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劉邦のもう一人の軍師・陳平

皆さんこんにちは。ただのオタクです。
最近めっきり暖かくなってきましたね。
僕はもう昼は半袖で過ごしてるんですけど、夜はまだ冷えてちょっと服装に困ってたりします…。

さてさて今回は劉邦(りゅうほう)の軍師の一人「陳平(ちんぺい)」を紹介していきたいと思います。
前回紹介した賈詡(かく)で少しだけ触れさせていただきました。
評されただけあって賈詡と結構似たような処世術と言いますか、立ち回りが似ているところがあります。
大きく違うところは、主に疑いをかけられているところでしょうか。
しかし、一国の主なら当然のことだと思います。というのもやはり主より才があるとどうしても「裏切られたら…」と思われても仕方がない所があります。

ドラマ「三国志ーThree kingdomsー」でも曹丕(そうひ)が病床に臥せった時見舞いに来た司馬懿(しばい)に尋ねるシーンがあります。
「其方が軍権を握ったら誰が其方を止められる?」と司馬懿に問いしばらく2人は見つめあいます(決して腐女子が喜ぶシーンではありません笑)。
そして司馬懿は軍権を生涯握らない。と曹丕に答えます。その様子を見た曹丕は後事を託す一人として選び上から三番目の地位を与えて息絶えてしまいます。
とまあ話は逸れてしまいましたが、一国の主と言うのは才能がある配下は万が一を考えてしまうものだと思うんです。

ーー若き頃から劉邦に仕えるまでーー

陳平は小さいころから勉学に励んでいたと言います。そして兄(名前が不明)はそんな陳平を応援していて家業を手伝わせることは無かったと言います。
それに不満を覚えた兄嫁が堂々と文句を言っていたら兄は怒りそのまま離縁されてしまったと言います。
身内のこれまで期待されていた陳平は成人すると張氏という人物が孫娘の嫁ぎ先を探しているという話を聞きます。
この孫娘というのは5回も夫と死別している為、縁起が悪いと誰も手を挙げなかったと言います。しかし、陳平はこの女性を見て是非嫁に欲しいと考えます。
すると陳平は貴族が乗る馬車の轍の後を幾重にも作っていかにも人の交流が多いと思わせます。
これを知った張氏は陳平を気に入り孫娘を嫁がせます。これを機に家が裕福になると本当に人との交流を積極的に始めました。
その甲斐あってか祭りを取り仕切る役職を与えられ、きっちりこなし誰にも不平不満が出ないように手配しました。
しかし、これに一番の不満を覚えたのは陳平自身でした。
「こんな肉ではなく天下を与えられれば上手く裁いてみせるのだが」と嘆息をついたという話もあります。

そして賊との立まわりであったり、当時の魏王である魏咎(ぎきょう)に一時的に仕えた際に進言したことにより名声を高めもしましたが魏咎や項羽(こうう)にも追われることになってしまいます。
項羽から出奔しているところ旧知であった魏無知(ぎむち)という人物と会い、魏無知が仕えていた劉邦にそのまま面会。お互いに認め合い陳平は劉邦に仕えることになります。
劉邦は項羽側に付いていた時の同じ役職に陳平を任命しました。しかし、いきなり役職を与えるという厚遇に古くから仕えていた人達は不平を漏らします。

しかし部下たちの不平を一蹴していた劉邦でしたが、「彭城(ほうじょう)の戦い」で劉邦が大敗すると部下たちが「魏にも仕え、楚(項羽)にも仕えて古郷では兄嫁にも手を出すような輩です。それに今では賄賂も受け取っていると言います」と品行の無さを訴えられます。
これに流されてきた劉邦は陳平を推挙してきた魏無知に問うことにします。
すると魏無知は「私は陳平の才能を推挙したのであって徳を推したのではありません。今は項羽と覇権を争っている時ですので才能ある人物を推挙したまでです」と答えられます。
陳平自身も「魏も楚も私の進言を一切聞き入れることは無く我が君は分け隔てなく部下の意見を用いると聞き、会うことを決めたのです。賂を受け取ったのは無一文で仕えたためどうしても金銭が必要でした。私の計略が用いるに足りぬものなら金品・官爵も返上し暇を頂戴したいと思います」
この弁明を聞いた劉邦は陳平に謝罪します。そして改めて官爵を陳平に与えてこれまで通りに接し、これを聞いた臣下は誰も何も言わなくなったと言います。
でも冷静に考えると魏無知の進言ですけど、推薦したのは陳平の人格じゃなくて謀略の才能ということですよね。酷い!!って最初思いました(笑)
旧い知り合いに対して真っ向から人格を否定しているこの話笑うところじゃないとは思うんですけど、吹き出してしまいました(笑)

