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「りいふく」は「理を吹く」でいいんじゃね?

届いたばかりの『天理時報』立教186年3月22日号の「視点」に、世界の「難儀」に想いを馳せ 、と題された文章が掲載されていました。

『天理時報』立教186年3月22日号「視点」

天理教内で戦争や自然災害についての神の思惑について語られるとき、『おふでさき』に記される「ざねん」「りいふく」の言葉を用いられることが多いですが、今回の「視点」でも以下のように記述されています。

昨年2月末に始まったウクライナ戦争は、1年が経過しても、なお混迷を深めている。コロナ感染は落ち着いてきたものの、新たな変異株の感染力については予断を許さない。また、トルコとシリアでは、大地震によって多くの無辜の命が失われた。さらに、気候変動による洪水や飢饉、戦争がもたらす食糧難など、世界中から深刻な被害が伝えられている。
「おふでさき」では「むほん(謀反)/たたかい(戦争)」や「これら(疫病)」に加えて、「山ぐゑ(山崩れ)」「かみなり(雷)」「ぢしん(地震)」「をふかぜ(大風)」「てんび火のあめ(大火災)」「つなみ(津波)」「水つき(洪水)」といった天変地異について、要するに、今日の世界を覆う「難儀」のほぼすべてに言及されている。それらはいずれも、人間に対する親神様の「ざねん」「りいふく」として、つまり、私たち人間に深い思案を促す厳しいメッセージとして捉えられるべきものである。

『天理時報』立教186年3月22日号「視点」

神の言葉を記した『おふでさき』に記されている以上、その言葉を根拠とするのは当然といえば当然。まさに王道ですね。
でもね、「ざねん」「りいふく」という言葉を使うと、どうしても「天罰」「神の裁き」を想起してしまうんですよね。(我ながらしつこいとは思うけど)※しつこさの理由は1年半前の記事を参照www

本当に神様が立腹されてのことなのでしょうか?
親神による人類創造の思惑とその苦心の過程が描かれる「元の理」の冒頭には
この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」

と記述されます。ことほど左様に人間の陽気ぐらしをお望みになる親神が、果たして「罰する」などという概念をお持ちなのかと首を傾げたくなります。
(そういえば学生の頃の「比較宗教論」の授業で、セム系の一神教は「罰する神」だが、天理教の親神様は罰する神ではない。みたいな講義を聴いた記憶がありますぞ。)
なるほど「視点」では

こうした今日の世界における「難儀」のありようは、私たちには、その生々しい映像がテレビやネットで流されるたびに、つい目を逸らしたくなる過酷な現実として映っているのではないか。確かに、一人ひとりのようぼくが、こうした現実の改善に直接的に関わることは難しい。私たちが日々の生活の中で心がける「たすけ」は、まずは自らの足元から始めるほかはないだろう。
だが私たちは、あえてこうした世界の「難儀」に目を凝らし、想いを馳せるよう努めることで、その意味を思案するとともに、こうした現実に直面する人々もまた親神様の「こども」として、「きょうだい」として、私たちとつながっているという真実を、深く悟ることができるのではないだろうか。その悟りはまた、教祖が「おふでさき」に記された意味を、新たな眼差しで見つめ直す契機にもなり得るだろう。そうした思案を深めることで、私たちは「一れつきょうだい」という教えの神意を、真に実感できるようになるかもしれない。

『天理時報』立教186年3月22日号「視点」

と、世界にあふれる「難儀」の現実を直視し、日常の中で身近なところから「たすけ」に励み、同時に困難に直面する人々も「きょうだい」として、私たちとつながっていることを悟ること。という前向きな心の治め方・進み方を示してくれてはいますが、やはり神の立腹が「難儀」をもたらすということに一片の疑問も差し挟んではいませんよね。
教内の『おふでさき』研究の文献をひもとく時、たとえば芹澤茂氏の名著『おふでさき通訳』では6号91のお歌について

月日よりたん/\心つくしきり
そのゆへなるのにんけんである 6号88

それしらす今のところハ高山ハ
みなはびかりてまゝにしている 6号89

この月日大一これがさんねんな
どんなかやしをするやしれんで 6号90

このせかい山ぐゑなそもかみなりも
ぢしんをふかぜ月日りいふく 6号91

と前後のお歌をからめて

「この世界において山崩れなども雷も、地震や大風は月日の立腹。どんな大社高山も油断するな。いつどき、月日が飛んで出るか。一れつに誰にでも、皆わが身に気を付けよ。」(大意です)

と、「かやし」という言葉とセットで、自然災害を神の「りいふく」の現れと仰っています。

また昭和後期に天理教校専修科のカリスマ的主任であった矢持辰三氏が記した『おふでさき拝読入門』にも
月日教祖が身が心を尽くし切って創造した人間であるのに、それを知らない上層の人々が自分たちの思うがままに支配していることへの残念が語られ、それに対してどんなかやしをするか知れない。(中略)
この世の天変地変、すなわち山崩れも雷も、また地震も大風も、月日親神の立腹の現れである。」

