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交響曲第4番「不滅」②【 C.Nielsen】《私的北欧音楽館》

 ニールセン (C.Nielsen) 作曲
Symfoni nr. 4 “Det uudslukkelige”
(CNW28 ko/1914〜16年) 
 
交響曲 第4番「不滅」op.29

 今夜、9月19日のEテレ「クラシック音楽館」で、ニールセンの交響曲第4番「不滅」が放送されるのにあわせて、なにか役に立ちそうなことを書いておきたいと思います。

 前回は、デンマーク語での「不滅」、uudslukkelig という単語について調べつつ、それだけではデンマーク語のお勉強で終わってしまうので、あいまあいまに「不滅」と同じ頃に作曲された歌の動画を紹介する、ということをやってみました。

 今回はせっかくなので、ちょっとかわった動画を紹介してみたいと思います。

 

・◇・◇・◇・

 

 じゃ、さっそく。
 これ聴いてみてください!

 ……あっ……

 ただし、電車のなかとか喫茶とかで聴くのはやめといたほうがいいで〜す( ̄ー ̄)v。

 

 ………(?_?)

 

 ………Σ(゚∀゚ノ)ノキャー

 

 みなさまお聴きのとおり、

 めっちゃオンチで〜す\(^o^)/

 

 うぷぷぷぷぷ……いつ聴いても、腹筋が苦しい。

 もちろん、プロがわざわざオンチに歌っているものなので、天然物ではございません。
 それに、歌の後半では持ち味の、森重久彌さんのような、渋く味わい深い歌声が楽しめますので、ちょっとだけしんぼうしてみてくださいね。

 もともとの歌はこちら。

 この Skal blomstre da visne? (花は枯れなければならないのですか?)という歌自体も、始まりも終わりも曖昧な、まるで、「なにかの歌から印象的な一節を取り出して投げ込んでみた」みたいな不思議な雰囲気の歌です。
 私自身はこれを勝手に「オルゴール用」とよんでます……つまり、いつでもどこでもが始まりで、エンドレスでリピート可能で、ゼンマイが切れないかぎり、いつまでも終りがこない節回し、ってことです。

 では、もとの動画にもどって。
 それにしてもプロがわざわざ人工的にオンチで歌う、いうなれば「アートオンチ」をするとか、意味不明です。
 しかし、わざわざやる以上、なにか意味があるんじゃないか?、ってかんぐりたくなるのが人情ってものですよ。

 ということで、聴くたびに笑いをこらえながらしばらく考えていたのですが……あるエピソードを思い出しました。
 それは、ニールセンが少年時代の思い出を書き記した自伝、「フューン島の少年時代」にあるものです。

長島 要一  訳「カール・ニールセン自伝 フューン島の少年時代 ーーデンマークの国民的作曲家」(彩流社 2015)
  ※ 以下の引用部分は、この本からのものです。
  ※ 太字は、五百蔵がつけました。

 そこにはこうあります。

 「日曜日には教会で、少しでも音楽的な感覚の持ち主ならだれでも度肝を抜かれる思いをさせられました。かわいそうにその人は完全に音痴だったのです。それ以外には優秀だった人が、自然が彼には授けなかった能力なしにはできなかった仕事から免れられなかったのは気の毒なことでした。オルガンを弾き歌うことが職業のひとつだったため、汗をかきかきオルガンと自分の声と格闘していたので、人は、彼がそれなりに全力を尽くしていることだけは認めざるをえませんでした。だから余計に身の毛がよだつ思いをさせられたのです!」(126ページ)

 ニールセンのかよっていた学校の先生は、教会のオルガニストも兼任していたのですが、そのひとが鬼のようにオンチだったらしいのです。そして、日曜日の礼拝のたびに、集まった住民たちの耳を翻弄しまくったようなのです。読むたびに笑いがこらえられなくなる壮絶エピソードがまる2ページ分書き記されているのですが、そのほぼすべてを、引用してみたいとおもいます(ちょっと順番を入れ替えています)。
 それと、私には基本的に「ニールセンは不必要なことはわざわざしないひと」という信頼があります。だからこの爆笑エピソードも、ニールセンの音楽の原風景として重要で、自分の音楽を理解してもらうために必要だからかいた、と理解しています……そう理解してるんだけど、やっぱり毎回笑いがこらえきれない……(*´艸`*)

