夜天を引き裂く #9
「わかるか、橘」
「さっぱりわからん。要点を言え」
「僕のこの卓越した万能性は、生まれながらに父から受け継いだものなんかじゃなかったということだ」
拳を、握り締める。やりきれないものを感じる。
「それを知ったときの、僕の気持ちを、どう言い表せばいいだろう」
「……」
「まず最初に、誇らしい気持ちになった。僕が同級生の蒙昧どもより十倍も優れているのは、要するに十倍努力したからだったのだ。僕はこの優秀性を、自らの意志で勝ち取ったのだ。生まれながらに与えられたのではなく、自分の意志で!」
「それはめでたいな」
「そして次の瞬間――絶望した」
「なぜ」
「なぜ、だと!? わからないのか。今まで尊厳ある人間社会の中で生きてきたと思っていたら、実は豚小屋の中に放り込まれていただけだったという事実をいきなり突きつけられたんだぞ!?」
「……何が言いたいのかよくわからん」
「周囲の連中が低脳なのは、才能がなかったからじゃない。努力してないからだ。僕より遥かに努力せず、必然の結果として僕より遥かに劣るような連中のご機嫌をなんで伺ってやらねばならんのだ。ふざけるな、と思ったね。それが普通だと言うのなら、世の中ってのはずいぶん下らないんだな。まるで世界すべてが不潔な豚小屋だ。これが絶望せずにいられるか」
「駄々をこねて泣き喚く子供そのものだな。他人が自分に合わせてくれることを期待しすぎだ。大人になれ」
「お前の言う大人とは何だ? 節を曲げて他人にへつらう生き方のことを言っているのか? だとしたら一生涯そんな下等生物になる気はない」
「お前が言っているのは強者という立場に寄りかかったポジショントークにすぎない。誰しもそういうエゴを飲み込んで折り合って生きている。お前はそれをいいことに、一人だけ我を通して得意がってるだけだ」
「世の中ポジショントークの押し付け合いでバランス取ってんだろうが。他人に一切エゴを押し付けない人間なんて存在してないも同然だろ。一人分の酸素が無駄だから死んだほうがいい。エゴを押し付けられたくないのなら、腕力でも権力でも知力でも財力でも何でもいい、自分のエゴを守れるだけの強さを得るよう努力すべきだ。努力はしないがエゴは押し付けられたくないなんていうその思考が根本的に甘ったれてんだよ。無理だから、それ」
「努力しなければならないことぐらい誰でもわかっている。しかし、誰しもがお前のように努力できるわけではない」
「それでもな、橘……」
絶無は、声を落とした。
こみ上げてくるものを堪えながら、言葉を紡ぐ。
「それでも……いたんだよ」
「何がだ」
「何の才能もなく、家は貧困の極みで、ヒキガエルみたいなニキビ顔をし、ひどい吃音を持ち、愚鈍極まる挙動で、あらゆる人間から蔑まれ、罵倒され、学校にいる間中嫌がらせを受け、それでもなお必死に努力を続けた……そういう弱者は、いたんだよ」
――おれ、は、おまえ、が、嫌いだ。だから、ありがとう、は、言わ、ない。
そいつの言葉が、今も胸にこびりついている。どれほど洗い流したくとも、決して落ちぬ。
怒りとともに。恨みとともに。
「だからこそ……だからこそ、だ。橘」
絶無は立ち上がり、静夜を正面から見据えた。
「怠惰な無能を憎悪している。死ねばいいのにと常々思う。だけどな、人の心は複雑なんだ。昨日までしょうもない豚野郎だったのが、今日は懸命に修練を積み上げる人間になっているかもしれない。そうならないとは誰にも断言できない。だからな、橘。僕はな。目の前にうごめく弱者どもが、毅然と胸を張って運命に立ち向かう意志を獲得する、その可能性がほんのわずかでもある限り、そいつらの命が脅かされようとしている時は、命をかけて弱者を守る。気の進まない限りだが、それが僕の主義だ。人殺しは殺す。例外はない。どんな事情があろうが斟酌しない。必ず、殺す」
