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連載 第十五回:未来 ÷ 永遠

最果タヒ『MANGA ÷ POEM』
Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai


ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ


 『火の鳥未来編』は20歳前後の私にとってとても重要な存在でした。あのころ私が見ていたのは永遠そのものと対峙する人間の姿で、でもあんなにも惹かれたのはそこに「永遠ではないもの」が刻み込まれていたからだと思う。今回はそのことを書きたいと思います。
 自分の容姿が醜いばかりに女性に愛されず、だからこそ自分を愛してくれるロボットを作った猿田博士。けれどそのロボットが録音された音声で「愛している」とくりかえし言うことが彼は耐えられなかった。だからロボットたちの声帯を奪い、そうして襲撃に来た敵に抵抗するための部隊としてロボットたちを出動させた。ロボットたちは自爆することで敵を撃退し、猿田博士の身を守ったのだ。

「彼女タチハ心カラ博士ヲ愛シテイマシタ……」
「……わかっておる…」

 これは未来編前半部分のワンシーンで、私がとても好きなシーン。昔に読んだ時は自分達が爆発してでも猿田博士を守ろうとした彼女たちの愛を、猿田博士はここでやっと信じたのかなぁと思っていたけれど、「愛している」と言うのも、爆発してでも猿田博士を守るのも、どちらだって命令されたことに従ったに過ぎない。猿田博士は最初からロボットがロボットなりに自分を愛しているのはわかっていたのではないかって最近は思う。けれど、それでもその「愛」は博士の求めていたものではなかったのではないかって。
 猿田博士は愛されたいと語るし、そのために行動するけれど、彼は自分の顔を恐れる女性たちが自分を「恐れない」ことこそを願っていたのではないか。命令通りに最初から愛してくれるのではなくて。だから、自分に怯えないタマミを好きになったのではないか。

 タマミは別の星から来た不定形生物ムーピーであり、ムーピーは本来は醜い姿をしているがさまざまな姿に変身することができる。タマミは人間の女性の姿をし、人らしく振る舞い言葉を話している。彼女に愛されたいと猿田博士が願うのは、タマミは自分の顔を怖がらないし、そのことがまず、博士にとって既に救いだから。そして同時に、タマミは自分の命令で動くわけではない、ということもかなり大きいのだろうなぁと読み直して思った。結局ロボットたちは始まりが「命じられて」であるから、博士にとってはどんなに本当に愛されていても意味がないのではないか。ただ愛されたいというより、「誰一人自分を愛さない」という寂しさを覆したい、というのが彼の根底にある願いであるように思えてならない。

 本当のところ、「愛されたい」という願いは、猿田博士だけでなく多くの人の中で、心にずっとあるさみしさやわだかまりを「覆したい」という願いを、砂糖でコーティングして違う形にしたものなんじゃないかって思うのです。愛されたいというのが嘘なわけではないけど、愛されれば満たされる「愛されたい」は存在しない。何かを覆したくて、その願いの代わりに「愛されたい」という言葉をあえて選んで叫んでいるのではないか。未来編の主人公・マサトは不死となった体で、生命が絶滅した後の地上で自分以外の生き残りを探して彷徨うことになる。タマミは彼が愛していた存在であり、タマミも彼を愛しているが、人類絶滅のタイミングでタマミもまた人の姿を保てなくなり、マサトと会話することも、動くこともできなくなってしまった。それでも彼女は本来の催眠能力で、現実逃避のための幻覚をマサトに見せてやっている。幻覚の中で昔の姿をしたタマミに「好きだっていって」と頼まれて、マサトは応えることができなかった。二人は確かに愛し合っていたし、今でもマサトにとってタマミの見せる幻覚は拠り所ではあったけれど、それでも、マサトにとってそのときにあるさみしさは、人類が自分以外に地上にいないこと、話し相手がいないことで、タマミの愛では決して埋められないものになってしまっていた。だから、タマミの願いに応えられなかったのかもしれない。この作品で描かれている愛情は、どれもが絶対的ではなくて、神聖な完璧なものではなくて、本当の欲求や悲しみを隠すものでもあり続けて、それでもそのことを物語が裁くようなことはなく、マサトの愛もタマミの愛もロボットの愛も不可侵のものとして尊重され存在していた。決してそれぞれの愛の質について踏み込んで裁くような描き方はされず、ただ愛される側がその愛をどう受け取るかの問題だけが紡がれる。だからたとえロボットでも、別の星の生き物でも、愛される側が拒絶したり疑うことはあっても、彼らの愛そのものを物語が「あり得ないもの」だと断じることはない。誰もが誰かを愛し得る。「命や人間の特権」として愛が存在しないし、そうしてそれは裏を返せば、人がこの物語の中で決して「特別な命」ではないことの証明にもなってしまっている。

