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縄文海進と古神道、神社、天皇制(25)朝鮮半島渡来のウソⅢ

縄文海進と古神道、神社、天皇制(23)朝鮮半島渡来のウソⅠ
縄文海進と古神道、神社、天皇制(24)朝鮮半島渡来のウソⅡ

朝鮮半島の中国・ロシアとの陸の国境は、北朝鮮側なので、その地理を見てみよう。

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北朝鮮の国土面積は120,538km²である。その内、120,408 km²を陸地が占めており、残りの130km²が水地である。また、総計1,671.5kmの国境線を有し、中国とは1,480km、韓国とは238km、ロシアとは17.5kmの国境線を接している。

北朝鮮の国土の大部分は、中規模の山脈と丘陵による山岳地帯で構成されている。最高峰の白頭山は、北部中国との国境に位置し、標高は2,744 mである。沿岸部では西海岸に広大な平野があり、小さな群島が点在している。また、日本海の海岸線には山岳部に狭い平野が形成されている。

稲作の栽培技術が中国から陸路で朝鮮半島に伝搬された、というのはあまり有り得る話でない

何度も言うように、中国の華北は畑作地帯である。稲作には向かない。だから、畑作地帯の華北から、こんな山岳地帯を通って陸路で稲の籾、稲作の栽培技術が中国から朝鮮半島に伝搬された、というのはあまり有り得る話でないのはわかるだろう。

山東半島(青島ビールで有名だね?)や遼東半島(日清戦争の大連がある半島)などは、簡単に中国の支配下になったのに、朝鮮半島は漢民族も手こずった。

● 紀元前四世紀後半 燕・古朝鮮戦争
● 紀元前214年 秦、朝鮮北西部を支配下に収めた(二回の侵攻は失敗)
● 紀元前194年 衛満が、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を建てる
● 紀元前128年 前漢が蒼海郡を設置
● 紀元前108年 前漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、
  漢四郡(楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡)を置く
● 紀元前82年 真番郡・臨屯郡を廃する
● 紀元前75年 玄菟郡を西に移し、半島には楽浪郡だけとなる
● 紀元前37年 高句麗が成立

私の記事で扱っているのは、中国にまだ漢民族の統一王朝が出現せず、漢民族も黄河流域にしか居住していなかった紀元前三千年前(今から五千年前)の話だから、朝鮮半島に漢民族はいなかった

中国の東北地方にかけて主として牧畜・狩猟生活を送っていたツングース系の濊人や貊人、半島南部で早くから農耕生活を営んでいた韓人(長江人、縄文人)で形成されていたのだろう。

紀元前三千年前よりも時代は新しいが、日本にしか存在しないはずの前方後円墳が韓国で十二基も発見されているのは、朝鮮半島南部の一部を日本の豪族が支配していた証拠だろう。

韓国になぜ「前方後円墳」があるのか

前方後円墳は日本列島独特の墳墓である。それがきずかれた範囲は、ヤマト政権の支配する範囲、東アジア世界では倭とよばれていた範囲とおおむね一致する。それなのになぜ、朝鮮半島の西南部、栄山江流域にまで前方後円墳がひろがっていたのか。それがきずかれた栄山江流域は、ヤマト政権の支配下にあったのか。倭の一部だったのか

朝鮮半島に前方後円墳十二基 奈良・橿考研博の学芸員が報告

坂総括学芸員は「前方後円墳の起源が日本列島にあることは疑う余地がない」とした上で、「被葬者は在地首長に次ぐ立場の人物。日本列島との深い関わりを示すために、前方後円墳の墳形を採用したのだろう」としている。

よほど韓国の歴史学会に都合が悪かったのか、

朝鮮半島最大の古代の墓、開けた直後に閉じた理由は

朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の初めについに開かれた。考古学者らは5~6世紀の日本の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした。今年一月、国土最南端の海南(ヘナム)から聞こえた墓の発掘に続く覆土のニュースは、メディアには公開されなかったが、韓国国内の考古学界を騒がせた
「追加発掘後に一般公開」とし、再び埋める、墓の被葬者は百済の統制を受けた倭人?、日本の右翼が任那日本府説の根拠にすることを懸念

いつもながらやることはせこい。

朝鮮半島の人々は、漢字、青銅器・鉄器製造技術、養蚕技術、稲作、製紙技術等々が朝鮮半島由来で日本に伝搬して、日本文化を形成したと主張するが、なんのことはない、稲作は漢民族に圧迫された長江人が難民として日本に渡来、直接日本に稲作技術を伝えたようだ。その他の技術も中国大陸から朝鮮半島に来た流入民(渡来人)が朝鮮に伝え、それが日本に伝搬された。

「朝鮮半島由来の日本に伝わった朝鮮独自の文化文明技術」ではなく、「朝鮮半島経由で日本に伝わった中国大陸の文化文明技術」にしか過ぎないのだ。

渡来人

渡来人、朝鮮半島における流入民

朝鮮においては、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した(『魏志』東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」と記されるように、多様な経路からの移住民が多く、また、朝鮮半島中・西北部は楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の植民地漢四郡が置かれ、漢の植民地だった時期に漢族が移住して土着化し、北部から中部にかけてを高句麗人が数世紀に渡って支配、流入した時期もある、東北部は渤海人、女真人などのツングース民族の流入が相次ぐなど、古代より中国をはじめ、東北アジア諸地域などより、多様な経路から移住民が多い。

高麗時代前時期における、流入した異民族の数は23万8000人余りに達する。定住した漢族は国際情勢に明るく、文芸にたけていて官僚にたくさん進出した。流入した渤海人は契丹との戦争に参加して大きい功績を立てた。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国、江南地方出身流入人である。

また流入した女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい

京仁教育大学校の朴チョルヒ教授は、韓国の社会教科書が過度に民族中心的に叙述され、これら流入者の存在と文化的影響に対し教科書は沈黙し、女真族との友好的な内容は教科書で探せない、と女真族を朝鮮民族を困らせる報復の対象にだけ描写していると批判している。

事例
孫氏:『朝鮮氏族統譜』によると約1000年前に中国の宋から戦乱を避け高麗に流入した荀凝が、高麗顕宗時代(1009年-1031年)に、顕宗の諱「詢」と同音になるのを避け「孫」姓を賜り改姓した「孫凝」を始祖とし、「一直孫氏(安東孫氏)」と呼ばれたという一族がある。孫凝からは高麗朝の将軍である「孫幹」や一直君に封ぜられた「孫元裕」が出て繁栄し、後裔の「孫処訥」は秀吉の朝鮮出兵の時に義兵将となり日本軍との戦いに功があったという。この一族の出身者からは他に、丁卯胡乱の際に義兵将となって活躍した「孫遴」や同知中樞府事となった「孫必億」がおり、ソフトバンク社長の孫正義も末裔であると主張している。

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