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#70_【廃道を往く】2代目万関橋

なんとなく語呂が良かったもので…(゚∇゚;)☆\(-_-;)。

対馬の地形は山がちであるがゆえに、道路を敷くのが大変な島ですが、近年は土木技術が進歩し、道路の線形が劇的に変わりました。
対馬の場合、多くのトンネルが掘削されましたが、新しい道ができると、旧道は大体使われなくなってしまいます。

トンネルが開通するとよくあることですが、土木工事には、橋もあります。
対馬の場合、対馬島以外の有人島は少なく(対馬には、島が108個あるうち、有人島は対馬島を含め6つ)、大きい河川もないので、橋めぐりをするほどたくさんありませんが、観光名所として紹介される橋はあります。

【よく撮影されるアングルから。】
【橋名板は入口が漢字、出口がひらがなで表記されるのが一般的だそうです。】

こちらは、対馬の上島と島々を結ぶ、万関橋(まんぜきばし)です。

万関橋がある場所は、もともと地続きだったのですが、明治期に入り海軍の竹敷要港部(美津島町竹敷)が創設されると、竹敷から対馬海峡東水道にスムーズに出られるようにするため、1900年に久須保水道(現:万関運河)が掘削されます。
そうなると、陸上を行き来していた人が不便になるため、久須保水道の上に橋が架けられました。ちなみに現在の橋は3代目で、船が大型化したため海面からの高さを上げるよう、少し長くなっています。

【いかに難工事であったか、空から見たらお分かりいただけますでしょうか。】
【久須保水道開通とほぼ同時期に、防御をするための姫神山砲台も建造されます。】

現在の橋が架かるところの東側に、妙な突起物が並んでいるのが目に付きます。これは、2代目の橋が架かっていた名残です。

【現在の橋の手前にご注目。橋の下にアーチがあった名残です。】

2代目の橋が架けられたのが1956(昭和31)年、3代目が1996(平成8)年ということで、まだほかにも名残があるのではと思い、南側から運河に接近してみました。

【昭和参拾壹年参月架橋です。】
【車道の痕跡です。】
【茂みの奥に万関運河が見えます。】

クモとの戦いが大変でしたが、意外に痕跡は残っていることが分かりましたf^_^;)。

そして、北側はこんな感じです。

【ガードレールの奥に欄干が見えます。】
【橋名板です。】

久須保水道の掘削は国家プロジェクトといっても過言ではない大工事であった一方、日露戦争終結後には橋の扱いをめぐって海軍省と地元(大船越村、長崎県)が揉めた話など、おもしろエピソード(当事者からすると、笑えない話ですが)もあり、橋部としてはもう少し歴史を紐解きたいところですが、思いのほか情報が手に入らず苦戦しております。

もしご興味をお持ちいただける方がいらっしゃいましたら、ご参画いただけると幸いですf^_^;)。

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