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まだ間に合うのだろうか

二代真柱が著した『おふでさき概説』に
「これ迄の先輩の歩みを習うと同時に、それが教祖の教えられた本筋に添っていないものならば、今からでも遅くはないから改めて貰いたい」
とあります。
この言葉について。天理大学おやさと研究所の辻井正和氏は

教会本部が設置された明治 21 年から現在に至るまでの間に形成されたものについて改めて見直すことをしなければ、30 年ほど前からの教勢の推移に対応することは難しいのではないかと考えさせられるのである。

 『「現代社会と天理教」(2)第3講:古い道と新しい道の間』

と述べています。明治21年に遡って見直す(゚ロ゚;)ハッ!!
本当にそれが成されればお道は蘇るかも知れません。
教団の良心に期待するばかりです。

さて教勢が衰退する今、明治21年まで遡らずともその原因を見つめ直すことが喫緊の課題であるのは間違いないでしょう。
あ。「もう手遅れだ」とか言うのは無しの方向でお願いします。
では何をもって教勢というのか?
数字です。人の数。教会の数。御供の額などなど。それで教団の盛衰は判断されます。
でも「そもそも論」でいうと、上を見ると上級教会が二か所も三か所もある末端教会の会長などは、特に「教勢」ということに目を向けることは少ないんじゃないかな。これはアンケートなどをとったわけではなく、あくまでも私の肌感覚ですが。

まず、信者数が少ないことから自教会を維持していくだけで精一杯という教会がとても多い。
教会が信者さんの拠り所として機能不全を起こさないためには、眦(まなじり)決して「一人でも多くのようぼくを作るんだ」と布教に邁進するよりも、社会で働き収入を得て、教会という「箱物」を維持しなければならない。
そうした日々にあって、ご近所や職場で良好な関係を作りながら、お道の有り難さ、暖かさを伝えていき、きっかけがあればおぢばへ参拝していただくといった、一見「ユルイ」ともいえる活動に終始せざるをえない現状があると思うのです。
当然の結果として、爆発的にようぼくが増えるわけはありません。

燎原の火の如くお道が拡がった明治、大正、昭和初期を経て、時代が平成から令和となった今、一人の信者を作ることがどれだけ大変かは周知のことですよね。ましてや御供をして下さる信者さんを丹精することの困難さは言うまでもありません。
前述の辻井正和氏による「ようぼく再生産率」というものがあります。

再生産率は、1人のよふぼくが1年間に新たに何人のよふぼくを生み出したかを表すので、よふぽくの布教力の目安になると考えられる100年祭後は、0.02にまで下がっている。これは、50人のよふぽくが1年に1人のよふぽくを生み出す勘定である。

『天理教の教勢100年 - 統計数字から客観的にみる』

50人のようぼくが1年に1人のようぼくですよ。
言い換えると「1人のようぼくが50年かけて1人のようぼくを生み出す」
ということですよね。とてつもなく大変です。というかコスパ悪すぎです。
布教活動は大切です。しなけりゃ減り続けて最後にはゼロになるんですから。そうなれば教団は無くなります。
でも「教団が無くても信仰はできる」と断言する人もいます。あながち不可能な話しではないと思いますが。今はその話は置いておきます。

とにかく教勢は衰退の一途をたどっています。
未信仰の方々の心を引きつけるために行ってきた、これまでの手法が間違っていたのでしょうか。
においがけ、おたすけによる「ようぼく」の誕生率が低調となったのは、一つには社会の意識変化と福祉の充実ということがあると考えられます。
かつて、貧困や差別によって医薬の恩恵を受けることができなかった人々に、おびや許しとおさづけの取次という行為は喝采をもって受け入れられました。
しかしその後、日本は世界に類を見ない驚異的な発展を遂げ、昭和36年には国民皆保険の制度が制定されました。医療技術に至ってはかつては神の領域とされたところまでカバーしています。また、メンタルヘルスのケアも高度になりました。おさづけにすがらなくてはならない人自体が減っているのです。
またオウム真理教をはじめ、様々な宗教が社会問題を起こしたことも宗教離れの一因となっているでしょう。
おさづけのみならず、最早人々は宗教に頼る必要を感じなくなりつつあるのです。
それでも、お道の衰退の根本的な要因はまた別のところにあるのではないか?と私は思っています。
社会に変化や布教力の低下による信者数の減少よりも深刻な問題は、信者として、ようぼくとして、教人としてカウントされている人々が、ひっそりとお道から離れていっていることです。これは怖いです。

『別席制度がもたらしたもの』でも書きましたが、現在、信仰の入り口が別席とおさづけの理の拝戴と考えられるようになりました。
現行の別席制度になり、においがかかった方を「ようぼく」にすることが簡単になり、これによって「名ばかりようぼく」が多く誕生しました。
ところが、私のブレインであるDr.Leeが申しますには