 「彼は非常によく透る声をしていて、健康な猛獣が餌の時間にあげる咆哮のようでした。ふだんは落ち着いてまじめで控えめな人だっただけに、賛美歌を歌い始める時の突然の吼え声は、なおさら震撼させられました。」(127ページ)

 ひごろはまじめで、知識人でもある学校の先生が、お腹をすかせた猛獣のような声で調子のはずれた賛美歌を……このギャップがすごい。
 この引用部分をよみながら、あらためてさきほどのアレをどうぞ。

 まさしく猛獣の咆哮です。
 「少しでも音楽的な感覚の持ち主ならだれでも度肝を抜かれる」とはこういうことだったのか、ということが手にとるようにと伝わってきます。
 しかも、ハモンドオルガンでその先生のたどたどしかったであろう指使いをあらわしたり、会衆の苦悶というか音楽そのものの苦悶をあらわしているかのような、ぐぉーんとでもいう響きとか、なんでそんなにことこまかく再現するかなぁ……(^_^;)
 それと。この先生、オルガンなしで歌うとどんどん音がはずれていって、最終的には「音が十二ないし十五音階も高くなってしまい、それ以上は無理なところへいってしまいました」ということなので、このアレンジでは高い音から低い音へと移っていっていますが、そこもきっちり、エピソードをふまえています。

 「(オルガンで)ヘ長調の曲の歌でBをいつまでもHで弾いたり歌ったりしていましたが、もっと驚かされたのは、彼が「その無頓着でかつ大胆不敵なハーモニー」において、またそのおそらくだれもかつて聞いたことのないようなメロディの激しい上昇と下降において、「時代にさきがけて」いたことでした。ある賛美歌を演奏するのに、慎重にもオルガンを弾くのを控えたのはよかったとして、メロディをきわめて低い音から歌いはじめたため、音調が聞き取れませんでした。そしてオルガンを使っていなかったので、途中でメロディが飛び、しまいには四音階も高くなっていました。そこで主音に戻ったら、それはそれでひどいことになってしまうわけですが、実際問題としてできないことではありません。ところが彼は、同じ調子はずれを繰り返し、三節目、四節目と歌っていくうちに、音が十二ないし十五音階も高くなってしまい、それ以上は無理なところへいってしまいました。すると彼は眉をひそめ、ひと休みして大きくものを呑み込む仕草をします。彼の喉仏が上下に揺れ、そこで最初からもう一度、彼が出せるいちばん低い音から再開するのです。簡単なメロディをなんでまたそんなにまで歪んだものにしてしまうのか、不思議でなりませんでした。」(127ページ)

 ……なにひとつ、読者を笑わせようとかねらって書いてるわけじゃないだろうに、もうコレ猛獣の咆哮をBGMに読んでるだけで笑いがこみあげてくる。

 とにかく。
 先生自身は、なんだかへんだと察しつつも、どう修正したらいいかわからない、けど、とにかく日曜礼拝の賛美歌の時間をのりきるしかない、と汗をかきながらまじめにがんばっている……けど、たぶん、がんばればがんばるほど、音楽は「時代にさきがけて」いく……

 まったくもって、もはやドリフのコントです。
 だけどみんな、笑ってはいけない、だったんでしょうね。

 しかも少年時代のニールセンが、

 「簡単なメロディをなんでまたそんなにまで歪んだものにしてしまうのか、不思議でなりませんでした。」

 と、おそらくは困惑しながらもマジメに考察しようとしているのが、さらにツボを刺激します。

 

 さて。
 ここいらでBGMを「不滅」の第4楽章にしますね。

 ヘルベルト・ブロムシュテット指揮
 デンマーク放送交響楽団

 一般的に交響曲というものは、「○長調」「○短調」というふうに、基本の調性がさだめられています。たとえば、ベートーベンの「運命」ならハ短調、「第九」ならニ短調、というふうにです。
 だけどニールセンは、第4番「不滅」をふくめ交響曲については、「○長調」みたいなことを定めていません。音楽のパーツ、パーツにはちゃんと調性……「○長調」とでもいうのがあるんだけど、それがつぎつぎ、ころっ、するっといれかわっていく、ということをしています。それはもう、ところてんが、つるん、とはいってくるような気持ちよさで。
 だけどおかげで楽譜はほぼ1小節ごとに、フラット、シャープ、ナチュラルがいりみだれているような状態で、おばちゃんみたいなオタマジャクシ苦手なひとは、ひと目見ただけでもうゲンナリしてしまっちゃう。
 楽譜の臨時記号はウザいんだけど、そうはいっても耳で聴くと、やっぱりところてんのように気持ちいいんですよね。

