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書くこと、見えてきたこと

今月からライティングのゼミに通いはじめた。以前から度々Facebook広告に表れてきた、書店で開催されている物書きのための勉強会。ライター養成講座らしい体だけど、なぜか「人生が変わる」というキャッチフレーズ付き。でもまぁ、センセーショナルな表現で人を呼ぶための宣伝文句だろう、というのがそのゼミに対する初見の認識だった。

それでもなぜ申し込みを決めたのかと言えば、理由はざっくり2つ。ひとつに、連載を始めて半年の「妄想あさこ食堂」というコラムをよりブラッシュアップしていきたいと思ったこと。以前から文章を書くことは好きだったけれど、あくまで素人。今後ライターとしてスキルアップするためにも、専門的な学びを齧れたらと思った。
もうひとつは、先月得たバイト代の使いみちとして絶好の講座料だったこと。数日臨時バイトして得た給与は、ともすれば知らぬ間に消えてしまう。それならば何か自分にとって意義ある使い方をしたいなと思ったのが2つ目の理由。

そうして詳細もあまり知らなぬまま、迎えた初回の講座で「コンテンツとは、人が時間またはお金を費やしてもいいと思えるもの」という定義にまず虚を突かれた。というのも、妄想あさこ食堂のコラムを書いているサイト内での与えてもらったわたしの肩書きはといえば、「コンテンツクリエイター」。ちょっと待てよ、わたしは読み手の貴重な時間やお金を費やしても読みたいと思えるような文章を提供できているだろうか。自身の肩書きの恐れ多さに身震いする。

さらに、「文章を書くことは自転車に乗るようなものだ」という講師のセリフが続く。飛びぬけた運動神経のようなスキルは要さない、多少の練習やノウハウがあれば誰でも出来ること。ちょっとしたコツを習得して書く本数を増やしていけば、誰でも書けるようになる。書くことへの敷居を下げてくれる言葉に胸を撫でおろしつつも、現役ライターの講師は5000文字のコラムを40分程度で書き上げてしまうらしい。2000文字程度のコラムに2時間あまり向き合ってるわたしとは比べものにもならないことにたまげながら、週に一度提出していく宿題の、第一回目を提出した。

今思えば、ちょっと天狗になりかけていたんだなと思う。ずっとやってみたかった「書く」仕事、わたしの文章に好意を持ってくれた方々からの感想やコメントに酔いしれ、調子に乗っていたことは否定できないから。

そうしてもらった、ライティングゼミからの第一回フィードバック。わたしの文章力や発信力というライターとしてのスキルはどうなのか、というのを第三者目線で冷静にチェックしてもらった結果に、なかなかに度肝を抜かれることになる。オブラートに包んだ優しい表現ながらも、要約すれば
「綺麗な文体で全体の読後感は悪くない。けれど、あくまで書き手の日記に終始していて、読み手にとって有益な情報が提示されていない。」とあった。
その指摘を見て、一瞬目が点になった。そうしてその後、落胆と恥ずかしさで2日ほど凹んだ。

そういうことか。ひとのコラムやSNSでの投稿を見て「で?」と思う感覚。
どこそこに行ったとか、あれこれを食べたとか。そんな話を見ては「だから、何?」と腹の底で思ってた自分がいるのに、それをそのままそっくりやっているのだ、わたしだって。

コンテンツがコンテンツたる所以は、そこに読み手が時間やお金を費やしてもいいと思えるだけの有益な情報が含まれていてこそ。
我が我がと、自身の経験や感想をただ垂れ流されるのは読み手にしたらたまったもんじゃない。それを、わたしはコラムのような文面上だけでなく、SNS上でも、果ては普段の会話でも繰り広げてきてはいないか。自身の行動言動を振り返ったら、穴があったら入りたい気分になった。

今までのわたしの文章、アウトプット全般のテンションは、自撮り投稿に近いのかもしれないと気付いた。カメラのレンズを自分に向けて、周りの誰かに「いいね」を押してもらうことで自分を自分たらしめ安心する。上手に描けた絵を褒めてもらいたくて、「見てみて」とお母さんを呼ぶ幼児のように。

カメラのレンズを外に向けた発信、それが出来て始めてコンテンツクリエイターと呼べるはず。誰しも、ドヤ顔のわたしが映った写真より、外の美しい景色が見たいもの。同じ事象でも、フォーカスの仕方で表現は変わってくるし、結果的に読み手に与える情報量や質も変わる。
そしてこれはきっと、ライタースキル以前にこの社会で心地よい人間関係を築いていくためにも必要なこと。

講座の前に、あなたは何のために文章を書くのか?というアンケートがあった。その質問に対して自分の目的を振り返り、「同じ価値観のひとに共感してもらう、そんな人びとと繋がるため」と答えを出していた。でも第一回目を終え、いやまだそんな段階にはいけてないんだな、と感じた。まずは書く作業を通してわたし自身の意識改革を迫られている。自分の自己肯定感に責任が持った上で、発信ができる一社会人になることを。

そんな気付きをもって迎えた第二回目の講義、初っ端から「会社の飲み会が憂鬱なのは、上司の本当にあったかどうかも分からない過去の自慢話を聞かされるからだ」と聞いて、追い打ちをかけられた気分になる。ごもっとも、気付いてしまったからには今すぐ、わたしの発信スタンスをインカメラからアウトカメラに切替えなくては。

始まって数回にして、発信のスタンス変換からの人間性の見直しを迫ってくるこの講座、「人生が変わる」というキャッチフレーズはわたしにとって嘘のない、まさにドンピシャだった。
やばいな、ライティングゼミ。これからの4ヶ月、文章を通して、徹底して自分自身と向き合う時間になりそうでどきどきしている。

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