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地震は神の残念・立腹の顕れなのか

妄言もうげんそしりを恐れず書きます。

皆さんは1853年(嘉永6年)から1859年(安政6年)にかけて、日本でマグニチュード7を超える地震が毎年発生していたのをご存じでしょうか。嘉永6年は立教から15年後にあたります。
『稿本天理教教祖伝』に

嘉永七年、教祖五十七歳の時、おはるが、初産のためお屋敷へ帰って居た。その時、教祖は、「何でも彼でも、内からためしして見せるで。」と、仰せられて、腹に息を三度かけ、同じく三度撫でて置かれた。これがをびや許しの始まりである。
その年十一月五日出産の当日(註)、大地震があって、産屋の後の壁が一坪余りも落ち掛ったが、おはるは、心も安く、いとも楽々と男の児を産んだ。人々は、をびや許しを頂いて居れば、一寸も心配はない。成程有難い事である。と、納得した。時に、おはる二十四歳であった。生れた児は、長男亀蔵である。
註 嘉永7年11月5日は、西暦1854年12月24日にあたる。尚、この年11月27日(1855年1月15日)を以て、安政元年と改元される。

『稿本天理教教祖伝』36頁

という記述がありますが、ここで触れられている大地震は安政南海地震と呼ばれる巨大地震を指します。この地震はマグニチュード 8.4。最大震度7。紀伊新宮、土佐中村に大きな被害を与え、特に紀伊水道や土佐湾では最大16.1mの津波が起きました。
この嘉永年間の終わりから安政年間には以下のような大地震が多発しています。264年の長きにわたって日本に君臨した江戸(徳川)幕府の終焉しゅうえんを目前に控えた時代でした。
簡単な年表をご覧下さい。

■嘉永年間

1853年3月11日(嘉永6年2月2日)小田原地震。M6.7 最大震度7 神奈川県小田原市など
1853年7月8日(嘉永6年6月3日) ペリー来航。浦賀沖。
1854年5月2日(嘉永7年4月6日) 京都大火。京都御所より出火、炎上
1854年7月9日(嘉永7年6月15日) 伊賀上野地震 M7.3 最大震度6~7 伊賀上野、四日市、奈良 死者1500人以上
1854年12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震(巨大地震) 震央:東海道沖 M8.4 最大震度7 甲斐甲西、駿河相良、遠江袋井 津波:特に熊野灘、最大22.7m
1854年12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震(巨大地震)震央:南海道沖  M8.4 最大震度6~7紀伊新宮、土佐中村 津波:特に紀伊水道、土佐湾。最大16.1m
・おはる、おびや許しをいただく。おびや許しの始まり
1854年12月26日(嘉永7年11月7日) 豊予海峡地震 震央:豊予海峡 M7.4 最大震度6 豊後府内、豊後臼杵、伊予八幡浜
安政年間
1855年1月15日(安政元年11月27日) 安政に改元
1855年3月18日(安政2年2月1日) 飛騨地震 震央:白川郷 M6.6 被害地域 飛騨白川 金沢
1855年9月13日(安政2年8月3日) 陸前で地震
1855年11月7日(安政2年9月28日) 遠州灘で地震。東海地震の最大余震
1855年11月11日(安政2年10月2日) 安政江戸地震。藤田東湖・戸田蓬軒圧死。 震央:江戸直下 M 6.9~7.4 最大震度6強 江戸、横浜
1856年8月23日(安政3年7月23日) 安政八戸沖地震(巨大地震)
震央:八戸沖 M7.5
1856年11月4日(安政3年10月7日) 江戸で地震
1857年7月14日(安政4年閏5月23日) 駿河で地震
1857年10月12日(安政4年8月25日) 伊予・安芸で地震(芸予地震)
1858年4月9日 (安政5年2月26日) 飛越地震。M7.0 震度7
1858年7月8日(安政5年5月28日) 八戸沖で地震。震央:八戸沖 M7.5
1858年10月11日(安政5年9月5日) 安政の大獄が始まる
1859年1月5日(安政5年12月2日) 石見で地震
1859年10月4日(安政6年9月9日) 石見で地震
1860年3月24日(安政7年3月3日) 桜田門外の変。大老井伊直弼が暗殺される

このように1853年(嘉永6年)以降、1859年(安政5年)まで、6年間にわたって毎年マグニチュード7を超える大きな地震が日本を襲っています。嘉永7年にいたっては4月に御所が炎上して以来、1年間に4度も大地震が起きています。地震に加え飢饉が訪れ、また「長きに渡った鎖国を解いて開国せよ」と迫る外国からの干渉も激化します。加えて幕府への不満の高まりと、幕府自体の弱体化に起因する政情不安など、日本という国そのものが激しく揺れ動いていた時代でした。
(※ちなみに1995年(平成7年)1月17日5時46分に発生した阪神淡路大震災はマグニチュード7.3でした。また2011年3月11日14時46分頃に発生した東北地方太平洋沖地震のマグニチュードは9.0です。)