 ニールセンがそんな音楽にたどり着いた出発点には、この、いつの間にか音程が高くなっていっている、時代にさきがけた賛美歌があったりするのだろうな、と思います。
 先生の、単純なはずなのに歪んだ音楽を聴きながら、「あ……いらんシャープがついた」「今度はフラットか」とか、頭のなかで採譜しながら、それでもときどき歪みなくドハマりする瞬間があったりしたのかもしれないし、自分で臨時記号を修正して音楽の歪みを正してみたりしてたのかもしれませんね。

 

 ところで、「不滅」は、全部で6曲ある交響曲のうちでは、まったくなにをあらわしているわからない、自分にとっては、チョー魅力的なんだけどチョー苦手な曲で。ずっとどう解釈したらいいか悩んでました。
 そんなこともあって、一時期、「不滅」はこの「時代にさきがけたオンチ」のエピソードをふまえているのではないか、なんて考えてたこともありました。それは単純に、「《不滅》ってときどきパイプオルガンみたいな響きがするから」ってだけのことだったんですが。
 さすがにそれはないよ、といまではおもっています。でも、このエピソードと「不滅」を重ねながら聴いていると、やっぱりニールセンは「不滅」であの「次の展開がまったく読めない日曜礼拝の音楽」を再現しようとしているんじゃないか、と想像したくなる誘惑にかられてしまいます。

 なにせ、「不滅」は一小節先にはなにがおこるかわからない曲ですので。とくにこの第4楽章のしっちゃかめっちゃかさは、ファンにはたまりません。

 

 ここで、まさしく、一寸先はなんとやら……な、時代にさきがけたエピソードをもうひとつ。

 「もうだれの耳にも明らかな音調や和音の差さえまったく区別できず、弾き出す前に鍵盤や自分の指の位置をきちんと確かめずにいたような場合は、左右の手がそれぞれ別の音調で演奏をしてしまうのでした。たまたまそれに気づいたりすると、演奏をぷっつり止めてしまいます。どうなるかわからない荒海に放り出されていた地域教区の人びとは、それなりに歌いはじめていたので、なんとか終わりまでたどり着けたかもしれません。けれども彼はすぐにまた曲を最初から弾きはじめ、そのため信徒の全員が、まるで船体が岸壁に衝突したような衝撃を受けるのでした。」(126 〜127ページ)

 すみません。
 信徒のみなさんが気の毒で気の毒でたまらないんですけど、やっぱり笑いがこらえきれない……なんでこんなにドリフのコントなんだろう。
 くそ真面目なかおででたらめなオルガンを弾く志村けんさんに、なんとか4人のメンバーが合唱でついていこうとするんだけど、最後には全員がズッこける、みたいな。信徒の全員が衝撃をうけたあとに、まるで透明な文字で「ダメだコリャ……」と書きしるしてあるみたい。

 指揮者のヘルベルト・ブロムシュテットさんは、自伝のなかでニールセンをこう評しています。

 「デンマーク人のユーモアはけっして人を傷つけません。けっして辛辣になることはなく、辛口でも同時にあたたかみにあふれています。」(127ページ)

 (「ヘルベルト・ブロムシュテット自伝 音楽こそわが天命」2018年 ARTES)

 この「時代にさきがけたオンチ」のエピソードこそ、デンマークらしい、そしてニールセンの面目躍如たる「人を傷つけない笑い」の好例なのでしょうね。

 んでもってね。
 ニールセンのファンとしていわせてもらうと、「不滅」こそ、音楽の荒海です。とくにこの第4楽章なんて、洗濯機のなかでぐるぐる翻弄されてるような気分になってきます。
 「まるで船体が岸壁に衝突したような衝撃」なんて、それ、まんま、あんさんの音楽きいてるわてらの気持ちやんけ!……と、このくだりを読むたびに、いつもどつきながらツッコミいれてます。