「……傲慢にもほどがある」
「おやおや、珍しく素直な褒め言葉が出たな」
口の端を吊り上げた。
絶無は、思う。
――橘静夜とザラキエルは、『王の覚悟』を持っているのかも知れない。
受け取るのではなく、勝ち取ることに意味を見出す心持ち。四肢をもがれ、目と耳と鼻を潰されようと、力の限り前へと這い進む心持ち。
もしも、こいつらがそうなのだとしたら――
絶無は、自らの中に、今まで感じたことのないような気持ちがあることを自覚した。
力強く沸き立つ、快い昂ぶり。
腹の底に蓄積された高揚感を吐き出すように、絶無はゆっくりと息を吐いた。
「ならばお前たちは、僕の人生に現れた、最初の友になるのかもしれない」
口の中で、そう呟く。
●
『ならばお前たちは、僕の人生に現れた、最初の友になるのかもしれない』
頭の中に、声が響く。
秋城風太は、病室に居ながらその言葉を聞いていた。
隠し切れない喜びを、どうにか隠そうとしている口調だった。
――きっと、人を褒めることに慣れてないんだろうな。
そう、思う。
『……なんだ? 今何か言ったか?』
不審そうな橘静夜の声。
『黙れ野蛮人。独り言にいちいち反応するな』
風太の頭の中で、こういう奇妙な声がするようになったのは、昨日からだ。久我絶無という人の周りで起こる物音や音声が、なぜか克明に聞こえ始めたのだ。
恐らくは――界斑璃杏に貰った、コウモリのミイラが原因である。
あれを久我絶無に強奪されてから、このテレパシー現象がずっとつづいている。コウモリの耳に入った音が、病室にいる風太の元まで届いているのだ。
どういう仕組みなのかは、よくわからない。
ただ、今は手元にないあのコウモリと、見えない絆のようなものを感じている。
脳内に響く久我絶無の会話内容から察するに、どうやら超自然的な事態に自分は巻き込まれたらしい。
プライバシーもなにもあったものではないが、自分の意志で止められないのだからどうしようもない。
……少し、羨ましかった。
音だけとはいえ、擬似的に久我絶無の生活を体感し、さまざまなことがわかった。
彼は、悩まない。
そうした心の動きを、怠惰な人間が自分の無能さから目をそらすために行うもっとも卑劣な行為であると考えている。
問題の本質を理解し、情報を集め、対策を考案し、断固として実行する。
そういうプロセスが、ほとんど本能と一体化しているのだ。
――それは、人の在り方ではない。
風太は軽く息をつく。
他人と目を合わせるだけでも勇気が必要な性分だ。何をやっても人並み以下。そのくせ自尊心だけは普通にあるのだからたまらない。屈辱に耐え、うつむきながら、嫌なことが通り過ぎていくのを待つ。それが風太の人生における基本姿勢である。
――きっとこの人は、なんでも苦労せずにできてしまうんだろうな。
膝を抱えながら、そう思う。
足首はもう、治っていた。もともと脱臼しただけだったので、数日の入院で歩く分にはほぼ支障がないレベルまで回復している。医師は驚異的な回復速度だと驚いていたが、ぴんとこない。
明日、退院だ。
また、学校に行かなければならない。
気が重くなる。
「学校なんて、なくなればいいのに」
陰々と、つぶやく。しかし学校をやめて自分の人生を模索できるような度胸も能力もないのであった。
『……なんだ、これは』
『ふん、来たか』
不穏な声が、数キロの距離を隔てて聞こえてくる。
――なんだろう……?