さて、大地震などの大規模自然災害が起きるたびに、天理教内では以下の『おふでさき』のお歌が引用され、ようぼくへの反省と奮起が促されます。

このせかい山ぐゑなそもかみなりも
ぢしんをふかぜ月日りいふく  (六号-91)

このはなしなんとをもふてきいている
てんび火のあめうみわつなみや  (六号-116)
1874年(明治7年12月)執筆

かみなりもぢしんをふかぜ水つきも
これわ月日のざねんりいふく (八号-58)
1875年(明治8年5月)執筆

僕はいつも思うのですが、ここで述べられる「ぢしん(地震)」とは将来起こる地震なのか、あるいは過去に起きた地震を指しているのか判然としません。
どなたに質問しても、おそらく

この事をいまゝでたれもしらんから
このたび月日さきゑしらする (八号-59)

とのお歌を引き合いにして、
「未来に起こるものも含めたすべての地震に決まってるじゃないか。あらゆる自然災害は神の残念立腹のあらわれなのだから。」
一蹴いっしゅうされると思います。当然ですよね。これらのお歌の解釈としては、それが定説とされているのですから。
でもその解釈は本当に正しいのでしょうか。いくら「神様の残念立腹は、決して被災された方々に対してのものではない。」と前置きをしたとて、「我々ようぼくへの神様の急き込みなのだ」という解釈には少なからず「神による裁き」あるいは「天罰」というニュアンスを含みます。
また神による天理教のようぼくへの叱咤激励しったげきれいである、という解釈には、ゆるやかな選民せんみん思想にも似た傲慢さを含んでいるような気がしてならないのです。
もうひとつ言わせていただくと、地震をはじめとする自然災害が海外で起きた場合は、さほど「我々への厳しい急き込みである」ことは強調されてこなかったと記憶しています。
何故なのでしょう。世界いちれつ兄弟にして、皆神の子。ましてや親神様は全世界を包括してご守護くださる神様であることを考えると首を傾げたくなります。言葉は悪いですが、都合よく語られているような気がしてしまいます。

僕は親神様が罰する神ではないと信じています。なので、いくら「頑迷」だ
「心得違い」だと言われようとも、地震をはじめとする大規模自然災害に対して、別の解釈を求めてきました。
地震が発生することに対する信仰的理解は秋治・shin氏からご教示いただき、僕の中ではすでに決着していますので、(※お時間のある方は、過去記事『「りいふく」は「理を吹く」でいいんじゃね?』をご覧いただけるととても嬉しいです。)
この記事では僭越せんえつながら『おふでさき』に記述される自然災害についてのお歌の別の解釈に挑みたいと思います。

さて、ここから先は教学者からは妄言と非難されるやも知れぬ内容になります。
まず前掲のお歌が指し示す地震。これは安政年間に連続して発生した大地震を指しているのではないでしょうか。

このせかい山ぐゑなそもかみなりも
ぢしんをふかぜ月日りいふく  (六号-91)

このはなしなんとをもふてきいている
てんび火のあめうみわつなみや  (六号-116)
1874年(明治7年)執筆

かみなりもぢしんをふかぜ水つきも
これわ月日のざねんりいふく (八号-58)
1875年(明治8年)執筆

これらのお歌が書かれた明治初期もまた、安政年間同様に政情は不安定でした。
明治2年の東京遷都せんと版籍奉還はんせきほうかん。明治6年の征韓論せいかんろんと士族の反乱。それはやがて西南戦争を引き起こし、かつての維新の英雄西郷隆盛ですら朝敵ちょうてきとされます。
徳川幕府の終焉しゅうえんと共に、国を分かつ新たな争いの萌芽です。一列兄弟であるはずの人間が傷つけ合う姿を残念に思われた。
また、明治初年に発せられた大教宣布だいきょうせんぷや明治5年の「三条の教則(教憲)」など、神道を国教化しようとする動きや宗教統制に対して親神様はついにご立腹された。と考えると、「かやし・・・をするやしれんで」と仰せられたその対象は、支配層である大社であり高山。つまり親神様の思し召しを知らぬままにおごり高ぶり、かつ争う者たちを指すのではないでしょうか。
『おふでさき』第六号の91の直前に

それしらす今のところハ高山ハ
みなはびかりてまゝにしている (六号-89)

この月日大一これがさんねんな
どんなかやしをするやしれんで (六号-90)

と、あえて記されているのですから、山津波、落雷、地震、台風、津波は「高山」にかかる言葉と考えるのが自然だと思いますし、同様に前掲八号-58で語られる「ざねんりいふく」と思し召された対象についても、直前で記されている