 なんやけど……

 今回、「《時代にさきがけたオンチ》のエピソードを読みながら《不滅》を聴く」っていうのをはじめてやってみたのですが、字面から聴こえてくる音楽とか、信徒のみなさんのパニックとかが凄まじすぎて。
 先生の音楽の聴衆にたいする不親切さとくらべたら、ニールセンなんかはるかにはるかに親切で、だれが聴いてもはじめての人にはトンでもびっくりな「不滅」が、ぜんぜんまともな曲にきこえるようになってしまいました。

 「簡単なメロディをなんでまたそんなにまで歪んだものにしてしまうのか、不思議でなりませんでした。」

 さらっとかかれていたこの一文の深さが身にしみます。
 少年が耳にしていたのは、音楽の歪みだけでなく、歪んだ音楽を歪んだまま聴衆に投げつけていた不親切さ、だったのかもしれません。

 

・◇・◇・◇・

 

 では。
 またぜんぜんべつな動画をば。

 ぺたっ。

 これはニールセンの「小組曲」の第1楽章をアレンジしたものです。

 とにかくですね、ちょいとレトロなサウンドと、ででっで でれれれ……というキーボードの繰り返しがツボります。
 時代に乗り遅れてさびれかけたディスコみたいな雰囲気。宇崎竜童&阿木燿子夫妻が山口百恵さんにかいた歌の登場人物たちがたむろって、踊ってたり、タバコをふかしながらだれかを口説いたりしていそう。

 それと、キーボードのあんちゃんの入りこみっぷりといったら。これぞまさしく、心酔、というやつなんでしょうね。
 あんた、どんだけニールセンのこと好きなんやねん(友だちになりたい)!

 もとの曲はこちら。

 楽譜でみるとよくわかるのですが、でで…っで、でで…っで、というリズムがひたすらくりかえされています。
 そこをつかまえて、あのディスコ調になったとか、The firebirds、なかなかイカすやないですか。

 ほかにも何曲かあるので、興味あるかたはこちらの再生リストからどうぞ。


 これらのニールセンのアレンジを手がけた The firbirds というバンドについては、とにかくデンマーク語のサイトしかヒットしないので、よくわからなかったのが実際のところです。
 もしGoogle翻訳が根本的にまちがってたり、よみまちがえたりしてなかったら、ニールセンのメロディのキャッチーさに注目してあのアレンジになったらしいです。

 ニールセンのメロディがキャッチー、とかいままでかんがえたこともなかったので、これはかなり新鮮な視点でした。
 そこで、「キャッチー、キャッチー……」と念じながら、あらためて「不滅」を聴いてみたら、各パーツはことごとくキャッチーで、投げ込みかたが斬新なだけだ、ということに気がつきました。

 たとえば、この第1楽章のオープニング。
 ハリウッド映画のオープニングみたいにわかりやすくスペクタクル! それとちょっと「トムとジェリー」の愉快で陽気なオープニングにも雰囲気がにてる。

 そしてすかさずくりだされるクラリネットの第一主題(1:35)。
 たしかにこっちが恥ずかしくなるくらい、もろにキャッチーです。そうやけど、めちゃめちゃきれいで、せつなくて、ちょっと涙腺がゆるんでしまう……。
 はじめてこれを聴いたとき、思わず「女神様や……」とおもってしまった。だから私はこれに、「大地の女神様の主題」と名前をつけています。
 世界でいちばん美しいメロディとして、ラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」や、マーラーの交響曲第5番のいわゆる「アダージェット」をあげることを否定するひとはまずいないとおもいます。だけど、「不滅」のこのメロディとくらべると、それらは「ドレスを着飾った美」です。ニールセンが歌っているのは「それでも素顔の彼女がいちばん美しい」ということのように聴こえます。
 だからね、ニールセンが音楽をかくと、感動が「生きている」ということそのものに直結してくるんです。

 トータルとして聴いたら、この第1楽章はなかなか奇抜で、ドッヒャーΣ(゚∀゚ノ)ノ な曲です。だけどあらためて、パーツごとに注意して聴いたら、なにひとつわかりにくくかったり、みょうにこねくりまわしたものなんてないんですよね。
 ただ、投げ込みかたが斬新なだけ……ていうか、「モチーフをつなぐ」とか「要素を組み合わせる」とか「メロディを重ねる」とかでなく、「パーツを投げ込む」と表現させてしまう時点で、すでに斬新なんですって!

 

 もうひとつ。
 めちゃくちゃキャッチーでわかりやすいけど鬼斬新なやつを。

 ね、めっちゃアラビアンでしょ!
 んでもって、めちゃキャッチーで、わかりやすいでしょ!

