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それって、他人軸の、judgment?それとも自分軸の、judgment?

judgment(判定)を考える。

例えば、試験を受ける。

このことには、judgmentは必要。

もちろん、試験をパスしたいならね。

大事なのは、そのパスした先に、どんな自分を思い描けるか。

もしパスしたらめっちゃ喜ぼう✨

そして、試験もいろいろあるよね、入学試験、昇級試験、認定試験。。。

あくまでも、入学したり、昇級したり、認定を受けたり、

そこに対する、judgmentで、

もし、パスできなかったとしても、それは、その事象にパスできなかったというjudgmentで、

自分そのものを、judgmentされたわけではないよね。

事象をパスできなかった→自分はダメな人間だ

こうjudgmentしちゃいそうになるけど、

事象に対する、judgmentと、

自分そのものを、judgmentすることを、分けることができると良いよね。

パスできなかったと場合、いろいろな思いが過るのは当然で、

そこはちゃんと言葉や態度に出して、自分と向き合うのが自然。

向き合った後に、余裕があれば、まずは、チャレンジした自分を褒めるのも大事。

それらの感情に無理に蓋をして、平然を装おうと、どこかで歪みが来て、

結果、

自己肯定感も下げてしまうことになる。

大事なことは、自分自身をjudgmentして、勝手に、自己肯定感を下げないことなんだと思う。

「私なんて、、、。」

「私如きが、、、。」

「私には、、、。」

これって、ついつい使いやすいけど、無意識化で、自分をjudgmentして、ダメな人とレッテルを貼っちゃっている気がする。

自分に「良い・悪い」のjudgmentをもとに反応しないで、

「やりたいことなのかな?」

などを、ありたい自分から逆算して考えたりすると良いのかな。

そうすると、使う言葉も変わって、思考も変わってきて、judgmentしなくなってくるのかな。

そんなことを続けると、judgmentの軸も他人からどう思われるかの他人軸から、

自分自身がどうしたいのか、どうありたいのかの自分軸にシフトしていくのだろうな。

その先に、他人をjudgmentしてしまうことも少しずつなくなっていくのだろうな。

よしっ、まずは、ついついjudgmentしちゃう自分に気付いてきたので、

今、言語化したことを検証していこう。

その先に、明るい何かが待っているでしょう✨

、、、言語化してスッキリ⭐︎⭐︎

事象に対して、judgmentが必要なときはある。

でも、すべての事象をjudgmentするのは、これまた違う話し。

何か起きても、良い悪いの2極論じゃなくて、

「そうなんだねぇ。」

と受け止め、

もし、フィードバックを求められば、

「私には、、、。」

とIメッセージで伝えるぐらいの度量を目指そう。

さぁ、明日もガンバルンバ💪

追伸
judgmentというキーワード17回登場しています(笑)人生の中で、初めてこんなにjudgmentという単語を乱発しました(笑)