大学2年の冬の話

こんにちは。今日は大学時代のことでも書こうと思う。
お酒を飲んだ日は筆が進むなあ。

大学2年の冬、鬱と診断された。
当時授業にも出られないくらいの酷い倦怠感と思考停止。何も考えられなかった。
気分は落ち込んで日が出ているうちは外に出られず、真夜中に徒歩2分のコンビニへ行くのがやっとだった。当時トイレへ行くのに2時間かかった。お風呂には2日か3日に一度はいるのがやっとだった。髪は乾かす気力もなかった。
這う這う大学の保健師に会いに行き心療内科の受診を勧められた。
動悸を抑えながらバスに乗ったのを覚えている。帰宅の時間と被ったのか結構人が乗っていてそれはまあ怖かった。
最寄りで飛び降りて地図アプリを見ながら学校医の心療内科まで歩いた。後から考えると、そこから医院のすぐそばまで地下鉄が走っていたのだが、それには全く気付かなかった。丸々一駅分歩いて医院に向かっていた。
予約ができない医院だったが、終わりの時間が近かったからかほとんど人がいなく多分すぐに呼ばれた。
先生とは前から面識があり、優しく迎えてくれた。支離滅裂で言葉になっているかも怪しい私の話を、時折質問を交え相槌を打ちながら聞いてくれた。
長いこと話を聞いた後、先生が言った。ちょっと学校を休みましょう。
私はそれを聞いて絶望感に襲われた。この時期に学校を休むということはほぼ間違いなく留年すると思っていたからだ。
実際は救済措置など、事情を話せば大学や学科の教授たちがなんとかサポートをしてくれる場合が多い。私はその春に大学を退学してしまったが、その時も親身になってくれた教授がなんとか留年を回避させようと模索してくれた。あの時の教授、本当にありがとうございました。そして退学してすみませんでした。後悔はしていません。
閑話休題
当時バカ高い学費を払ってくれていたのは両親で、金銭面で迷惑をかけることになるのは絶対に嫌だった。入ったからにはストレートで出たかった。そんな思いもあってうじうじと悩んでいた私に先生が言った。鬱です。もう休んでいいよ。と。

当時プロジェクトに1つ入っていたが、全て投げ出した。もともとそんなに出ていなかった授業も全て休んだ。学科の授業は教室にすら行かなかった。社会的に見たら完全にアウト。失格。出来損ない。逃げた卑怯者のレッテルを貼られても何も言えない。
ただただ薬を飲んで寝て過ごした。後のことはもう何も考えなかった。副作用で時折吐き気がしたが吐くものもなく、ひたすら寝た。涙が止まらなかった。
休んでいる間とても楽だった。震えながら無理にドアを開ける必要もなく、ただただ休んでいればいいのだ。体は楽になった。心はそうでもなかった。

鬱だと診断される少し前から、プロジェクトを何も言わずに休んでしまっていた。当時、実はプロジェクトチームのメンバーと上手くいっていなかった。とても仲のいい親友とも呼べる子もいたが、明らかに私を避ける人がいた。理由はなんとなくわかっていた。その人の学科の先輩と話をしていたのをよく思わなかったらしい。別の学科からポッと来て楽しげにしているのが気に食わなかったのだろうか。真相はわからないがあからさまに避けられていた。でもそれを誰にも言えなかった。居心地を悪くしたくなかった。水を差すようなことしたくなかった。
鬱だと言われて、もうプロジェクトに行かなくてもいいんだとホッとしたのは事実だった。ただ次に待っていたのは同期や教授からのLINEだった。おそらく体調を伺う電話やLINEが、私には完全に抗議の連絡にしか見えなかった。LINEが鳴るたび怖かったし電話は切れるまで息を止めた。もうパニックだった。せめて教授くらいには事情を説明すればよかったのだろうが、当時はそんなことを考える余裕もなかった。泣くほど怖かった。
そんな時親友からLINEが届いた。彼女は一年の頃からプロジェクトで一緒に過ごしてきた戦友とも呼べる人だった。
詳細はもう覚えていない。ただとてもショックを受けたのは、覚えている。
今もそのLINEたちは開かれることなく、私のLINEの通知は一定数溜まったままでいる。もう誰も向こう側にいないとわかっているのに、それでもまだ、責められている気がして怖いのだ。そして責められるほどのことをして、のうのうと生きている自分が、親友だった彼女にそんなことを言わせてしまった自分が、嫌いで嫌いで仕方ないのだ。

その春私は大学を退学し、地元へ帰り就職した。今の職場に就職するまでにも色々あったのだが、それはまた今度の話。
その親友とはそれっきり、会うことはなかった。合わせる顔もなかった。多分この先も、もう会うことはないのだろう。

これは大学2年の、大馬鹿野郎の私の話。

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