本年最初の記事になります。
盟友いっけん氏によるnote『春季大祭を前にして、明治20年陰暦正月26日午後の割書とおさしづを読む』を読んで思ったことを記します。
いっけん氏は上記の記事の中で、割書を「考察」するのではなく「味わう」ことに注力したと言います。
また「この記事の思案は私の“肌感覚”であって、教学を修められた先生方の考察には到底及ばず、しかも及ぼうとも思わず、陰暦正月26日の『割書』『おさしづ』を音読すればするほど伝わってくる、おやさまお隠れ当日に至る情景を追い、綴ってみた」と謙虚に記されていますが、「教学を修められた先生方の考察には到底及ばず、しかも及ぼうとも思わず」という一文にいっけん氏の信仰者としての矜持と気概を見る思いがしました。
それこそが信仰です。信仰者にとって大切なものは、味わうということ。つまり鋭敏な肌感覚なのだと僕は信じています。
今回の僕の記事が、そうした信仰的味わいを深めるための参考になれば幸いです。
さて、まず明治二十年陰暦正月二十六日のおさしづ割書を引用します。(※割書とは、神様からの指図を伺った時の状況や背景が説明的に記されている部分をいいます。おさしづ本文の前か、場合によっては途中に挟み込まれる場合もあります)
以上の割書を一瞥しただけでも、この時つとめられた「おつとめ」が、天理教史上最も緊迫したものであったということは言を俟たないでしょう。神のやしろたるおやさまです。お側の方は必ずご守護いただけると強く信じていたことでしょう。しかし、同時に一抹の不安もあったのではないかと想像しています。何故ならば、その時のおやさまのご容態を『稿本天理教教組伝』に記されたテクストでしか窺い知ることのできない現在の我々とは違い、彼ら傍な者は、傷つき衰えていくおやさまのお姿を目の当たりにしていたはずなのですから。僕はおやさまが人間の身体を社としている以上、生物学的な衰えや身体の老化はあったと思っています。もちろん、それをもっておやさまの「神性」が損なわれるなどとは些かも思っておりませんが、前年の櫟本分署への拘留(最後のご苦労)で負った、老いた身体へのダメージは、なまなかなものでは無かったと想像できます。
ところが、以前『中山みきー老いて傷つきやすく脆い身体ー』でも書いたように『稿本天理教教祖伝』第9章「御苦労」と第10章の「扉ひらいて」では、おやさまが衰弱されていく様子の客観的な記述がほとんどありません。
その点について、東京大学人文社会系研究科・宗教学宗教史学の渡辺優博士は次のように述べています。
この論述は約百四十年後を生きる我々が、明治二十年陰暦正月二十六日に思いを馳せ、陰暦正月二十六日のその日をリアルに思い浮かべるための一助となるでしょう。否、傍な者が抱いた葛藤と逡巡の在処を知るためにも、絶対に知っておくべき事実であると僕は思っています。
渡辺氏がいうように、周囲の人々はご高齢のおやさまが「頼るべき者」、「強き者」であると同時に、自分たちが守らなくてはならない「弱き者」だという認識もあったはずです。
また、批判を恐れず敢えて言うなら、おやさまが亡くなるやも知れぬという不安は、この世界から神が退場してしまうという恐怖と絶望感を伴ってお側の人々を襲ったのではなかったでしょうか。
神様は
「律が、律が怖わいか、神が怖わいか、律が怖わいか。」
と迫られましたが、傍な者は法律を破ること自体を恐れていたわけではなかったと思うのです。法を犯すことによって生じる衰弱したおやさまの拘引と留置。
その結果として生ける神、中山みきその人を失うことをただただリアルに恐怖していた。陰暦正月二十六日の葛藤と逡巡の根源はそこにあると僕は思っています。それが僕の肌感覚なのです。
さて、この日に命を賭しておつとめをつとめた人々(家事取締も含む)の年齢を見てみましょう。(註:年齢については満年齢と数え年が混在している場合もあります)
※敬称略
地方 泉田藤吉(47歳)・平野楢蔵(42歳)
神楽 真之亮(22歳)・前川菊太郎(22歳)・飯降政甚(24歳)
山本利三郎(38歳)・高井猶吉(27歳)・桝井伊三郎(38歳)
辻忠作(52歳)・鴻田忠三郎(60歳)・上田いそ(50歳)
岡田与之助(宮森与三郎)(31歳)
お手振り 清水与之助(46歳)・山本利三郎(38歳)・高井猶吉(27歳)
桝井伊三郎(38歳)・辻忠作(52歳)・岡田与之助(31歳)
鳴物 中山たまへ(琴)(11歳)・飯降(永尾)よしゑ(22歳)(三味線)
橋本清(つゞみ)(年齢不明 20代から40代か?)
