チャリのチェーンを直すという行為が懐かしすぎた話
「チリーン」
「チリーン」
おっと!と急いで道をあける。
その後に自転車が通っていく。
これはよくある光景である。
このチリンチリンは自転車の鈴の音。私はあまり鳴らしたことがないけれども、使ったことがない人はいないはずだ。私はこの前、文房具でも買いに行こうということで近くのホームセンターまで自転車を走らせた。
その日は朝から快晴。
私が住んでいる地域は、もともと人が少ない地域。
コロナの事など一切気にすることなく買い物に行くことができる。
目的地であるホームセンターに着き、1時間ほどかけて店内を見て回った。文房具集めが趣味であり、かつ仕事でもある。毎年毎年新製品が出てくる文房具。私は文房具が好きで好きでたまらないのだ。
買い物を終えて帰宅。何かガチャガチャいってるなと思ったらチェーンが外れていた。自転車のチェーンが外れるのは何年ぶりだろうか。私が小さい時、よくチェーンを外して母親に怒られていたものだ。
チェーンが外れるということが久しぶりだったためチェーンの治し方を忘れてしまった。仕方なくネットで調べた。私が小さい時は母親にこうやって直してもらっていたんだと感心した。母親に対して少し感謝しなければとの思いが少し浮かんだ。
チェーンを歯車の部分に噛み合わせて、元どおりに直していくということがスマホの調査で分かったが、手が黒くなる。軍手がない。どうしよう。
仕方ないということで私が使っていた冬用の手袋を泣く泣く使い、直すことにした。チェーンがガチャンと音を立ててうまく歯車と噛み合わさった。(これは北海道弁なのかもしれません。一応解説をしておきますが、「噛み合わさる」というのは「噛み合う」ということです。
北海道?では「何々さる」ということをよく使います。さると言うのはモンキーではありません。勘違いしないように。気になった人は調べてみるといいでしょう。)
私はひと安心して自転車を物置にしまった。このチェーンを直すという行為で私の子供の頃の記憶が蘇った。私は小さい時に何回も何回もチェーンを外し、その度に母親に直してもらっていた。当時私が住んでいた地域のその界隈では、自転車で走ってドリフトするということが流行っていた。
私の自転車のタイヤも、いっぱいドリフトしてすぐパンク。ある時はその自転車のタイヤがもっこり。
大変走りづらいという醜態をさらすことになった。
(今やそれは笑い話。)
その度に母親にバレて、いやいや謝っていた。
もうそんなことはしない。そんなことをする勇気などないし、そんなことにも飽きた。今は自転車を自分でメンテナンスしている。
ところで、外れたチェーンを噛み合わせて元に戻すと言うこの行為。なんだか私の人生に似ていないか。少し道を外れてしまった人が、なんとか力を使って元の道に戻る。または歯車に噛み合わせる。私はこの自転車と同じように、元通りになるのか。不安で仕方がない。
今後私は、どのようなことを経験するのか。私自身もわからないし他人にもわからない。神のみぞ知るセカイなのだ。
チェーンを直すその短い時間の間に、私はいろいろな考えをめぐらせることができるようになった。昔では絶対にできない。
意味もない時間が流れ、ただぼーっとしている。ときにはそのような時間を作っていいが、毎日そのようなだらけた行動をとっているというのは自分としてあまり納得いかない。
完全に自分の行為全てを納得いくようなものにするということは不可能に近いが、できるだけ可能に近づけるように、毎日過ごしていきたい。
サポートして頂けたら嬉しいな。