そして程なくして項羽との戦中、滎陽(けいよう)という城に籠城することになります。俗に言う「滎陽の戦い」という戦です。
この時項羽に仕えていた過去を持つ陳平に意見を聞くと、「項羽は疑い深く身内の意見しか重用しません」と離間の計を提案します。
劉邦はこの意見を採用し、多額の金銭を陳平に与え策を実行するように指令します。
才能があり後々漢にとって弊害にしかならない人物に対して功績を上げても恩賞を貰えないため不満をもっていると流言を飛ばします。
特に項羽の腹心である范増(はんぞう)には念を入れて一計を巡らします。
楚から漢に送られた使者を誠心誠意もてなし、范増と劉邦が仲が良いように振る舞い、使者が「私は項羽の使者です」と告げるとすぐに粗末な席に変えて対応します。
これを聞いた項羽は諸将にさらに疑いを抱くようになり、范増は失脚、左遷します。そして移動中に范増は憤死してしまいます。
遂に楚の智謀の臣である范増が斃れ勢いは漢に向きます。

しかし滎陽の包囲が変わらず金蝉脱穀(きんせんだっこく)の計という計を実行します。
偽物の劉邦を楚の攻囲軍に向かわせ、降伏の意思と考えた楚の兵は喜び油断したところに本物の劉邦が反対側から離脱するという計略です。
これに形成を整えて項羽との戦に臨みます。
因みにこの時城に残った2人の将軍を陳平が推挙、「彼らなら死を厭わずに戦うでしょう」と推しますがもう一人前に仕えていた魏王の従兄弟を残すように進言。
この男は裏切ると思われていてこれを名目に裏切りの芽を摘もうと献策したわけです。こういうところが陳平の参謀としての影の部分のような気がしますね。
結果企ては見事に成功し籠城戦の最中裏切りの疑いをかけられ、邪魔だと思われ殺されてしまいます。
しかし、城も陥落し勇敢に城を守った2将軍も処刑されてしまうことになってしまいます。

ーー前漢の建国と呂后との闘いーー

配下でもあり天下無双と謳われた韓信という人物が斉王を名乗らせてくれと劉邦に進言する事件が起きました。
これに劉邦は激昂。「今こんなにも苦しい時に何を言っているのだ!」と。しかし、ここで陳平が劉邦の足を踏んで諫めます。
「ここで韓信が斉王をなることを認めなければ独立し、楚と結ぶかもしれません。そうなればこの国の存亡の危機です」と言い。前に紹介した張良もこれに同調します。
劉邦は部下に足を踏まれた衝撃からか(笑)これに納得します。
その後項羽に勝利し、前漢が興ります。この時劉邦は陳平に「そなたの功績は大きい」と褒めますが、陳平は「私を推挙してくれた魏無知がいなければ私はここに居ませんし、疑われた際も魏無知が擁護してしてくれなけば命が無かったかもしれません」と人格を否定した旧友を褒めます(笑)
これに喜んだ劉邦は陳平だけじゃなく魏無知にも褒章を与えます。

その後何年にも因縁がある匈奴(きょうど)という部族の単于(王)にとの戦に対して何の策かは伝わっていませんが、功績があったと言います。
一説によると単于の妻に対して、漢の美女を単于に与えるという流言を飛ばしその嫉妬心に付け込んだものだという話もあります。

そして劉邦の晩年。盧綰(ろわん)という皇后の妹婿である人物が謀反を起こします。樊噲(はんかい)という人物を討伐に派遣しますが、部下の諫言によって樊噲に疑いを持った劉邦は陳平を向かわせ、捕えて殺せと命じます。
しかし、皇后である呂雉(りょち)の縁戚であることが気にかかり結局捕えるだけで劉邦に伺いを立てることにしました。
帰途に付くと劉邦の崩御の知らせを受けた陳平は急いで帰還し劉邦の棺の隣で一晩泣き続けます。これは本心もあるかもしれませんが、呂雉に目を付けられないためでした。

