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景観はタダではない

 先日、ふだんは走らないような道……市町村道のうちでも使うひとがほとんどいないようなか細い山道を十数年ぶりにドライブしてきましたが、しょーげきで目玉が飛び出そうになりました。

 荒れがマジでヤバイ(´゚д゚`)

 当時でもすでに過疎化の進展により放置されたスギの人工林がちらほらと見え、あまりかんばしくない印象だったように記憶しているのですが、なにがしょーげきって、

 スギの放置林に竹が参戦して
 グチャグチャになっちょる(´゚д゚`)

 ご想像どおり、それは針葉樹林だけではありません。
 広葉樹が生えてるゾーンもけっこうー竹に侵食されてグチャグチャになってました。また、この竹がですよ。手入れされてないからギチギチで、斜めに生えたりあっち向いたりこっち向いたり、もうわけわかんない状況。
 竹林って、ほら、真っ直ぐな緑の幹が平行に立ち並ぶ隙間からチラホラ向こうが見えるようで見えないところが魅力だったりするじゃないですか。御簾の向こうにやんごとなき存在が訪れているかのような神秘性、それが竹林の美の真骨頂です。だけど、野放図に放置された竹林は向こうなんか見通せません。竹製の畳かーいΣ(゚∀゚ノ)ノ……ってぐらい密で(しかし、畳のような秩序は無い)、たとえるならば、妖怪ぬりかべ。
 もしかしたら、ヘッダーにお借りした写真はまだまだ健全な方なのでは……と錯覚しそうになるくらいの惨状でした。

 ひと目見て、

 この竹林、崩壊してます

 と、ズブのしろーとでもわかるレベル。
 竹炭作りや竹の割り箸作りやら、そんな地道でエコな地域おこし活動ではとうていおいつきそうにない面積と体積のグチャグチャ。ていうか、育ち方が悪くてたぶん箸にはならない。マジで、これはもう、いっぺん山火事にでもなって全焼するしか解決策がなのでは……と妄想してしまうレベルでぼうぜんとしてしまいました。


 なかでもやはり悲しいのは、針葉樹の人工林が竹に侵食されている図です。

 我が子が一人前になってまとまったお金が入り用なとき、たとえば家を新築するとき、自分には孫になる子どもたちが進学したり結婚したりするとき、何十年も先にドカンとした収入になることを見越して、学校のグラウンド1枚にも満たないような狭い山肌を買い、スギを植えていた(ちなみに、うちの母親も義父も、そんな狭小な植林地を親から受け継いでいました……どこの山にあるかも知らないし、たぶん、放置林になってると思います ← これが生まれながらに街に住む孫の代のリアルな認識)。
 だけど、跡継ぎは都市部へ流出してサラリーマンとなり、とてもじゃないけど山仕事の余裕はない。我が子のためにとずっと植林の世話をしていた親も老い、かろうじて続いていた世話も途絶え、結局残ったのは間伐も枝払いも不十分な、売り物にならないひょろひょろの人工林……これが、私が大学時代、過疎化・高齢化の進む山間部がすでに抱えていた課題としてゼミの教授から学んだことでした。
 そしてこの30年間、まったくといっていいほど解決を見なかったどころか、さらに深刻なフェーズ、竹林の乱入という事態に突入していたとは。

 超ショックじゃ……_| ̄|○ il||li

 これぞまさしく失われた30年。
 というよりほかはなく。

 さながら、ずんぐりとしたトッポ(= スギ)とひょろ長いポッキー(= 竹)が入り乱れてグラスにぶち込まれているかのような惨状。景観がこのように荒れるまでにいたるには、おそらくは、さらにこんなシナリオがあったのではないかと想像しました。

 サラリーマンの仕事が忙しくても、楽しみもかねてタケノコ採りにはきていた息子。それによってなんとか、植林に竹の地下茎が侵入するのを防いでいたけど、息子も年をとり、孫世代にまで山の世話を頼むわけにもいかず……。
 あるいは、その地域の住民自体が流出して、そこらへんの竹林のタケノコを採るひとがほとんど誰もいなくなり、竹の地下茎が……。

