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執筆雑話 怪奇ローマ字入力男

「おい」と声をかけられた。
 おれが社内で二番目に嫌いな上司である。この男は、挨拶をしても返さないことで有名なやつだ。だから、おれもこの上司には挨拶をしなくなった。今や誰からも挨拶をされなくなった男なのである。
 誰からも相手にされない偏屈男であり、考えてみれば少し可哀想な気がする。だが、まあ、仕方がない。自業自得、身から出た錆、英語で言えばhave it coming(それは当然の成り行き)である。
 その上司がおれに声をかけてきた。
 上司であるが、仕事の関係はない。第二企画室の室長と言うだけだ。我々の仕事は一人一人が独立しており、予算管理もスケジュール管理も自分でやる。本来なら会話をすることなどないのだが。
「おい、なんで、お前、カナ入力なんや?」と上司が唇をひん曲げながら言った。
 おれがパソコンを入力しているのを見て、疑問に思ったらしい。そう言えば、その上司はローマ字入力だった。本当なら無視してやりたかったのだが、一応上司だから答えることにする。
「なんでって、カナ入力に慣れてますし、なにより効率がいいからです。効率的には親指シフトの方がいいですが、もう、あのキーボードは発売されてませんからね」
「なに言うてんねん。ローマ字入力の方が効率的に決まってるやろ。速く打てるんはローマ字入力や」
「いやいやいや」とおれは呆れながら言った。「カナ入力はワンストローク。ローマ字入力はツーストロークでしょ。例えば『わたしは』と打つ場合はカナなら4回、ローマ字なら8回打つ必要がある。同じ人物が打つなら、カナ打ちのほうが速いですよ。もちろん、手の小さな人なら3段しか使わないローマ字の方が打ちやすいでしょうが」
「アホか」と上司はさらに唇をひん曲げる。「ローマ字入力の方が速いて本にも書いてあるやろが。お前の打ち方見ててもはっきりしとるわ。おれの方が速い」
 おれは、思わずカッとした。タイピングの速さには自信があったのである。さらには、カナ打ちだけでなく、ローマ字や富士通が開発した親指シフトなど、パソコン黎明期からキーボードを自在に操ってきたのだ。
 言わばタッチタイピングの鬼、音速の貴公子である。長めの指は正義のしるし。おれがピアニストならば、ラ・カンパネラだってたやすく弾けるに違いない。い~や、それどころか本気でキーボードを打てば、その指の動きは時速1236キロを超え、ソニックブームが発生するのだなどと妄想していると、上司が大きな声を出した。
「じゃあ、競争してみようやないか」
「いいですよ」とおれは即答した。「あなたとの競争だと、カナ入力とローマ字入力の速さ比べにはならないんですがね。まあ、いい。受けて立ちましょう」
 結果は、おれの圧勝だった。
 200文字ほどの入力だったのだが、上司が50文字ほど打った時点で、おれは完了していた。もちろん誤字なしである。
「おかしいな。本には、ローマ字打ちの方が速いと書いてあったんだが」
「いや、だからこれはローマ字打ちとかカナ打ちの問題じゃないんですよ。あなたと私の入力スピードの差なんです」
 おれは、そう言って上司が打っていたキーボードで打ってみせる。「ほらね。ローマ字打ちでも私の方が速いでしょう。あくまで個人の能力の差なんです」
 わざと「能力」の部分を強調して言ってやる。狙い通り上司はイヤな顔をした。ワハハハハハハとおれは心の中で大笑いをする。
「しかし、ローマ字打ちの方が速いって本当にそんなことを書いてあったんですか」と聞くと、彼は引き出しの中の本を取り出した。
 ページをパラパラとめくって、ある箇所を指さした。
「見てみい。ここにちゃんと書いてある」
 おれは、本を受け取り読んでみた。今度は、心の中でなく実際にワハハハハハハと思わず笑ってしまった。
「よく読んでください。『初心者ならローマ字打ちの方が早く覚えられる』です。覚えるキートップの数がローマ字打ちなら26文字、カナなら46文字。だからローマ字打ちの方が初心者向きだ、と書いてあるんです。ああ、きっと見出しだけ読んで早合点してしまったんですね。ワハハハハハ」
「な」と言ったきり、上司は絶句した。見る間に顔が赤くなっていく。まわりで見ていた連中も、「プッ」とか「へへへ」とか「ヒャヒャヒャ」などと笑いだした。
 こうしてキーボード対決はおれの勝利だったのだが、もちろん社会というのはそんな単純なものではない。どんな上司であっても本来は逆らうべきではないのだ。
 出る杭は打たれる、雉も鳴かずば撃たれまい、英語で言えばTall trees catch much wind(高い木は多くの風を受ける)である。
 このキーボード対決が会社を分断する大騒動になるとは、その時のおれは知るよしもなかった。
 さらには、なぜか全世界にその騒動が拡大し、イスラム教徒が暴れるわキリスト教徒が怒り狂うわユダヤ教徒が殺しまくるわ、その上タコ型宇宙人が「キーボードノ最速ハワレワレダ」などと侵略してくるなど想像を絶する事態となったのだが、まあ、それは後日の話である。
 乞う御期待と言っておこう。


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