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風導黙示

 そのころ、この世界はまだ丸かった。
 虚空に浮かぶ球体の上に、あらゆる生き物が棲んでいた。
 世界とは、闇夜に浮かぶ星々のひとつだったのだ。
 こんにちの我々からすれば荒唐無稽なほら話にしか思われないが、『風導教典』に明記されたまごうかたなき事実である。
 ――これは、世界がまだ《岩と金属と時の格子》に閉ざされるより前の物語である。

 この世で最初の人間を、アピスと言う。
 アピスがどのようにしてこの世界に誕生したのか、『風導教典』にもくわしくは書かれていないが、アピスが男でもなければ女でもなかったことは確かなようである。
 ――これは、人類がまだふたつに分かれるより前の物語である。

 アピスは孤独であった。
 絶対なる孤独であった。
 野を馳せる獣たちと戯れても、所詮は自分とは違う存在なのだと思い知らされるばかり。
 語り合える友が欲しかった。
 ある時、アピスが木の上でまどろんでいると、青い鸚鵡が一羽、舞い降りてきた。
「アピス。我が愛し子よ」
 そして言葉をしゃべった。
 アピスは驚いて鸚鵡を見た。
「孤独なるお前に宝を授けよう。我ら、虚空の御座に遊ぶ神々が、その叡智を結集して創り上げた秘宝だ」
 鸚鵡はそう言うと、翼を羽ばたかせて舞い上がった。
 誘うように、ゆっくりと旋回しながら、いずこかへと飛んでゆく。
 アピスは慌てて木を降り、鸚鵡を追った。

 やがて、一本の巨大な樹の前にたどりついた。
 その大樹は、根本にアピスよりも大きな球体を飲み込んでいた。
 根と根の間から、脈動するかのような光がこぼれている。
 アピスが鸚鵡を見ると、
「愛し子よ、それこそが我らの贈り物だ」
 鸚鵡はそう言った。
 恐る恐る球体に近づく。
 それは銀色の金属でできていた。
 表面に何かが映っている。
 ゆらゆらと炎のように像が安定しないので、何が映っているのかはわからないが、少なくともアピス自身の姿ではないことだけは確かだった。形がまったく違うし、単体ではなく何か無数の輝く塵が蠢いているように見えた。
「それは万能の利器。お前に神の力を行使させる秘宝。その宝玉から、お前の望むものを取り出すことができる」
 アピスは宝玉に絡みついている細い根を引き剥がし、銀色の球面に触れた。
 じんわりと、温かかった。
 少し力を入れると、ずぶりと手が沈んでゆく。
 同時に、球面にアピスの手が映り出した。
 まるで宝玉が半透明な材質でできているかのように、沈み込んだ部分が表面に映し出されているのだ。
 そして、手に何かが触れた。
 反射的に、それを掴んで引っ張った。
 出てきたのは人間だった。
 黒い肌をした赤子だった。
 この世で二人目の人間である。
 アピスはその赤子に目を見張り、再び宝玉の中に手を入れた。
 出てきたのは白髪の赤子であった。
 みたび宝玉の中に手を入れた。
 出てきたのは青い目をした赤子だった。

 それからアピスは、暇さえあれば宝玉に手を入れ、赤子を取り出していった。
 そのたびに、顔かたちも、肌の色もちがう、さまざまな赤子が出てきた。
 赤子たちは、さんざに笑い、泣き、アピスの世界は急に騒がしくなっていった。
 アピスはわけもわからぬまま彼らの世話に追われはじめる。
 かくして今の世界の基礎が築かれた。
 長い月日が経ち、成長した赤子たちが野山を駆け、街を造り、恋を歌い、そして自らの子供を育て始めても、アピスだけは何年経とうともその姿が変わることはなく、暇を持て余しては赤子を宝玉から引っ張り出すことを繰り返していた。
 成長した赤子たちに、生き神として崇められながら、アピスは頭をひねる。
 この銀色の宝玉は何なのか?
 その答えを探すために、今日も飽きもせずに手を突っ込んでいるのかもしれない。

 長い年月が経った。
 やがて、銀の球体から、赤子を取り出せなくなる日が訪れた。
 掻くように手を動かしても、何にも触れることはできなくなっていた。
 あきらめてアピスが手を引き抜くと、宝玉は空気が抜けるように縮んでゆき、最後には消え去ってしまった。
 結局、銀色の球体が何で、神々はどういうつもりで自分に授けたのか、何もわからないままであった。

 さらに長い月日が流れた。
 あるとき、アピスが最初に取り出した黒い肌の赤子が、老衰してもうすぐにでも亡くなってしまうだろうという報せが入った。
 アピスが急いで黒い肌の赤子(もはや赤子ではないが)のもとに行くと、彼は子や孫に囲まれて、今にも命の火が消えそうな有様であった。
「尊父アピスよ、あなたに看取られて逝けるのならば光栄です」
 黒い肌の老人は微笑み、アピスに手を伸ばした。
 アピスは干からびたその手を握り締める。
 黒い肌の老人は、虚ろな目で宙を見た。
「おぉ……お迎えが来たようです。見えませんか? 途方もなく大きく、美しいものが、私を探してそこらをさ迷っています」
 しかし、アピスにも、また彼の子や孫たちにも、そんなものの姿は見えなかった。
「おぉ……近づいて、くる……手だ……大きな美しい手が、私の体を掴んでいます……なんと……からだが……わたしのからだが……小さくなって、ゆく……おぉ……おぉ……」
 その声は、だんだん変化していった。低くしゃがれた声から、高く澄んだ、まるで赤子のような声へと。
「あぁ……う……あ……」
 そして、彼は事切れた。

 アピスは、ようやく納得した。

【完】

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