 そんなに大儲けできなくても、しみじみと山で稼いで暮らしていける。
 そんな社会体制を構築できていたら、こんな悲惨な景観が山間部で見られるなんてことにはそもそもなっていなかった。
 しんどいし、先も見えない、けど、地元が好きだから残ってる、というひとたちの地元愛を支援するような新たなビジョンを打ち出すことも無く、それどころかその愛情深さに国がフリーライドして放置して、いまこうなった。そのことを私はここで強く指摘しておきたいと思います。
 ついでながら。
 国民のやる気にフリーライドして放置するのは、この国の政権の伝統芸能ですよね。教育然り。福祉然り。伝統工芸然り。少子化然り。里山も教育も担い手がいなくて危機に陥っている、そして、若者たちは親になりたがらなくなった、しかも、同時期に深刻さがクローズアップされ……というのは、偶然でも何でもなく、必然のなりゆきというものでしょう。


・◇・◇・◇・


 景観はタダではありません。
 ことに田舎の景観はそうです。

 そこに暮らす人がいて、暮らしにくさを解決するために、木を払い、草を刈り、生活の一環として保持されているのが、日本の原風景です。

 声を大にしていいます。

 田舎の「日本らしい景観」を成り立たせている基本は、
 そこに住み着いている《人》です。

 《日々そこに暮らす人》の手入れなくして、美しい景観はありえないということを、針葉樹の人工林に侵入してお互いに台無しになっている竹が物語っていました。

 竹林の美は日本を代表する美のひとつです。
 日本らしいミニマルや禅味を説明したいなら、ただ十分に手入れされた竹林を見せたらいい。
 note のみんなのギャラリーでも、健やかな竹林の写真が幾多もアップされています。それだけ、みんなが竹に魅了されているということです。
 だけど、トッポもポッキーもいっしょくた、みたいなグチャグチャに至るまで放置されてしまっては……あまりにも竹がかわいそうではありませんか。
 竹の繁殖力は旺盛です。だけど、人間がタケノコを採って適度に間引きし、地下茎の前進を抑制してやらないと、年々芽生えたすべてのタケノコが成長して密になり、地下茎をのばして周囲の木々を圧迫し(下手をすれば集落内にも侵入し)、竹みずらも自滅といえる惨状を呈すのだ……ということを、地元の景観の悲惨なあり様から痛感しました。


 先日、遅ればせながら宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を見てきましたが、ネタバレを恐れず端的にいうと、「美しい画像だけ見るな。現実はまったくもって醜く、飲み込み難い」ということがテーマだったと考察しています(逆に、「アニメだからこそ描ける非現実な現実(ただし、目を背けたい事象込みで)」もまたテーマだったと思います)。
 みなさん。みなさんが観光地で巡る健やかな竹林、あるいは端末の画面に映し出される美しい竹林の映像、それは、この日本の景観のほんの上澄み。美味しい季節の恵み、タケノコだって、つかの間の幻想。みなさんの目の届かぬ背後には、猛烈な竹の成長速度と同じ速度で、もはや取り返しのつかぬレベルにまで荒廃していっている山間部の自然が広がっているのです。

 そして、もしこの記事がマスコミの誰かの目に入ったならお願いしたい。荒れ果てた放置竹林の現状にこそカメラを向けてほしい。広く知らせてほしい。
 そして伝えてほしい。
 震災でダメージを受けた能登の人々に対して、「山間部にお金を費やしてもムダ」などという声がチラホラとでもあがるような国。自然災害という避けようのない困難、人生で最も困難な事態に陥っている人々に、梯子を外すような声をなげかける国で、誰が誇りをもって、美しい日本の原風景を守りつつ、暮らしにくい山の中で、あえて暮らし続けてくれるだろうかと。


