行き着く場所が見えてなくても(1)

【この一連の文章は事実を元にしたフィクションです】

なりたい職業はアナウンサーだった
とにかく目立ちたかった

何故目立ちたかったのかはその当時は自分でも気づいていなかったが、今にして思うと、目立てるような環境ではなかったから、だったのかもしれない

自分自身、頭がいいんだ、と、多分九州の田舎町の保育園時代から自覚していたと思う
頭の良い私が言うことは田舎町のバカたちには理解できなかった
当時の語彙力ではそこまで言語化することはできていなかったが、でも、まあ、そういうことだ

きっかけはピンポンパン体操だ
今の若い方々はご存知ないかもしれないが、フジテレビ系でひらけポンキッキが放送されるよりも前、ママとあそぼうピンポンパンという幼児番組が放送されていて、その中にピンポンパン体操というものがあったのだ

その歌詞の中に、大蛇になりましょピンポンパンポンピン、というものがあった

私はなんとか大蛇のようにニョロニョロと動いていたのだが、ひとり、毎回なんだか違う動きをしている男がいた

あの動きは蛇じゃないだろ

と思っていたのだが、幼稚園の先生たちは何故か彼を絶賛した

ある時先生の一人がみんなの前でこう言った

「タナカくんは『なんじゃいになりましょ』のところで毎回色々と工夫して色んな物になっています
みんなもいっぱい工夫しましょうね」

いや、
「大蛇」
「だ、い、じゃ」
大蛇だからね

ガキながらに、この人は日本語もちゃんと聞き取れないのか、そもそもなんじゃいってこの辺の方言じゃないのか、ピンポンパン体操って全国放送で標準語なんだから方言に聞き取れた時点でおかしいと思わないのか?

保育園児でそういう事を考えていた

私以外の人は頭足りないんじゃないか、という自分の中の不遜な部分は多分この時から始まったと思う

よく、親の学力は子供に遺伝すると言われる
私はそれは違うと思うが、一面ではその通リだとも思う

親はどちらも今で言う中卒だ
父親は中卒で自衛隊に入り定年まで勤めた
本音では私を自衛官にしたかったようだ
自衛官には頭はいらない
体力だけだ
なので、怪我をしそうなことは全くやらせなかった
特に自転車には厳しかった

中学で自転車通学になるということがわかり、私に自転車が与えられたのが小学5年生だ
小学5年生がママチャリに補助輪をつけて自転車の練習をしているのだ
父親はその練習に付き合うことは一度もなかった
恥ずかしくてたまらなかったが通学のために頑張った

学習塾にも行かせず、習い事もやらせなかった
奴らにとっては不必要だったのだろう

そして、何かというと金が無い金が無いと言い続けた
そんな貧乏な仕事なんだったらさっさともっと金が貰える仕事につけばいいのに、と思っていた

実際には、ご承知の通り、国家公務員なのでそれなりの収入はあり、ボーナスも結構な額があったはずだ

しかし父親はその殆どを、隣の県に住んでいる本家に喜んで差し出していたのだった

本家も揃いも揃ってバカばかりだった
私の母親は父の本家にとっては、そのバカの中で稼ぎ頭になるはずだった九男を勝手に掻っ攫っていった泥棒猫だという認識だった

盆や正月になると父方の本家に帰省することがあるが、私のための食事は用意されたが母親の食事は用意されていなかった

母親は当時としては珍しくフルタイムで働いていた
これだけ金を取られても家を立てるぐらいの力はあるんだざまあみろ、と言いたい一心で金をためていたらしい
なので私の教育や身の回りのものなどには一切金を使ってくれなかった

あいつ貧乏だから遊ばない
駄菓子屋にもいけないようなやつとは遊べない

子供の世界は周囲よりも程度の低い貧乏には冷酷だ

カネもなく、友人もおらず、家の中の居心地は悪く、ずっと孤独だった

(続く)

最適なハッシュが思い浮かばないので取り敢えずnoteさんがおすすめしてくださったハッシュをつけておきます(なげやり

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