これまてもみなみへきたる事なれど
ほんもとなるをしらん事から (八号-57)

の「ほんもと・・・・」を知ろうとしない高山にかかる言葉だと考えるのが自然なのではないでしょうか。
『稿本天理教教組伝』に

明治七年陰暦十月の或る日、教祖から、仲田儀三郎、松尾市兵衞の両名に対して、「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで。」と、お言葉があった。両名は早速大和神社へ行って、言い付かった通り、どのような神様で御座りますか。と、問うた。神職は、当社は、由緒ある大社である。祭神は、記紀に記された通りである。と、滔々と述べ立てた。しからば、どのような御守護を下さる神様か。と、問うと、神職達は、守護の点については一言も答える事が出来なかった。

『稿本天理教教組伝』

という記述があるように、この時期のおやさまが大社・高山に対して挑戦的ともいえる対応をされていることが、それを裏付けているように思えてなりません。
しかし仮に僕の仮説が正しかったとしても、大社・高山への罰として地震などの自然災害が起こるわけではない、ということを改めて強調しておきたいと思います。
おごり高ぶり、親神様の思いにほど遠い歩みをする高山に反省を促すため、当時の人々のリテラシーに照らして、まだ記憶に新しかったであろう15年前の安政の大地震や津波などの自然災害を喩えに用いて警告されたのではないでしょうか。
おやさまが『泥海こふき』などでも度々たびたびたとえを用いられることを常に意識しつつ、『おふでさき』に記される神の意思を読み解く必要があるのではないかと思っております。

地震は地球の炭素循環を支えているプレートテクトニクスによって起こります。そしてこの機能が止まってしまえば、地球上の炭酸ガスが増加して温暖化が進み、やがて大型生命体は生きていけなくなります。
結論的にいえば、地震はあくまでも地球を守り維持するために神様が起こす現象であって、決して残念や立腹の顕れなどではない、と僕は思っています。
いみじくも秋治・shin氏はいいました。

神様は、地震で津波で台風で火山で疫病で戦争で亡くなった「いのち」を悲しんでおられます
生まれ変わりを信じるなら
魂の存在を信じるなら
今世で不運な「死」が
次の世で幸運な「生」に繋がるはずで
すむしろ神様は「申し訳ない」と泣いていらっしゃる

秋治・shin『最近思ったこと・後半はBeさんへ』

まったくその通りだと思います。
『おふでさき』に記述される「ざねん(残念)」「りいふく(立腹)」「かえし(懲罰・報復)」などの表現は、人間、特に大社・高山と表現される者たちの誤った歩みを警告するための喩えとして用いられたに過ぎないと思うのです。何十億年という時をかけて生命を創り出し、三度の出直しを経て人間にまで進化させてくださった親神様が、罰するために人間の命を奪うなどあり得ない。
こうした思案の仕方が妄言もうげんとして退けられることなく、堂々と議論できる教団であって欲しいと切に願っています。
もちろん、個々の天理教信仰者が地震を「ようぼくへの急き込み」と自発的にとらえて深く思案し、何らかの前向きなアクションを起こすことを批判するつもりは毛頭ありません。それも正しい信仰の形であると心から思っていますので、その信仰を否定するためにこの記事を書いているわけではありません。
大切なのは、松本滋博士が『「経験科学」としての宗教学の功罪 - 天理教学との関連において-』の中で

中山正善二代真柱を「父親」のように心から尊敬し、その業蹟を高く評価している。しかし、いつまでも故人の枠の中に閉じこもり、引用ばかりしているようでは、教学・思想の発展は望めないであろう。むしろ偉大なる父親というものは、子供が力を蓄えて、自らを批判的に超えてゆくことをこそ、喜ぶのではなかろうか。

「経験科学」としての宗教学の功罪
- 天理教学との関連において-

と述べたように、不可侵ふかしんの定説とされている教義・教理の解釈を再考し、先人を超えていくことが、今を生きる僕たちの使命なのではないだろうか?ということなのです。

にち/\にすむしわかりしむねのうち
せゑぢんしたいみへてくるぞや (六号-15)

親神様の目から見れば僕たちはまだまだ成長期にあるはずです。だとすれば、教えの解釈についても「成人次第に見えてくる」と言われるように、いまだ見えていないことだらけだと思うのです。
陽気ぐらしをする姿を楽しみに人間を創られた親神天理王命が、裁く神、罰する神などであるわけがない。
僕はそう信じております。

ではまたいずれ。

おやさまが教えてくださったおつとめ・・・・をもって、被災された方々のたすかりと安寧あんねいを祈りつつ。

writer/Be weapons officer
proofreader/N.NAGAI

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