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シロガネ⇔ストラグル あとがき 上

 ロード・ダンセイニ著『ペガーナの神々』において、〈宿命〉と〈偶然〉という名の存在が賭けを行ったことから世界は始まった。

 賭けに勝ったどちらかが、主神マアナ・ユウド・スウシャイに言って自分の思う通りの世界を創らせたのだと。

 果たして賭けに勝ったのがどちらだったのかは不明とされる。

 本作『シロガネ⇔ストラグル』は、この宇宙観をベースとしていた。世界を多元化し、〈宿命〉が統べる世界と〈偶然〉が統べる世界の二種類を存在させている。

 そして今、我々が生きている世界は〈偶然〉が統べるものだ。人生にアプリオリな「意味」など存在しない世界。

 その展開は常に唐突で、ストーリー的な脈絡などない。「定まった運命が存在しない」と言えば聞こえはいいが、実存主義的な虚無と無縁ではいられない。

 ジョジョ第六部で、ラスボスのプッチ神父は「全人類に自分の運命を自覚させ、究極の安心を得させる」という目的のもとに、数々の畜生行為を働いていた。

 畜生行為はどうかと思うが、この目的自体は議論の余地なく否定していいほど論外な主張ではないと思う。

 俺たちは自由の刑に処せられ、どうすればいいのか、どっちに進めばいいのかまったくわからないし誰も教えてくれない。なのに選択に伴う責任だけはきっちり負わされる。そういう世界に生きている。

 何言ってんだ、当たり前だろうと思う人もいることだろう。

 だが、「選択しなくてもいい楽さ」を求める心を、単に弱さだ、間違っている、と糾弾することは、俺にはできない。それは人間が根本的に持つ思いだ。そこを無視して出されたいかなる理屈も、結論も、非人間的で非現実的であると思う。

 少なくとも本作において〈宿命〉はそう考えた。すべての生命に落着すべき運命を与え、自然とそれに導くために「補正」を与え、先天的に「生きる意味」を与えた。

 こうすれば自分は存在意義を全うできる、という道筋を与えた。

 そして彼らが生きる世界そのものにも、「存在する意味」を与えた。

 〈偶然〉が統べる無意味で脈絡のない世界ではあり得ない救いが、そこには確かにあった。

 もちろん、自由度という点では制限されているかもしれない。〈宿命〉への反発もまた、人が根本的に持つ想いだ。

 どちらが正しいというものでもないだろう。

 『シロガネ⇔ストラグル』においても、〈宿命〉と〈偶然〉のどちらが正しいかなどということに結論は描かない。

 描くのはフィクションの役割についてである。

 言うまでもなく〈宿命〉=フィクション、〈偶然〉=現実、という構図であるが、現実におけるフィクションの受容のされ方、我々がフィクションを摂取する目的について複数の考え方を提示し、何らかの決着を描く。そういうテーマの作品である。であった。

 そもそも我々はフィクションと現実を、まるで対立項であるかのごとく語りがちである。

 しかし、実際はそうではない。

 フィクションは現実を構成する一部である。

 フィクションに「中の世界」なんてありませんよ……ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから……

 紙媒体であれ電子媒体であれ、物語は現実の中に実在しており、それを摂取して感動したこの俺もまた実在するわけだ。じゃあ現実じゃねえか・・・・・・・・・・って話になるんですよ。

 ゆえにあえてフィクションと現実が対立項である世界を描き、そこに生じる矛盾を通じて、これらを分けることの無意味さを描けないか。

 同時に、現実を生きるための手段としてフィクションを摂取するという構造への、ちょっとした疑義も描きたい。

 これに関しては敵役である〈枢密竜眼機関〉におおむね主張してもらう予定だ。つまりはそれなりにどぎつい内容のテーマになるということだ。

 果たして本当にフィクションは現実の代替物としての価値しか有していないのか? 物語を読んだり視聴したりする行いは、「現実で得られない価値をフィクションで得る」とかいう文脈でしか語りえないものなのか? 明日の現実を生きていく活力を得るための、ほんのひとときの休養でしかないというのか?

 もしそうなのだとしたら、俺はすでに小説など読んでいない。

 現実はフィクションでは代替不可能なものであるし、フィクションは現実では代替不可能なものである。

 フィクションでいくら欲求を満たしたところで現実はいささかも変わりはないし、現実でいくら自己実現を果たしたところでフィクションを創造するという行いに対して資するものはない。(異論はあるだろうが俺はないと思っている)

 そうであるならば、現実を生きる獣の一頭に過ぎない我々は、いったいなぜフィクションを読み、書こうとするのか。

 そこには「休養」や「なぐさめ」などとは別次元の何かがあるんじゃないのか。

 あってほしいのだ。

 フィクションが、現実を生きるための手段でしかないなんて俺は絶対に認めたくないのだ。

 本作はそのような思いを込めた作品になるはずだったのだが、

 本番開始前にメインキャラ五名の絆を深める軽めのプロローグ入れとくかぁ! と軽い気持ちで始めた王国編が事前のいかなる想定も越えて肥大化に次ぐ肥大化を重ね、「俺の考えた敵役がこの程度でやられるわけねえだろ」という気持ちが抑えがたく、あほみたいな文字数になってしまった。

 また、アギュギテムやアンタゴニアスなどを知る人には一目瞭然のことと思うが、俺は本来野郎どもが物凄い形相で殺し合う話にしか興味がない人間なので、書く作品もわりとそうゆうやつになる。人は死ぬし、強者も死ぬし、クズも死ぬし、弱者は死ぬし、子供も死ぬ。むしろ子供が出てきたら殺される前フリでしかない。拳銃が登場したら撃たれねばならないし、子供が登場したら殺されねばならない。だって成人男性が死ぬより子供が死んだ方がエモいじゃないですか(真顔)。

 しかし、そんな趣味の悪いストーリーテリングだけを繰り返してit’a true wolrd・・・とかほざくのも一時的に飽きたので、一念発起して光属性の、人間の真善美を素直に称揚するテーマの作品にしようという挑戦心があった。グロと鬱だけがエモなどと底が浅すぎるし狭すぎる。

「え!? 残虐描写も子供の死亡イベントもなしに感動できる作品を!?」

「できらぁ!!」

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 ・・・ゴメンて・・・

 えっと・・・その・・・続きます・・・


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