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戦闘シーン描くために小説書いてるようなところがあるボンクラどものためのバトル描写論考 ~小説を別の何かの代替物として見るのやめろ編~

 承前

 えー、前回語り切れなかったことを語る。

 前置きはカットだ。

・バトルの解説は動作描写の中に埋め込んで出せ

 どういうことか。

 それは「説明文」というものが単独だとダサいという如何ともしがたい事実に起因する。

 この武器はなになに社が開発したほにゃららで、これこれこういう標的を撃破するのに向いている……とかなんとか言う、説明だけで終わっている文章は極力避けるべきだ。まずストーリーの進行がその間止まってしまうし、「設定語りがしたいのか?」みたいな不信感を読者に与えてしまう。

 しかしそれはそれとして武器や技や能力の蘊蓄は入れたい。入れないんだったら何のためにバトル書いてんだかだかわかんねえよ……という諸氏もいることだろう。わかる。わかるぞ。

 ならば、アクションを記述する文章の中にシレっと武器やら技やらの説明を紛れ込ませてしまうのである。

 なになに社のほにゃららが火を噴く。肩に強烈な反動がかかり、一瞬遅れて彼方で爆炎が咲いた。能書き通りの対装甲性能だ。

 みたいなね。蘊蓄垂れるなら、話を進めながら垂れるのである。

 あるいは、別のアプローチもある。創作の文脈で「説明文」という言葉が出てくると、ほぼ間違いなくネガティブな意味合いで言及されている現状だが、しかし俺は言いたい。面白い説明文も存在するのだと。

 それはどのような説明文か。まずバトルの展開に、一見不合理にも思える飛躍を用意する。例えばリアリティレベル高めの世界を描いておきながら、唐突に核兵器の直撃を受けても傷一つ負わない人間! とかいう展開をいきなり出す。すると読者は「いったい何が起こった? こいつは何者だ? なぜ大丈夫なんだ?」と興味を持たざるを得ないだろう。このタイミングでならば、長くて蘊蓄しか情報がないような説明文を書いても、それは立派にエンターテイメントたりうる。それまでの作品の理屈からは絶対にありえない不条理を説明するとき、説明文は迂遠な描写などでは出せない面白みを出す。

 逆に言うと、そこまでの不条理さというかツイストというか飛躍を孕まないような特徴――連射が効くとか装甲貫通性能が高いとか攻撃範囲が広いとか火属性に対する防御力が高いとか――は、説明だけではエンターテイメント足り得ない。

 実際にその性能を発揮しているところを描けばいいだけだ。

・小説ほどバトルを描くのに向いている媒体はない

 最初に白状しておくと、俺はマンガを本気で描いたこともないし、アニメ制作に関わったこともない。ノートの端に棒人間によるパラパラバトルアニメを書いたぐらいだ。めちゃくちゃ面白いがもう紛失した。

 だもんだから、根本的に公平な立場からの意見とは到底言えないし、漫画書き諸氏やアニメーター諸氏からするとまた異なる意見が出てくるであろうことは承知したうえで言うが、やっぱ小説こそが最もバトルを描くのに適した媒体であると思う。

 何故か?

 視覚には表れない概念を直接記述できる媒体だからだ。

 実際に体が動き出す前の、筋肉の内部の動きを他の媒体で表現できるだろうか。もちろん、できる。だが小説ほど気軽にはできない。

 択を迫られた際のゲーム理論的葛藤を他の媒体で表現できるだろうか。もちろん、できる。だが小説ほど簡単にはできない。

 現実には存在しない能力を行使した際の、肉体的・感覚的な手応えを他の媒体で表現できるだろうか。もちろん、できる。だが小説ほど手軽にはできない。

 そして、バトルの迫力を保証するのは、それら視覚には表れない質感であり、概念なのだ。漫画でそれらを表現しようとすると、どうしてもセリフやモノローグやナレーションに頼らざるを得ない。漫画の読者は視覚情報をメインに見に来ているので、そのような手法は洗練されていないと見なされる危険が高い。だが小説を読みに来ている奴はそもそも活字大好きなので、むしろそのような高解像度の質感や概念の描写は好まれる。

 また、別の利点として「文章化は視覚化に比べてイメージの落差が小さくなる」という性質にも触れておこう。絵師は誰しも己の脳内には完璧なイメージを描けているが、いざそれを実体化させようとする段階で、「あれ、なんか違うな……」という思いに誰しも囚われる。これはバリバリのプロ絵師だろうと変わらないので、イメージの視覚化という行いには余人の想像を絶する困難が伴うのだ。だが、一方でイメージの文章化は比較的落差が小さくなる。これにはいくつか理由が考えられるが、「曖昧なイメージを曖昧なまま記述できる点」と、「作者の独力ではなく、読者の想像力も合力してイメージの実体化を行える点」が作用しているものと思われる。少なくとも俺は脳内イメージを文章化する過程で「あれ、なんか違うな……」みたいな思いに駆られたことは、あんまりない。小説の持つこの性質に自覚的であるべきだ。同じシーンを描いたとしても、小説は視覚媒体よりも多くの情報を込めることができる。小説のバトルは、視覚媒体では描き出せないものを描き出すことができる。

