#184_【ヘリラボ】来たれ!墓マイラー
昨日書いた記事で島左近の墓に行ってきたことに少し触れましたが、対馬にはいいお墓があるらしいという話をたまに聞きます。
ちなみに、世の中には様々なマニアの方がいらっしゃいますので、「墓参り」という市場はあるのだろうかと調べたところ、規模は掴めませんでしたが、「墓マイラー」と呼ばれる人たちがいるらしい、ということは分かりましたf^_^;)。
私は人様にご紹介できるほどの知識は持ち合わせていませんが、逆に知見がある方からどのくらいすごいか教えていただきたいところはありますので、羅列する感じになりますが、対馬の「お墓」をご紹介していきます。
対馬藩主宗家墓所(厳原・万松院)
ここはもう、言わずと知れた名所ですね。
対馬を治めていた宗氏の墓所になります。
万松院は、初代対馬藩主(19代島主)宗義智(そうよしとし)の菩提寺として開かれましたが、その後代々の藩主、側室などのお墓が建てられ、現在まで続いています。日本三大墓所(※)とも紹介されます。
(※)あとのふたつは、加賀の前田家、萩の毛利家。
素人の目線ですと、息子や孫の墓がデカすぎないか?とか、義成の墓の球体はどうやって造ったんか?、くらいの気づきしかなさそうですが、墓マイラーの方たちは、石の材質や産地、祀られ方などにも着目して見ているそうです。
補足になるか分かりませんが、万松院(当初は松音寺)が開山したときは臨済宗でしたが、後に天台宗へ改宗しています。
対馬円通寺宗家墓地(峰町佐賀)
宗氏のお墓は他にもあるんですか?と尋ねられそうですが、鎌倉時代に対馬に入ってきた時からずっと厳原が中心だったわけではありません。
室町時代前期から1468(応仁2)年に府中(厳原)に移るまでの間は、現在の峰町佐賀に島府が置かれていました。宗貞茂、貞盛、茂職の時代は、佐賀三代ともいわれます。
現在もあります円通寺は、宗家の菩提寺で、墓所があります。
内院の宝篋印塔(厳原町内院・奈伊良神社)
厳原町の南部に位置する内院(ないいん)という地区には、高さ約3mの巨大な宝篋印塔があります。
南北朝時代に造られたことと、すべて花崗岩でできていることは分かっているようですが、誰が何のために造ったのかは謎に包まれています。
島左近の墓(美津島町島山)
島左近は、関ヶ原の戦いの西軍を率いた石田三成の側近です。
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」いわれる、有能な人物だったといわれています(石田三成の能力については、結果論で語られる気もしますので、ここでは触れません)。
関ヶ原の戦いで最期を迎えたという話もあれば、合戦後に京都で目撃されたという話もあり、墓地も数カ所あるといわれ、こちらも謎が深いです。
ちなみに、道路端から5分少々でたどり着ける場所にありますが、山の中がかなり荒れていますので、遭難しないようお気を付けください。
番外編
墓マイラーの守備範囲がよく分かりませんので、人によってお墓に分類しそうなものも集めてみました。
安徳天皇陵墓参考地
お墓が複数あるらしい説でいえば、対馬には安徳天皇陵の参考地もあります。
安徳天皇といえば、源平合戦の最後、壇ノ浦の戦いで入水したといわれていますが、天皇のお墓がどこにあるのかは、全国に十数ヶ所、説があるようです。
八丁郭(厳原町浅藻)
ここ数年、毎年2~3件お問い合わせをいただく八丁角です。
天道信仰の中心人物である天童法師が祀られています。
聖地である龍良山の南側、厳原町浅藻(あざも)にあります。
オソロシドコロとも呼ばれており、その名前がキャッチーだったのか、テレビや本などでも取り上げられています。
裏八丁郭(厳原町豆酘)
裏と呼ばれているこちらは、天道法師の母の墓所といわれており、八丁角から山頂を挟んで反対の北側、豆酘(つつ)にあります。
地名は豆酘ですが、環境省ツシマヤマネコ野生順化ステーションの近くになります。
古墳いろいろ
ここまできますと、墓マイラーと違う分類になるのかもしれませんが、古墳もあります。
お墓参りのアテンドもいたしますので、是非お気軽にお問い合わせくださいo(^-^)。
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