見出し画像

耳鳴りの向こう側


「大丈夫ですか?」と声がする。

 得意先の担当者、名前は山本だったか。いや、山下だったかもしれない。広告代理店の打ち合わせブース。使っているのは我々だけで、あたりは静まりかえっていた。

「ええ、大丈夫です。ちょっと耳鳴りがして……」

「それはいけませんね。そう言えば、以前も耳鳴りがすると言っておられた。耳鳴りと言っても馬鹿にできませんよ。脳腫瘍、脳出血、脳幹梗なんていう可能性もある。意外と怖いんです。一度、病院に行かれてはどうですか?」

「いや、本当に大丈夫です。失礼しました」

「そうですか。それならいいんですけど」と担当者は言った。

「ところで、以前、バイクに乗っておられたでしょう?」と私に向かっていたずらっぽく笑ってみせる。一瞬小学生のように見えた。

「バイク……ええ、乗ってましたが。もう、20年以上前ですがね。なぜ、ご存知なんです? ツーリングの途中か、それともサーキットの走行会でお会いしましたか?」

「いや、違います。……鎖骨ですよ」と彼は、私の右の鎖骨を指差した。

「ちょっと出っ張ってますよね。骨折の跡だ。鎖骨は折れやすいというものの、男性の場合は、ラグビーやバイクによる事故の可能性が高いんです。あなたの体型からすると、ラグビーではなさそうだ。で……」

 私は、少し驚いた。

「ははは。まるでシャーロック・ホームズじゃないですか。それともガリレオの湯川博士かな? そう言えば、あなた、主役の俳優に似てますよね。よく言われるでしょう」

「よく言われます」と彼は、爽やかな笑顔を見せた。男の私が見ても華麗で、いささか嫉妬の念に駆られる。

「まあ、ガリレオの作者東野圭吾は、あまり好きな作家ではありませんが」と彼が言葉を続けた。

「ほう。誰がお好きなんです?」

「そうですね」と彼は真剣な目になり、少し考えるような表情になった。そして、強い口調で言う。

「アンブローズ・ビアス」

 一瞬、私は、その作家が誰なのかわからなかった。だが、何か重苦しいものを感じる。読んだことがあるのだろうか。

「ほら、『悪魔の辞典』を書いた作者です」

「ああ、思い出した」と私は声を上げた。「確か筒井康隆がエッセイで取り上げていたんだ。それで私も買ったんだった。まあ、言うほど面白い本ではなかったなあ」

「ははは、そうですか。でもね、アンブローズ・ビアスの一番の傑作は、『悪魔の辞典』じゃないんですよ」

「ほお、何が傑作なんです?」

「短編小説なんですがね。『アウル・クリーク橋の一事件』という作品です。これは正真正銘の傑作です」

 私は、読んだことがなかった。どんな話か興味を覚えたが、なぜか、訊いてはいけないような気がした。だが、男は、そんな私の気持ちを知るはずもなく、静かに話をはじめた。

「アメリカで起こった南北戦争、ご存知でしょう。その当時の話です。南軍に味方する一人の男が、北軍に捕らえられ、橋の欄干に吊されそうになるんです。どうしても逃げることができない。いよいよ処刑のときが迫る。そして吊されたと思った瞬間、奇跡的にロープが切れたんですよ」

 そこで彼は言葉を止め、私の目をのぞき込んだ。視線が合うと、ふっと笑みを浮かべた。

「彼は、必死に走り続ける。彼の脳裏には、愛する妻の姿しか浮かばなかった。かろうじて命が助かった彼は、自分にとって本当に大切なものがわかったんでしょうね」

「うらやましいですね」と私は、言葉を挟んだ。「彼は、本当の愛に気付いたんだ」

 だが、その時、愛というキーワードで私の頭に浮かんでいたのは、妻の姿ではなく若い愛人の姿だった。今週末にも会う約束をしている。そのことを考えるだけで胸が躍り、とてつもない幸福を感じる。