 これはもともと、歌ありバレーありの超スペクタクルな劇……になる予定だった「アラジン」の劇音楽からの、「イスファハンの市場」
 劇自体は、残念ながら、大規模過ぎて予算が不足しておじゃんになったらしいです。だけど、そのなかから何曲かえらんで、組曲のようにして演奏するのが、ニールセンは気にいってたみたいです。

 この曲の特異性は、楽譜をみるとよくわかります。
 「イスファハンの市場」は、12:03ぐらいからはじまります。

  いきなりみると、この楽譜、なんこっちゃかわかりません……!
 なので、解説しますね。

 まず、この曲は4つのメロディでできています。

 第①のメロディが、オーボエで演奏される、コーランの詠唱のようなメロディです。
 つぎに、第②のメロディが、弦楽器ではいってきます。The firebirds のアレンジではクラリネットになってます。これはたぶん、市場の賑わいをあらわしてるんじゃないかな。
 そこへ、トランペットとティンパニによる第③のメロディが、闖入してきます。The firebirds のほうでは、これはほぼ、サックスとドラムとキーボードの殴り込み。やんごとなきお方か、お大尽かの行列がにぎにぎしくもきらびやかにいきなり前を横切ってきたような感じです。それとも異国の珍品を満載した象の行列かなにかかしら?
 そして、第④のメロディ……ていうか、ピッコロのピロピロと銅鑼のズガーン。これはきっと、あまりに人が多すぎて喧騒で耳がキーンてなるとか、地鳴りがしているような気がするとか、頭がぼーっとしてきてくらくらなるとか、そういうアレ。

 この4つが、順番にはいってきて、各楽器奏者が割り当てられたメロディを何度かくりかえし、順番にきえていきます。
 楽器の数がすくないぶん、The firebirds のアレンジ版のほうが全体像をつかみやすいとおもいます(*^_^*)。

 ハーモニーが破綻しないように作られている(と思う)のですが、各自全く別個の音楽です。拍子も、①と③が4分の3拍子、②と④が4分の2拍子です。
 各パートが独立して勝手に音楽を進めていくので、はっきりいって、指揮者ができる仕事がありません。各メロディの入りと終わりを、ちょこっと指示するだけです。YouTube には演奏会の動画がいくつかあがっているので、興味のあるかたは探してみてみてくださいね。ほんっとに指揮者が「立ってるだけ」なんです。
 ついでに、各メロディの演奏について、楽譜では、「○回繰り返す」ではなく「○分くらい演奏する」と指示されています。これってつまり、役者その他のスタンバイの状態によって、長くもできれば短くもできる、ってことですよね?

 

 ちょっとちょっとニールセンさん、あんたなにしてくれてんねん……ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ(苦悶のあまり畳で悶え転がりまくっている)
 めちゃくちゃブッとんでんじゃん!
 なんだよこのわかりやすさとブッとびっぷりのギャップはッ!……ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ(なんかもうかっこよすぎて畳で悶え転がりまくっている)

 なんでこうなったか心のなかでニールセンに質問してみたことがあるんですが、「えっ、だって、街のにぎわいってそういうもんじゃん」としれっとかえされました……あくまでもこころのなかで勝手に問答しただけ、ですけど。
 でもね。先週だったかな、もうすぐ空が白むかというときに目がさめて、家のそばの草むらで盛んに虫が鳴いているのに、遠くの幹線道路からは早朝の出勤か配送か、車のゆきかう喧騒がうっすらと聴こえてきて。そろそろ、ここに新聞配達のバイクの音がかさなって、遠ざかっていくのかな……なんて想像してたら、ほら、まったくもって「イスファハンの市場」でしょ。
 音の風景って、層になって重なりながら別々に流れている。

 ニールセンはロマンではなく、自然科学者のような観察の目でもって、イスファハンの賑わいを音楽として構成しただけなんです。「市場の賑わいってこんな感じ」と、人間が頭のなかでこしらえた像で描くのをやめて、もとにもどしただけなんです。
 つまり、

 「簡単なメロディ(= 生の環境の音)を
 なんでまたそんなにまで歪んだものにしてしまう(= 頭のなかでこしらえた像をなすりつける)のか、
 不思議でなりませんでした。」