この後呂雉とその一族の専横が始まりますが、先の計略もあって左丞相(さじょうしょう)に任命されます。
左丞相というのも三国時代には曹操が丞相として任命されていますが、この丞相を左右に分けて右丞相(うじょうしょう)に実験を与えて左丞相はお飾りのような状態で設置されています。
しかし右丞相として赴任していた人物が呂雉と対立してしまい、退任に追い込まれ後任として陳平が赴任します。

呂雉の娘の呂氏が「右丞相は日頃女にだらしなく、毎日のように宴会を開いていて大した人物ではない」と母親である呂雉に諫言します。
話は前後してしまいますが、左丞相として赴任していたころに今上皇帝である恵帝が崩御してしまった時に、呂雉の一族である男たちを王に封じるように進言もしているため呂雉は陳平に対して警戒心を全く抱いていない状態でした。
そして呂雉が崩御し、陳平が呂一族を何とか失権させようと企みますが妙案が浮かばず悩んでいました。
そんな時に、陸賈(りくか)という人物が陳平を訪れ陳平が企んでいることに気づきました。そして叛旗を翻す人脈を気づき反逆をする地盤を築くように提案します。
陸賈を信頼した陳平は陸賈にも人脈を広げるように依頼し、私財も惜しみなく投入し呂一族への謀略で兵権を陳平に同心している人物に返上させます。

そして人脈を築いたところで呂雉の甥である呂産(りょさん)という男が帝位簒奪の為に謀反を起こそうとしますが、陳平に同心した人物たちの手によって制圧されこれを理由に呂一族が鎮圧されました。
この一連の事件で文帝が即位します。
事件の後処理が終わっていき間もなく、文帝に陳平は「職を辞させてください」と進言します。文帝に「朕に不満があるのか?」と尋ねられた陳平は「いいえ私は高祖(劉邦)に仕えてる時の功績が周勅(しゅうちょく)より私の方が大きく丞相を務めますが、呂一族を滅ぼした功績は周勅の方が大きいです」と、代わりに周勅という人物を推挙します。
しかし文帝は「意見は分かったが、そなたも欠かせぬ存在だ」と左丞相に任命し陳平も受け入れました。

ーー陳平の一族と評価ーー

周勅が右丞相を務めてましたが、辞任し後任として再び陳平が右丞相に赴任しますが程なくして陳平が亡くなってしまいます。
陳平は自分がこれまで陰謀を巡らしてきた、陰謀は道家の道に背く行為であり子孫は絶えるであろう。爵位が失われるようなことがあれば再興されることもないであろう。と予言します。
後々曾孫の代の陳何(ちんか)という人物が姦通の罪で晒し系に処されてしまいました。
その後武帝(ぶてい)の時代に陳一族を復興させようと時の大司馬・霍去病(かくきょへい)の義理の父になりましたが結果的に失敗したという話のみ伝わっています。

陳平は晩年もその才能が衰えることがなく、ある日文帝が両丞相を呼び出します。
そして周勅に下問します。「裁判は何回行われたのか?」「一年の国庫の収支はどれくらいか?」どれも周勅は答えることが出来ませんでした。
同じ質問を陳平にしたところ「陛下が問われていることはそれぞれに管轄している役職がございますので。その者にご下問ください。」と返答します。
そこで文帝は「それなら丞相は何を管轄しているのか?」と下問しますが、「丞相は上は天子を補佐し下は外敵の侵攻に目を光らせ、諸侯を慰撫し各々の役目を全うさせることが役目であり局部的なことを知ることが役目ではありません」と答え文帝は「見事な答えだ!」と絶賛します。
謁見が終わると、周勅から何故あのような答えを教えてくれなかったんだ!と詰め寄られますが、陳平は冷静に「君は細かい事まで全部知ろうとしているのか?丞相としての役目はさっき陛下に答えた通りだよ」と笑いながら答えました。
これがきっかけに周勅は右丞相を辞任したと言われています。

そして三国時代の曹操に「陳平のように兄嫁に手を出したり、袖の下を取ったりした過去がある者でも、才能がある者ならば、そのようなことを気にするな。未だ魏無知に出会えずにいる者よ、自分の下に仕官せよ」と触れを出されたことでも知られています。

今回はどうでしょうか?
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