と記されています。
このお二人の言葉は重いですよ。間違っても私のような野良犬noteライターが、異議申し立てを許されるような方々ではありません。
また『おふでさき』研究に関する他の文献においても、おおむね同様の解釈がなされています。
事ここに至っては、もはや地震などの天変地変を神の残念の現れである立腹によって「かやし」されたものという解釈を認めないわけにはいかないのでしょうか。

いや駄目だ。それはできません。(しつこいぞ)
それが残念立腹の現れであるという解釈を、私の中の歪んだ良心のようなものが激しく拒むのです。
例えるなら、無理矢理押しつけられた使い道のない高額商品。みたいな感じなんですよ。(語彙力w)
私は以前『科学と「元の理」 秋治さんへのアンサー』で、地震などの災害に対する神の思いについての疑問が、秋治・shinさんの著書を読んだことによって自分なりの気づきを得て、心が救われたことを書きました。
でも、教団内で定説とされるこの解釈だけは未だに納得がいかないのですよ。
困ったもんです。まあ、神さんからすればデキの悪い子が駄々をこねてるだけに見えるのでしょうね。
そもそも、教祖ご在世当時の大和地方では、「立腹」という言葉を「りいふく」と表記することが通例だったのでしょうか。あれこれ調べてみましたが、その例を見つけることができませんでした。そんなこともあって、
「りいふく」=「立腹」ではなく、
「りいふく」=「理い吹く」
つまり「理を吹く」と読み替えるほうがいいのではないかとひらめきました。
「立腹」や「かやし」が、やむにやまれぬ神意の具体的発動であるならば、「りいふく」を「理を吹く」と読み替えても通じるのでは無いかと思ったのです。
それに「立腹」よりも「理を吹く」のほうが、神の厳しい理の仕込みを受けたとしても、心から反省し軌道修正すれば、先々で事態が好転するという含みを感じられるじゃないですか。(違うかな)
実際、置き換えが可能なお歌もありそうなんですよ。

『おふでさき』に登場する「りいふく」は

やまいとてせかいなみでハないほどに
神のりいふくいまぞあらハす 1号25

このあしハやまいとゆうているけれど
やまいでハない神のりいふく 1号32

りいふくも一寸の事でハないほどに
つもりかさなりゆへの事なり 1号33

りいふくもなにゆへなるどゆうならハ
あくじがのかんゆへの事なり 1号34

とふぢんがにほんのぢいゝ入こんで
まゝにするのが神のりいふく 2号32

なにもかもごふよくつくしそのゆへハ
神のりいふくみへてくるぞや 2号43

このよふハいかほどハがみをもふても
神のりいふくこれハかなハん 5号3

このさハりてびきいけんもりいふく
みなめへ/\にしやんしてみよ 5号20

どのよふにいけんりいふくゆうたとて
これたすけんとさらにゆハんで 5号22

しんちづの月日りいふくさんねんわ
よいなる事でないとをもゑよ 6号71

このせかい山ぐゑなそもかみなりも
ぢしんをふかぜ月日りいふく 6号91

かみなりもぢしんをふかぜ水つきも
これわ月日のざねんりいふく 8号58

なんどきにとのよな事をきいたとて
これハ月日のざねんりいふく 12号87

このさきハ月日のざねんりいふく
みなはらすでなこれがしよちか 13号35

月日にもざねんりいふくはらしたら
あとハめづらしみちをつけるで 13号36

それゆへに月日のざねんりいふく
山/\つもりかさなりてある 13号105

けふの日の神のさんねんりいふく
よいなる事でないとをもゑよ 16号52

などですが、たとえば

やまいとてせかいなみでハないほどに
神のりいふくいまぞあらハす 1号25

このあしハやまいとゆうているけれど
やまいでハない神のりいふく 1号32

りいふくも一寸の事でハないほどに
つもりかさなりゆへの事なり 1号33

りいふくもなにゆへなるどゆうならハ
あくじがのかんゆへの事なり 1号34

などは明らかに秀司さんの脚の病と屋敷の掃除に関わるお歌であり、感覚的には大勢の人々が命を失う大規模自然災害などと同列には考えにくいのですが、同じ「りいふく」という言葉が使われています。
もちろん、元の屋敷の掃除が当時のお道にとって最重要にして喫緊の課題であったことは理解できます。
それでも何となく「りいふく」の度合いが他のそれとは違うような気がしてなりません。何故なら「りいふく」によって起きる「かえし」が明記されていないからです。

その後、号が進むにつれて「りいふく」による「かえし」の実相が、山ぐゑ(山の崩落)・かみなり(落雷)・ぢしん(地震)・をふかぜ(台風)などの大規模災害を示すようになることを考えると、やはり「りいふく」の度合いに差があるようにも思えます。

そんなこんなで各首の前後のおふでさきとの関連づけを考慮しながら「りいふく」を「理を吹く」に読み替えると、あながち「とんでもない主張」ではないように思えます。(手前味噌です完全に)
もちろん『おふでさき』を真摯に研究された方からすれば、こんなことは異論・暴論・愚挙以外の何物でもないと思うのですが、こう考えなければ安眠できないのですよ私は。

おかげで今夜は深い眠りにつけそうです。
今回の記事は、言ってみれば愚痴のようなものですので、教理的論破を目論むのはご遠慮ください。勝てる気がまったくしませんのでw

ではまたいずれ。

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