風太は耳をそばだてた。
●
校舎は、騒然としていた。
不安げなざわめきが、そこかしこで上がっている。
「……なんだ、これは」
「ふん、来たか」
絶無と静夜は、中庭のベンチに座ったまま、その様子を見ていた。
……辺りは、濃厚な闇に包まれていた。
ついさっきまで昼の日差しが降り注いでいたにも関わらず、一瞬にして夜になってしまったのだ。空には月も星もなく、押し潰されそうな漆黒がどこまでもつづいている。
――界斑璃杏か。
即座に直感する。
『恐らく、堕骸装の事象変換ですね。界斑璃杏の手駒の一人でしょう』
「つまり襲撃か? 今ここで?」
静夜が不可解そうに眉をひそめた。
絶無は鼻で笑う。
「どうやらあの愚図の捜査能力では、僕がこの学校に通っていることまでしか突き止められなかったようだな。辛抱の足らんガキはこれだから困る」
「しかし、大勢に見られるぞ。界斑なにがしはどうやってもみ消すつもりなんだ」
『隠蔽するつもりなどないのでしょう。この夜天化能力は、《平穏の座》に連なる悪魔に多く見られる事象変換です。周囲一帯を世界から切り離し、入ることも出ることも不可能な空間を作り出しているわけですね』
静夜が立ち上がった。
中庭を囲む校舎で、ぽつぽつと明かりが灯り始めている。
「つまり、あれか? 学校を閉鎖空間にして逃げ場を絶ち、中にいる人間を皆殺しにしようと?」
『えぇ、見過ごしては置けません。第三世代より古い悪魔ならば、通常の物理法則に加えて何らかのルールを空間内に押し付けることができる個体も多くなります。小生も前回の魔戦では彼らに苦労させられたものです』
瞬間、恐怖に満ちた悲鳴が、学校を引き裂いていった。
静夜は小さく毒づく。
「……久我、少し離れていろ」
「ふん」
立ち上がって五メートルほど後ろに下がる。
静夜は体を半身に開き、分厚い手錠に手をかけていた。
鋼の環が、自ら鮮烈な光を放つ。
「――骸装」
静夜の口から、深く鋭いエコーのかかった声が広がる。決して大きくはないが、周囲に殷々と反響してゆく声だった。
蛍火のような光の粒子が、静夜の周囲にぽつぽつと出現してゆく。燐色の軌跡を曳きながら、無数の光点が衛星のように回り始めた。
回転速度は急速に上がってゆく。まるで光の竜巻のようだ。同時に回転半径も小さくなってゆき、ぎゅっと収縮。そして静夜の体に重なった瞬間――
ひときわ眩い閃光が中庭を白く灼いた。大気が押し広げられ、壁のような風圧が全方位に発散。
絶無は顔を庇いながら、じっと見ている。
やがて、光が収まる。
――そこに、人型の要塞が出現していた。
亀裂のような黄金の魔眼が、絶無を捉える。
『久我、お前はどこかに隠れていろ』
城壁のように厳めしい肩を軽く回す。校舎から漏れ出る電灯の光が、青銀色の総身に複雑な光沢を与えていた。
重厚な具足で中庭を踏みしめ、やや前屈姿勢をとる。
即座に両肩の装甲が展開。青白い炎を激しく噴出し、鋼鉄の巨体は弾かれたように飛び出した。
校舎のコンクリート壁を発泡スチロールのように突破。悲鳴の方へと一直線に突貫する。
「やれやれ、ドン・キホーテめ」
肩をすくめ、絶無は別の方向に歩みだした。
もちろん、大人しく隠れるつもりなど毛頭なかった。
校舎の陰にいる黒澱さんと合流。
恐怖と不安の色が濃い彼女に、微笑みかける。
「大丈夫。僕がなんとかします。あとはどれだけ人死にを抑えられるかの問題です」
――まず、夜天結界が覆っている範囲について。
私立孤蘭学院高等学校の敷地を完全に覆い尽くす巨大なお椀を仮定してみる。
結界を作り出している堕骸装の居場所として真っ先に想起されるのは、なんといっても半球の中心点であろう。
いささか根拠には欠けるが、至極妥当な推論と言うものである。
――第一校舎西側あたり、か?
出来れば結界の外周を確認して孤の角度から正確に中心点を算出したいところだが、今はそんな時間はない。
絶無は、今後の指針について思案した。
「……まず、用務員室。次に放送室へ向かいます」
こくこくこく。
「はぐれると危ないので、お手を拝借してもよろしいでしょうか?」
こ…こくこく。
少し頬を染めた黒澱さんは、おずおずと青白い手を差し出してくる。
世の中にこれほど柔らかいものがあるのかと感嘆を覚える手触りを、ふにふにといつまでも味わっていたい気持ちになるが、自省。彼女の手を引き、校内を駆け出した。
そこかしこで、恐慌と悲鳴と残虐の気配が漂ってくる。
界斑璃杏と、奴の制御下にある堕骸装たちが、思うさま認識子の詰まった血袋を食い散らかしているのだ。
生徒たちが、殺されてゆく。
――可能性が、喪われてゆく。
歯が、軋る。
《おこってる/すごく/まもる?/弱いもの/わたしみたいな/おこってる/あれほどきらっているのに?/まもる?/たすける?/それでも?》
――それでも、です。
可能性の亡者たらんと、自らに課するのだ。殺人とは可能性への究極的な冒涜である。断固とした姿勢で挑まねばならない。
人殺しは殺す。必ず、殺す。
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