が必要とされる。

痛みを伴なわない解決は、偽りだ。

解決に向けた痛みが強ければ強いほど、根底に溜まった闇も深いということ。

そして、問題が解決した後に訪れる解消と解放も、同じだけ大きなものになる。

闇は、もっと深まればいい。

光の中に闇が生まれるのは不純があるから

この世に存在するあらゆるものは、すべて相対的にできている。

内があるから、外がある。
上があるから、下がある。
右があるから、左がある。

特定の現象や状況に、限定的な条件や定義、個別名をつけて区別する、それと相反するものが、同時に生まれることになる。

これを内とするから、あれが外になる。
あれを上とするから、これが下になる。
そちらが右なら、こちらは左だ。

人間には、二種類の性別があって、メスが生まれ、オスが作られる。けれども、雌雄の存在しない生物には、オスもメスも存在しない。

逆に言えば、区別しなければ、相対性も、相対物も生まれない。

光と闇の関係にも同じことが言える。

光が生まれるところには、必ず影ができる。
闇も、光という相対物が存在するから、闇であり続けることができる。

どちらも、独立して存在しているのではないし、どちらかだけ一方だけが存在することもできない。

いっけん、目で見る限りは、別々のように見えるようなものでも、実は、プラスとマイナスが、部分的に、ときには全体的に繋がったり、離れたり、大きくなったり、小さくなったりといった微細な揺れや極小な振動を繰り返しながら、発生したり、消滅したりしている。

興味深いのは、光あるところに影が生まれるのは、空間の中に、なにかしらの不純が存在するとき、というところだ。

暗闇の空間を、特定の方向からライトで照らす。

空間になにも存在しなければ、闇の量が減り、光の割合が増える。

光量を強くすればするほど、暗闇の量は減り、最後は闇が消える。

けれども、空間の中に、柱を立てれば、一方向から照らしている限りは、柱の後ろには影ができる。

もちろん、全方向から照らせば影は消える。しかし、柱が増えれば増えるほど、影を消すことは困難になる。

あらゆる物質は、光を反射し、散乱し、影を発生させる。

なにもなければ、影は生まれない。

光を満たして闇を完全に消し去るためには、不純なものを取り去るしかない。

(ただし、空間の中に、もうひとつ、閉鎖された空間を用意した場合、そのなかは、完全な闇になる。その場合は、閉鎖的な空間を破壊する必要性が出てくる。)

最後に残るのは強い光と深い闇だけ

深くて広い闇は、強い光でなければ照らせない。弱い光では、闇に溶けて吸収されてしまう。

こういった現象は、昨今の戦争のなかでも、日常的に垣間見ることができる。

支配や恐怖が高まると、小さな光が消えていく。

小さな光は、自ら力を強めなければ、あっという間に闇に取り込まれていく。

ゆく先や結末の見えない、永遠にも思える闇との対峙に疲弊すると、人は誰しも、目先の保身や、目の前の安楽、安易な幻想を口実にして、現実を、自分の都合のいいように湾曲して、闇に同化してしまう。

気づいていても、声を上げなければ、気づいていないのと同じであるし、光は、闇を照らせなければ光ではない。

でも、それでいい。

この戦いは、偽の光を知る戦いでもあるのだから。

この世に嘘は多くあるけれど、真実は、ごく僅かしかない。

そして、それらは、無理をしてまで探す必要もないだろう。

なぜなら、量の増加は質の低下という言葉があるように、無数の光が消え去った後、最後に残ったもの、残されたものだけが、本物だから。

焼け落ちた荒野の木灰の上。立ち上る黴くさい煙のなかでも、燦然と支配に立ち向かうのは、果たして誰か。

偽物が駆逐されるのを、ただじっと待つだけで、真実は手に入る

戦いの最後。この戦争の結末に、僕たちが目の当たりにする光景は、目がくらんでしまい直視できないような強い光と、どこまで照らしても、永遠に解けることのない深い闇との、矛盾的な対峙構造だろう。

不要になったものから先に駆逐されるのは、自然の浄化作用が働いているから

興味深いツイートを見つけた。

これは、前回エントリした記事でも触れた内容に通ずる部分がある。書いたことと同じである。

土のなかに堆積した、過剰な化学物質や肥料成分を除去して、冷えた土や土台がほぐれて暖かくなって、キレイになると、根をはる農作物も強くなって、極端な量の虫や病原菌はやってこなくなる。

圃場の作物が病害や害虫に食われてダメになってしまうのは、汚染された土壌が原因である。汚染された土壌で生育した植物(作物)は弱いので、正常な植物よりも早めに浄化されてしまう。虫や細菌類というのは悪者や敵なのではなく、不要になったものを浄化してくれる、ありがたい存在なのだ。農業におけるこういった現象は、紹介した映像で、圧迫された下のイチゴからカビが生えていくのと、論理的には同じ現象である。

これは、無肥料の栽培を詳しく知っている農家には常識であるが、多くの農家は、菌や虫を排除するために農薬を撒いて対処する。もちろん作物は収穫できるが、土壌の汚染は解消されないので、永遠のいたちごっこになってしまう。(高騰する肥料や農薬を購入し続けなければいけないし、なにより、危険な農薬や肥料で汚染された野菜は、人体に悪影響が出る。)

こういった自然の法則は、あらゆることに起きる。

以前から書いているが、病気というのは、外からやってくるウィルスや菌が原因なのではない。

菌やウィルスは、常に体の中に存在していて、原則的には人体と共存・協力関係にある。しかし、不自然な食生活や生活習慣によって、身体が自然な状態から離れ、衰えてくると、彼らとの共存関係の調和が乱れ、菌やウィルスの量が優勢になってしまい、どこかしらに異常が出てくる。つまり、身体の中に元々あるもののバランスが崩れて不調になる現象を、人が勝手に病気と呼んでいるだけなのだ。
しかし、西洋医学は、菌やウィルスは外からやってきて、悪さをする病気の原因だから、それらを薬や治療によって駆逐しなければいけないと嘯く。これは、土壌の汚染から目を背け、安易に農薬を撒いて、病気や虫を殺そうとする、いたちごっこの農家と、発想のレベルは一緒である。本来、病人が解決すべきなのは、食生活や生活習慣、思考の癖なのだ。薬を飲んだり、医療に依存しても、根本的な原因を取り除かない限り、病は根治しない。本当の原因は自分の内側(土や身体の汚れ)にあるのに、敵を外に作っているうちは、問題が解決しないのと同じである。。

人間の人格や精神面においても同じことがいえる。

幸せを感じられないのは、外的な要因ばかりが原因なのではなく、自分自身のモノの捉え方や考え方、思考方法に原因がることも多い。

もちろん、今を生きる庶民の僕らにおいて、大半以上の問題は、社会や経済、政治などの外的要因が原因で起こっていることは承知している。それはそれで、解決しなければいけない大きな問題だ。

しかし、自分の心の内側にある闇や毒を取り除くことで解決すること、得られる幸福感というものも存在しているのではないか。

自然の法則には、弱ったもの・腐ったものから先に浄化されるというものがある。

それらに取り込まれないためには、自らのカラダやココロを、常に、自然と順応させていなければいけない。

人間は、どうしても、前へ前へ進むこと、発展することだけが正しい道だと勘違いする。

しかし、僕らがこれから進むべき道は、実は前にはないのではないか? そう思うこともある。

なぜなら、人類は、進めば進むほど、原点である自然から離れてしまったから。そのことによって、あらゆる問題が起きている。

だから、
もしかしたら、
これからは、
どこへ進めばいいのか?
ではなく、
どこへ戻ればいいのか?
を考える時代なのかもしれません。