「ようぼくならば」と、金銭の御供をすること、月次祭をおつとめ着でつとめることを要求され、ひのきしんや修養科にいくことを勧められる。
 人によってはかなりハードルの高い実行項目の場合があると思う。
 若い人たちにとっては尚のことであろう。
              (中略)
 心から、ようぼくとしての使命を果たそうとした人たちも、「ようぼくの実行項目」や、いつの時代も変化のない会活動に縛られ、個々の個性や徳分は脇に置くことになり、「一手一つ」という調和を求められるスローガンの下、自分を失い埋没していくことがあった。(一手一つが不要ということではなく、人をコントロールするために使う人がある)
 もちろん自身の「いんねんの自覚」から喜んで受け入れていた人もあることは承知しているが、滅私奉公は、喜びがともなわなければ、心を病むことにもなりかねない。                       

Dr.Leeの言葉より

現実はこんな事態に陥っているのです。
では私たちはどうすればいいのか。教団はどこへ向かえばいいのか。
Dr.Leeは言います。

ようぼくの中には独自に精神性高く使命感をもって立ち働く人もいる。
 ところが、このような人たちは見落とされがちである。
「ようぼくの実行項目」を果たしているとカウントされないからだろう。
教会活動にどれだけ尽くしたかがバロメーターになっていることで、価値ある人材との絆を失っていることも多い。
 「教会活動を支える人」「教会活動に賛同する人」は「ようぼく」であるべきという思い込みを捨てれば、もっと多くの人たちに関わってもらうことができ、自然と陽気ぐらしは体現されていくものと思う。
教会はようぼくの心の支えとなるコミュニティ、安全地帯であることが望ましいのではないだろうか。 

Dr.Leeの言葉より

首がモゲそうになるくらいうなづけます。
布教活動を否定するつもりはありませんが、ようぼくの立ち位置の一丁目一番地は、人のたすかりを祈る人であると同時に、陽気ぐらしをその身に具現する人でもあるのです。
教会の活動を支え、数値目標達成に寄与し、御供を運ぶことがトッププライオリティではありません。
このあたりのことを再びDr.Leeに聞いてみましょう。

ようぼくは、教会本部や教会を支えるための要員ではないという観点で考えると、ものの考え方が変わってくるのではないだろうか。
 ぢばの本来的性質は「生み出す」「育む」場である。
本部から打ち出されるメッセージは「報恩」に集約される内容が多く、ようぼくにとって、ぢばはいつしか「御恩報じの場」「つくし運ぶ場」となった。 「ありがたい」という言葉とは裏腹に、多くの人が疲弊してしまっている。 喜びよりも苦労が勝れば、やがて足は遠のくのは当然であり、また人にも勧められなくなるのは自然である。
 本来「生み出す」「育む」という性質には混とんとした多様性を受け入れる懐の深さがあり、互いに影響し合いながら他を巻き込み、拡散あるいは拡張していく未来指向があると考える。

Dr.Leeの言葉より

あ。とうとう首がもげました。
なるほど「ぢばへ」ではなく「ぢばから」ですね。

教祖140年祭に向かう三年千日の通り方について、今後細かい活動方針が発表されると思います。まさに固唾を飲んで見守っている状態ですが、十年一日のごとく変わらぬイケイケドンドンな内容では、もう保たない。そう思っているのは私だけじゃないと思います。
以上のようなことから、これからのお道が向かうべき方向は、別席やおさづけの理の拝戴を信仰の入り口にすることなく、また信仰についた者同士が、教える者、教えられる者というような上下の関係ではなく、お互いに刺激し合って具現化された陽気ぐらしを体現する。それが社会への何よりのにおいがけになると思うんです。そこから信仰の入り口も見えてきます。
天理大学附属おやさと研究所教授の金子昭氏も

陽気ぐらしをしている姿を世の中に示せばそれでよいのではないだろうか。それが何よりの世間への「においがけ」になるのである。求められるのは、天理教内での生き方のモデル再編である。
               (中略)
いまの自分の日々の生活の中で、いかに互いに助け合い、陽気ぐらしの生き方をすることができるかこそ、肝心なことなのである。それゆえ、この教団危機にあって大切な視点の転換があるとすれば、それは教会のことを考える以上に、教友の立場に立って、信仰者の生き方を再考していくことにあるのではないだろうか。       

『天理教の布教の現状と課題 -教会のあり方を中心に-』

と述べています。
私たち天理教信者もひとりひとりが社会性をもって生きています。
つまり社会あっての私たちなんです。
社会性があってこそ教外の方とも繋がることができ、絆も育めるのです。
そこで発揮されるお道の人らしさこそが「においがけ」になるのではないでしょうか。
私たちは何故か当時クローズアップされず、検証もされなかった現真柱の言葉、

「何でもそうであるが、言うは易いが行うのは難しい。理想は常に高く掲げるべきであるが、同時に現実感覚(生身の人間へのまなざし)も大切にしたい。そもそも、「おたすけ」と言うから大層なことに感じてしまうわけで、そのように肩ひじ張ってしまうのではなく、まずは周りの人のことを気にかける、思いやることを心がけたい」              

2010年10月26 日秋季大祭での神殿講話より

あるいは二代真柱による

「これ迄の先輩の歩みを習うと同時に、それが教祖の教えられた本筋に添っていないものならば、今からでも遅くはないから改めて貰いたい」

『おふでさき概説』中山正善著

との言葉をかみしめ、変革に舵をきるべきだと思うのですが、すでに遅きに失していないか、それが気にかかります。
ではまたいずれ。


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