 くりかえしていいます。
 景観はタダではありません。

 景観は人が作るものです。
 だけど、景観を維持しながらそこで生きていくにはお金がいるのです。

 しかるに、なぜ山でお金、生活の糧を稼げなくなったのか?
 それは社会のなりゆきがある一方で、木材の輸入自由化、という政治的な背景が存在することを指摘しておきます。
 本当に欲しいのは、その場しのぎの補助金ではありません。しっかりと山で稼げる社会に変化する、景観保全を視野に入れた新しい経済ビジョンを「国が持つこと」です。だって、警告や提言自体は、この数十年間のうち、地方や研究者から数多と打ち出されているはずなのですから。現場を知る良心的な農水省官僚だって、政策として実現させようと努力してきたはずだし、つつましいながらも活性化に取り組んできた地域や団体だってすくなくはない。そう、ビジョン自体はすでに存在しているも同然。
 問題なのは、いつまでたっても国政の方向が変わらないことです。

 これからも日本に、かぐや姫の幻影を重ねることのできる「美しい国」であってほしいと願うなら、奥深い山の中で暮らしていても、食べていくのにこれといった不自由をすること無く暮らしていける国、いまからでもいいからそんな国に変えていかねばなりません。
 それは不可能ではありません。
 だって、30年前には夢物語、変人の主張だった夫婦別姓、女性差別の解消、同性愛者の地位向上が、世論の変化と広がりとともに、いまや手の届くものとなっているではありませんか。
 それが、農山村の過疎・高齢化解消の分野では実現できてないのは悔しいけど。だけど、田舎の良さに目が向きつつあるいまの時代は、やっと到来した世論を変えるチャンスなのではないか、と思っています。

 無力な私でも、このnoteという場を使えば、声をあげられる。
 これはかつて30年前には得られなかった僥倖です。
 恩師からは「無理をして山に定住しろということではない。それぞれの暮らしの場で、学んだことを伝えるのがお前らの役目だ」といってもらってたけど。
 とにかく。
 学んだことがすこしでも無駄にならなくてよかった。無駄にせずにすむ時代になっていることに感謝しつつ、この記事を書き終えたことを付記しておきます。



追伸。

 この記事を書き上げたのは、実は、先日のタケノコの記事より先。消滅可能性自治体云々の話のほうがあとから出てきて、偶然のシンクロにびっくりしてます(@_@;)
 ついでながら、地方の自治体の消滅については、《限界集落》の提唱者である大野晃先生が、「個々の集落の限界集落化の次に来るのは、地方の市町村の《限界自治体化》。それを食い止めるためにも、国も地域も、いますぐに、限界集落化を食い止める手立てを打て」というようなことを、古くから主張されています。
 学生当時からそれを知っているだけに、今回の報道は、何を今更、しれっと持ち出して……というのが正直な感想ですし、危機が放置されてきたことを指摘もせずに、「それも時代の流れでやむなし。各自治体で頑張ってくれ」とでもいうような態度をとるのは、人として恥ずかしい、という認識です。なんというか、自治体に対しても《自己責任論》をもちだすんですか?、という皮肉で嫌味な感想をもっています。
 
 さらに私見を付け加えると。
 女性の定住がないことには、地域の後継者たる子どもを誰も産んでくれない、という論点が理解できないわけではありません。ですが、それってほんとうに、「女性が」問題なのでしょうか?
 そもそもの問題点は、自然の恵み豊かな日本で、林業や農業、漁業で食っていけなくなっているのは何故か?、です
。これは、過疎化が取り沙汰し始められた何十年ものあいだ、一貫して変化してないはずです。
 この間の国の無作為を反省することなく《女性》に焦点をあてようとするのは論点をそすため、なぜなら、国は根本的な解決を図る気がないから、と私は感じています。そもそも食っていけない地域に、女性はおろか、男性だって定住してはくれません。そして、そもそも食っていけないようになった根本あるのはなにか……もう、ここではあえては言葉にしません。

 



 




 

いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。