 未来編は絶滅した生命を復活させるために、不死となったマサトが、海に有機物を流し、そこから生物が生まれ進化していく様を見守る何十億年もの物語。私はこの話が昔から大好きで、それは多分生命の尊さを本気で描こうとする時、むしろ人間たちが日常生活で語りたがる「命」というものはどんどん価値を失っていくのが面白いから、だと思う。猿田博士も生き残るのは人間でなくてもいいと言っているし、生命であることの尊さに比べたら「一人の命」とかそういうものの価値が消え失せてしまうことの面白さがある。「私は生きている」という尊さが否定されているのだ。「あの人に生きてほしい」といった願いが意味をなさなくなり、誰が生きようと誰が死のうと、結果的に命が繋がれていくことが賛美されていく。むしろ一人の命にこだわらないことが大きな「生命」への肯定になる。この感覚はいわゆる「愛」とは真逆のもので、愛と生命がこうした形で対比関係になることが初めて読んだとき本当に心からおもしろかった。
 生命を尊重することで愛が軽んじられていく。それが、どんな愛と生命の共存を語る言葉よりも昔の私には「正直」に思えてならなかった。愛や生命に対する理想や幻想がなく、どんな描き方よりも現実を見据えているのに、結局それがどんなやり方よりもこの二つを尊重して見える。愛は絶対的ではないし、生命も絶対的ではない。愛はもちろんのこと、生命だってそうだ。一つ一つの命を軽んじてまで優先される生命の流れとはなんだろう、と思う。本当に一人の人間よりそれは重要なんだろうかと、永遠に触れるような読書時間を過ごしながらも私は考えることができる。そこまでの価値はない気がすると、言ってしまうことだってできる。なんて贅沢なことだと思うのです。
 愛も生命も完璧であることはなく、でもそれをそのままでこの物語は受け入れている。美しい未来はそこにもあるはずと信じて、それらの姿を誤魔化さず、ありのままに描いていた。

 マサトとタマミの愛は、別にそこまで特別に清いものではなかったと思います。タマミの気持ちは主観的にはさほど描かれないからわからないけれど、マサトからタマミに贈られる愛は等身大のもので、どんなものより肯定されるべき神聖さなんてなかった。そこが私は好きだった。誰かに比べて二人の愛が特に純粋だとかそんなことではないのだと思う。マサトが不死という苦難を乗り越えるのが「タマミへの愛のため」なんかではなくて本当によかったって考えてしまいます。二人は等身大の愛を持ち、他の人たちに比べて優れていたわけでもない。それでも何十億年もの先で、二人は火の鳥の中でやっと「一つ」になるのだ。ふたりとも、世界が滅ぶ前のように、恋人らしく名前を呼び合って。苦難を乗り越えて愛が完璧になるとかそんな展開はなく、あの頃の愛のままで二人は一つになっていた。
 生命だって、マサトが苦労して復活させた生命のうち、最初に知恵を持ったのはナメクジで、争いによって滅んでしまった。その後、現れた人類もマサトの時代のものと変わらない「みにくい動物」だった。これでは前と同じことの繰り返しにしかならないのではないか。けれど火の鳥は、マサトをここで迎えにくる。マサト自身は生まれてきた人類に満足をせず、「わしがほしかったのは新しい人類なんだ」と言うけれど、火の鳥は「新しい人類を見守る」ために自分の中に入るように促すのだ。それまでの「新しい人類を作る」役目はここで終わりで、マサトに別の役目を与えている。マサトが納得していなくても、火の鳥にとってはもうここで「新しい人類」は始まっている。復活した人類がまた愚かで醜くても、火の鳥は「今度こそ」と信じている。変わらない人類の姿を見ても、それを新たなスタートだと思うことができる。火の鳥にとっては、それくらい生命も人類もちっぽけでくだらないことが、当たり前なのかなぁって読んでいて思ったのです。「それでも」と信じて、希望のある存在として見つめ続けているのかなって。
 この作品を読み終わっても、私は愛を素晴らしいとは思わなかったし、生命こそが素晴らしいとも思わなかった。火の鳥の中にある愛も生命も、よく見ると「その程度のもの」であり、そしてその事実が否定されずごまかされず、そのまま描かれていることこそが私にとっては大切だった。物語が、そこに夢を上塗りしていない。「その程度だ」ということをこんな雄大な物語でも隠さないことが、なによりそのちっぽけな姿への尊重だと思う。その先にだって未来があるという、描き方だと思うのです。
 未来編では、マサトのような人生ではない普通の寿命しかない人の、世界を担ったりなんてしない人生そのものが、描かれてもいないのに一番込められているんだって今は思います。外に出れば点在しているいろんな人の暮らしや生活に、還ってくるような物語。あんなに重厚な物語であるのに。生命の誕生まで描いているのに、道を歩いていてふと香るよその家のカレーみたいな、そんな懐かしさがマサトとタマミの再会にはある、生命の復活にもある。そしてその近さが、私に何十億年もの時間を想像する自由をくれる。そうやって、自分達の矮小さを認めながらも未来を見る力をくれる。これは、どこまでも「個人の命」の話。何十億年もの生命の物語が、「私の話」のように響くために作られた作品です。

・『火の鳥(未来編)』(手塚治虫・著)手塚治虫公式WEBサイト


最果タヒ
さいはてたひ。詩人。詩やエッセイや小説を書いています。
はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。
はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。

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