家事取締 梅谷四郎兵衞(41歳)・増野正兵衞(39歳)
梶本松治郎(30歳)
最年長が60歳の鴻田忠三郎さんで最年少は11歳の中山たまへ様です。
年齢不明の橋本清氏は幕末最末期の生まれといわれているので、仮に30歳として計算すると、全19名の平均年齢は約35歳。
徳川の世からの維新回天を成し遂げた志士たちがそうであったように、明治の人々の精神年齢は我々よりもはるかに高かったと言われていますが、それにしても若い。
その若き傍なる者にとって、明治二十年陰暦正月二十六日の出来事はどのような意味と重さを持って各々の胸に迫ったのでしょうか。
そこに居合わせた先人の心の内を想像しようとするとき、それを拒むなにものかが立ちはだかっていると感じることがあります。それは僕がおつとめの大切さを頭で理解しながらも、老いて傷つき衰えていくおやさまのお姿を目の当たりにしていないからなのでしょう。
極寒の明治二十年陰暦正月二十六日。心の裂け目から血が吹き出すほどの葛藤に苛まれるまれる中、遂につとめの勤修を決意した先人たちと、ただ頭の中だけでおつとめの大切さを理解している僕との間には、決して越えることのできない大きな河が横たわっているとさえ思えてしまいます。
それでも、先人たちがその時に体験した身も心も引き裂かれるような煩悶こそが、彼らの信仰を一層強靱で豊かなものにしていったことは想像に難くありません。
ならばこそ、
とのお言葉が、絶望と哀しみの底に沈む彼らをどれほど勇気づけたことでしょうか。
この言葉は「理と情」の狭間で苦しみ抜いた子供だけが真に理解できる、おやさまの親心そのものなのだと思います。
明治二十年陰暦正月二十六日を経て、おやさまの御心を胸に携え駆け抜けてくれた先人たちの道中があったればこそ、道は連綿と今に続いています。
いっけん氏は言います。
と。
正鵠を得る。とはこのことを言うのでしょう。共感しかありません。
「今からたすけするのやで」と高らかに宣言されたおやさまのお言葉を永遠の追い風とし、先人の苦労を偲びつつも、自由におつとめをつとめられることの喜びを胸に、陽気づとめをつとめることが、おやさまと先人に報いる正しき春の大祭のあり方だと僕は確信しています。
以上、いっけん氏の記事へのアンサーとして、また割書を味わうための一助となることを期して、肌感覚の稚拙な文章を投稿させていただきます。
最後に少しだけ余談を。
明治二十年陰暦正月二十六日。おやさまが現身を隠された時、お孫さんのたまへ様(後の初代真柱夫人)は11歳でした。
たまへ様は明治14年に父親の秀司さんを亡くし、翌年には母親のまつえさんを喪っています。つまり5歳で父を、6歳で母を亡くし、11歳で唯一の肉親である祖母のおやさまを亡くしています。
その時点で中山本家の最後の一人になってしまいました。どれほどお寂しいことだったでしょう。
畏れ多いことではありますが、春の大祭を迎えるたびに、僕はこの時のたまへ様の寂しさや心細さに思いをはせてしまうのです。
たまへ様については以下の記事で少しだけ触れています。
『教祖(おやさま)のご日常と存命の理について』
また、明治二十年陰暦正月二十六日時点で入信していた先人たちには以下のような方々がおられました。参考までにご覧いただけたらと思います。
山中忠七(61歳) 山澤為造(31歳) 西田伊三郎(62歳)
山本利八(68歳) 泉田藤吉(47歳) 増井りん(45歳)
西浦弥平(44歳) 上田ナライト(25歳) 松村栄治郎(46歳)
板倉槌三郎(28歳) 井筒梅次郎(50歳) 土佐卯之助(33歳)
上原佐助(38歳) 深谷源次郎(45歳) 山田伊八郎(40歳)
諸井国三郎(48歳) 喜多治郎吉(36歳) 松村吉太郎(21歳)
綺羅星の如き先人たちですね。
最後に、明治二十年一月四日 (陰暦十二月十一日)から、同年陰暦正月二十六日までのおさしづ割書を記載しておきます。
春季大祭を、より一層意義あらしめることを願って。
ではまたいずれ。