 を実行したらこうなった、ということなのだとおもいます。

 むしろ、もとにもどしただけのことを「斬新」と感じてしまうくらい、頭のなかでこしらえた像で描くことに慣れきっていたことに、私たちがびっくりしなきゃいけないんじゃないでしょうか。

 

 もうひとつ。
 おもしろいからぜひ実験してみてほしいことがあります。

 「宿泊していたホテルの部屋で聴こえてきたアザーン」みたいな動画で、リアルなアザーンをいっぱいきいてから、もういちど、「イスファハンの市場」を聴いてみてください。第①のメロディのオーボエがアザーンそのものにしか聴こえなくなります。
 このコピー能力、すごいです。
 江戸家猫八さんの鶯どころじゃない、襖に描いた雀が出てきて遊び踊りだすレベルのコピーです。

 「イスファハンの市場」は、ライヒ「シティ・ライフ」(1994年の作品……って、めちゃくちゃ最近じゃん!)と似てる、と感じるのですが、ライヒはこの曲で、たしか「Check it out」というタクシードライバーの声をサンプリングしています。だけどニールセンのはいわば、「録音機器なしでアザーンをサンプリングしてリピートしている」ようなもので。

 もう、先取りしすぎて、最先端どころじゃないッすよ、これ……ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ(ちょっとこわくなってきつつ畳で悶え転がりまくっている)

 しかも奇をてらうためのサンプリングじゃないんです、たぶん。「え、イスファハンって時間がきたら、こんな感じでアザーンが聞こえてくるんだよね」みたいな、野草を採取して押し花をつくるノリでやってるんだとおもいます。
 これもまた「簡単なメロディをなんでまたそんなにまで歪んだものにしてしまうのか、不思議でなりませんでした。」ということの実践のひとつなのでしょうね。

 もう、悶えがとまらん……ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ……

 

・◇・◇・◇・

 

 以前、NHK交響楽団パーヴォ・ヤルヴィさんの指揮で、ニールセンのフルート協奏曲をとりあげたときのことです。
 この協奏曲自体が、フルートと同じくらいティンパニとトロンボーンが活躍するという、実験的な音楽です。それだけでなく、そのティンパニとトロンボーンがソロ奏者と斜に向かい合えるよう、右奥に配置されていて、そのアイデアにびっくさせられました。

 参考までに……
 この動画の演奏会では、ふつうの楽器配置で演奏されています。

 さらに、この次にシベリウスを演奏したのですが、「交響曲第6番と、単一楽章である第7番をひとつづきの曲として演奏する」という、パーヴォさんのアイデアによる実験までなされて。
 コンサートって、「むかしの良い音楽を堪能する場」だと思ってたけど、そうじゃなかったのね、「音楽の実験場」だったのね、と刮目する思いがしました。

 そう、ニールセンとシベリウスが現役で活躍していた時代、かれらは新しい音楽の実験として、自作の新作をコンサート会場に投入していたはずです。
 「不滅」も、新たな実験として、演奏され世に送りだされたはずです。今夜の放送では、そんなことも思いながら鑑賞してみたいと思います。

 

 だけどね。
 ここでもういちど、「時代にさきがけたオンチ」だった先生のことを思い出してください。
 毎週の日曜礼拝は、見方をかえれば、「週刊 現代音楽の実験コンサート」です。
 そして、「時代にさがけたオンチ」のエピソードは、それが実際に試行されたプログラムの一部なのです。

・左右の手がそれぞれ別の音調で演奏をしてしまう
・ヘ長調の曲の歌でBをいつまでもHで弾いたり歌ったり
・無頓着でかつ大胆不敵なハーモニー
・おそらくだれもかつて聞いたことのないようなメロディの激しい上昇と下降
・健康な猛獣が餌の時間にあげる咆哮

 「ヘ長調の曲の歌でBをいつまでもHで弾いたり歌ったり」というのは、ファソラドレミファ、のにはフラットをつけて黒鍵(B)を弾かねばならないところを、ずっと白鍵(H)を弾いていた、ということです……うん、これはたしかに気持ち悪い。

 このような、誰も試したことのないような、そしてまちがいなく斬新で、身の毛のよだつような音楽に、毎週のようにさらされる、だけでなく、賛美歌の歌い手として参加させられる。信徒たちにとってその苦痛はどれだけのものだったことか。
 それゆえ、自らの音楽の実験をするにしても、聴衆を苦痛にさらすわけにはいかない……とニールセンが考えたとして、なんの不思議もないのではないか。だからこその「キャッチーさで斬新さを包む」という作風だった、と考えることができるのではないでしょうか。
 だけど、そのキャッチーさが斬新さの目くらましになって、ニールセンのやってることの空恐ろしさが見えなくなってるとしたら……もったいなさすぎる。