 いや、幸福ではなく、幸運なのかもしれない。この歳になって、あれほどの女性に愛されるとは。

 とは言え、不倫であることは間違いない。私には、本当の愛を理解できる日は来ないのかもしれない。

「本当の愛……ですか。でも、面白くなるのは、ここからなんですよ」と彼はニヤニヤしながら言った。まるで、私の頭の中を覗いているかのような笑いだ。

「彼は、妻の待つ家へと走り続けます。そして、ようやくたどり着く。家は、朝日を浴びてきらきらと輝いている。生への歓喜に満ちあふれている。広く白い小道を歩いて行くと、妻の姿が見えた。妻は、彼に気付き、言葉にならないほどの喜びに満ちた笑みを浮かべます……」

「なるほど」と私は言った。どこが傑作なのか、まだわからない。ただのハッピーエンドではないか。

「その時です」と彼が大きな声を出した。私は、ビクッと身体を震わせる。

「妻を抱きしめようとしたその瞬間、彼は、首の後部に衝撃を感じます。目も眩むような白い閃光が、あたり一面を燃え立たせます。そして、一切が闇と静寂に包まれるんです」

 彼は、寂しげに笑った。

「そう。ロープが切れて助かったと思ったのも、森を駆けたのも、妻の姿も、すべて死ぬ間際の幻影だったんですよ。そうした幻影が彼の死をもって、いきなりかき消されてしまったんです」

 彼の声だけが、打ち合わせブースに響いていた。なぜ、ここは、こんなに静かなんだろう。

「小説のラストは、こんな具合です。『ベイトン・ファーカーは死んだ。首の挫けた彼の死体は、アウル・クリーク橋の横木の下で、ゆるやかに右へ左へと揺れていた』」

 彼が沈黙した。とても静かだ。静かな中、耳鳴りの音だけがずっと続いている。

「そう言えば、あなたがバイクで事故ったのも、橋の上だったんじゃないですか?」と彼は言った。

 私は思い出していた。

 そうだ。確かに橋だった。高い谷に架けられた古びた吊り橋だ。通行禁止だったが、軽量のトレールバイクに乗っていた私は、さほど心配せずに入り込んだ。

 そして、途中で落ちたのだ。数十メートル下の岩だらけの河原に落ちたが、私は鎖骨と肋骨の骨折だけで奇跡的に助かった。バイクが先に落ち、岩に激突する乾いた思い衝撃音は、今でも耳に残っている。

「数十メートル落ちて、助かるわけないですよね」と彼が言った。私をからかうような口調だ。

「でも、私は助かった。そのあと見舞いに来てくれたモデルだった妻と結婚し、子供にも恵まれて……」

「仕事はトントン拍子で事業は拡大。30歳年下の美人の彼女もできて、不安なことなど何もない。誰もがうらやむ人生。なんか、夢のような人生じゃないですか。そう。事故以来続いている耳鳴り以外は」

 この耳鳴りは……。

「その耳鳴り、風の音なんじゃないですか? 高い高い吊り橋から落ちていく途中に聞くような……」

 そうだ、これは風の音だ。同時に、彼の正体にも気付いた。

「ちなみに私の名前は山岡ですから。ちゃんと覚えておいてくださいね。これから先、あなたの担当者は私だ。長いおつきあいになりますよ」

 そう言うと、彼は唇をVの字に曲げた。このやりとりを楽しんでいたのだ。悪魔のような、いや、まさにこいつは悪魔なのだ。

 私は、すべてを思い出した。吊り橋から落ちていく途中、彼の出現を私は願ったのだ。神でも悪魔でもいいから助けてくれ。心の底から願い、彼は現れた。そして、うれしそうに言った。

「契約完了です。あなたが心から人生に満足されたとき、私はもう一度あなたの前に現れます。魂をいただきに」

 妻や愛人のことを思い出そうとしたが、思い出せなかった。あれは、死ぬ間際の夢でしかなかったのだ。その夢に満足したために、こうして悪魔が現れた。

 私が思い出せたのは、事故に合う前の人生、怠惰から生まれた不満だらけの人生だった。そして、それは、正しい人生ではなかったような気がする。

 私は、諦観の中、少し後悔した。

 事故以来ずっと続いていた耳鳴りが、ふっとやんだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?