 というわけでお前は今後、「小説でバトルシーンは難しい」とかなんとか大した実例もなくイメージで語っているようなやつが現れようと、自らの行いに負い目を感じる必要はない。そいつは要するにバトルにあんま興味がないので、小説がどれほどバトルに向いた媒体であるか気づいてないだけだ。

・完璧な下馬評ミスリードを構築しろ

 大番狂わせはバトルの華である。

 基本的に、戦闘シーンは主人公が勝つことを期待される。読者は主人公に夢や願望を託すものであるし、それはまったく問題ではない。

 だか、「主人公が読者の期待に応えること」と「バトルシーンのクオリティを上げること」は、実は完全に別の評価軸である。のみならず、この二つの評価軸はある程度背反すらしてしまう。一方を立てれば、もう一方については完璧を期することができない。なぜか。

 あれだ、少年漫画で「敵VS敵」のバトルが異様に人気が出てしまうのは何故かということを考えねばならない。

 主人公はだいたい勝ってしまうものであり、そしてバトルは先が読めると切れ味を失うものなのだ。

 それはつまり主人公が関わってしまうと、バトルは決して満点の出来にはなりえないということを意味している。

 ではどうすればいいのか。一番無難なのは、開き直って主人公を戦わせ、八十点くらいのバトルで満足させるということである。恐らくバトル物の99%はこの方策を採っている。ローリスクミドルリターンであり、はっきり言ってこの方策を採用しない奴は愚か者である。

 だが。

 それでも、だ。

 至高のバトルが読みたいし書きたいのである。

 よってこれから俺が述べることは、バトルのクオリティを上げたいがためにストーリーとしてのクオリティを下げようという、本末転倒な趣旨の文章であり、まっとうな判断力を持っているなら真似すべきではない。

・そもそも主人公とかいらなくね?

 なんなんスかあいつ? なんで毎度最後まで生き残るの? マジ萎えるんですけど。

 主人公は読者が物語に入っていくための橋渡し役であり云々とかいう理屈が俺にはわからない。目を覚ませ。その主人公はお前じゃない。お前と何の関係もない人生を送る、何の関係もない他人だ。

 というわけで最初から主人公を設定しなければ、バトルの結果が読めすぎる問題を最初から根本的に解決できる。それが万人に受ける物語になりうるかは別の問題だが!!

・勝敗以外のところにセントラルクエスチョンを設定する

 つまり、主人公の目的を、最初から「戦いに勝つこと」以外の、まったく別レイヤーの何かにしてしまうのである。

 さすればいくら主人公が負けようが特に何も問題はない。「どうせ負けない」呪いから解き放つことができる。ただしその事実は、戦闘中は読者に対して伏せておいたほうが良い。主人公が勝つ気があまりない戦いは、それはそれで盛り上がらない。つまり、一つの作品の中でそう何度も使える手法ではない。

・主人公としての役割を分解する

 どういうことか。

 主人公に求められる役割は、実際のところひとつではなく多義的だ。

 「作品テーマの体現者であること」、「読者の共感の対象であること」、「作品世界を覆う問題を解決すること」、「ラスボスを倒すこと」、「幸せになって欲しいと心から願われること」、――ちょっと考えただけでもこれだけ挙げられる。

 通常、これらの役割を一人の人物が担ってしまうがために、「どうせ負けない」呪いが発生してしまうわけであるが、せっかく複数あるのだからそれぞれの役割を複数の人物に担わせてしまっても良いのではないだろうか?

 どの役割をどの人物が担っているかは、ちょいちょいとミスリードを噛ませればいけるいける!!

 『シロガネ⇔ストラグル』はそうゆう発想のもとに書かれた作品だったりする。

・いっそ正攻法を突き詰めるか

 ごく単純に、敵の方を圧倒的に強くする。

 普通に考えて勝ち目がまったくないように見えるくらいの力関係にする。

 それはもう一般人の子供が上弦の鬼に勝つぐらいの無茶ぶりである必要がある。

 そこまですれば「主人公が勝つこと」自体が驚きの展開となって読者を殴ってくれるはずだ。

 そのためには、意外性と説得力を兼ね備えた方法で主人公が勝つ必要があり、これが難しいと言える。敵が強すぎるがゆえに発生する弱点などを突くと、説得力は出易いかもしれない。

未来へ

 まぁなんかそんな感じで、いい感じにアレしていきましょう。

 バトルに関してここで悩んでるぞ! みたいな声があったら、今回みたいに木・金枠でなんか書くと思う。

 最後に、マイベスト・バトル小説を列挙して本稿を締めくくろうと思う。

『龍盤七朝ケルベロス』

 戦闘描写そのもののワンダーさや脳内再生難易度の低さという点では不動にしてぶっちぎりの頂点。

『Fate/zero』

 個人的にはオールタイムベスト小説。終盤の衛宮切嗣VS言峰綺礼は俺の理想そのもの。

『獅子の門』

 文章そのものに麻薬的な中毒性があり、濃密な格闘描写とともに読者は夢枕中毒へと堕とされる。小説でしか描けなかった物語。

『風よ。龍に届いているか』

 ミニマルで無駄のない、完璧なバトルの組み立てが白眉。一手たりとも無駄な攻防が存在せず、無駄な戦いも存在しない。

 あと一応、拙著もバトルに関してちょっとしたものだと思うので宣伝しとく!

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