 実際のところ、ニールセンは、ソリストと作曲家の対話であるバイオリンやピアノの独奏曲については、斬新さをもろに出しています。
 交響曲については、第4番「不滅」を皮切りに、斬新さを表にだしていっています。が、なかでも「不滅」は、「斬新さ」と「聴衆への配慮」のバランスが、かなり「斬新さ」側に寄っているかな、と思っています。

 

・◇・◇・◇・

 

 はじめは、ちょっとおもしろいエピソードが紹介できたらいいな……くらいの気持ちでかきはじめたのですが、これ、笑い話として上質であるだけでなく、ニールセンが音楽の送り手と受け手の関係をどう考えているか、奇妙な形に歪んでいく同時代の音楽をどう見ていたのかがうかがえる、意味深なエピソードでした。

 あとひとつ、紹介できてないくだりがあるので、せっかくなのでここで紹介しておきます。

 「階上にあったオルガンのところではなく、下の祭壇ではもっときまり悪いことがなされました。合唱隊と一緒に立つため、いっそう目立ったからです。賛美歌を歌うのに歌詞をまちがえてメロディより長く歌っていたり、かと思うと、各節の最後の音を過剰にもったいぶって歌い、そんな時には天井に向けた視線を徘徊させたりするでした。」(127ページ)

 これも、さらっと読めばそれだけのものなのですが、「簡単なメロディをなんでまたそんなにまで歪んだものにしてしまうのか、不思議でなりませんでした。」という一文とあわせ読むことで、ニールセンはメロディを過剰に装飾することを嫌っていた、ということをうかがうことができます。
 交響曲第6番と、それに続くフルート協奏曲クラリネット協奏曲は、「管弦楽による俳句」というほかない、削り込まれた音楽です。わびさび、とか、枯淡、ということばがにあうほどのシンプルさの出発点も、幼い日に、毎週、強制的に参加させられた「時代にさきがけた音楽実験」にあったのかもしれませんね。

 

 そうそう、N響がフルート協奏曲をやったとき、ティンパニには、ダブル主席奏者のどちらが起用されているのか、わくわくしてたんですけど……久保昌一さんでしたね。久保さんの、抑制の効いた、感情をうちに秘めた渋い響きは、まさに、枯れた風味のあるフルート協奏曲にはうってつけでした。
 とくに、エマニュエル・パユさんの独奏フルートに、ティンパニが延々と長く続くトレモロで絡んでいくくだり、ティンパニの緩急が、女房役とでもいいたくなるほど絶妙でした。能楽のいち場面を目の当たりにしているかのような、抑制された緊張感が素晴らしかったです。

 今夜の「不滅」では、植松 透さんがマレットをもつわけですが、久保さんが渋く内向的なのとは対極の、外に向けて花開いていくような植松さんの艶のある音色はまさに「不滅」にふさわしいと思います。

 海外オーケストラの演奏会の放送を聴くとき、どうしてもティンパニに注目してしまうのですが、無味乾燥な音で叩かれることがほとんどで、このおふたりのように個性の立った音色を奏でる奏者にはなかなか出会えません。
 渋さの久保と艶の植松は、N響の宝です。このおふたりのティンパニによるニールセンをもっと聴きたい!

 

 私は最初のほうで、

 私には基本的に「ニールセンは不必要なことはわざわざしないひと」という信頼があります。

 と書きましたが、これは、長い間ニールセンの音楽を聴くうちに、かれの音楽によって自然と涵養された信頼です。
 だけどそれはそもそも、ニールセンが過剰なものを付加していない、素のままこそが素晴らしい音楽をかいていたからであった、とこの記事をかきながら気づかされました。

 「簡単なメロディをなんでまたそんなにまで歪んだものにしてしまうのか、不思議でなりませんでした。」

 このことを世の人に伝えるために、「時代にさきがけたオンチ」のエピソードを語ることが必要だったのでしょうね。

 

 なんだかさいごはとりとめのないおしゃべりになってしまいましたが……。
 今夜の番組鑑賞の参考に、すこしでもなりましたらさいわいです。

 


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いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。