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中山みきー老いて傷つきやすく脆い身体ー

渡辺優博士
東京大学人文社会系研究科・宗教学宗教史学 准教授
昨年の春、彼の論文『教祖の身体-中山みき考』(2015年)を読み深い感銘を受けた。
実は渡辺優氏は僕にとっての「アイドル」である。
なにせ論文が面白いのなんの。掘り下げる対象の選び方にも、凡百には及ぶべくもないセンスを感じている。ワクワクさせてくれる論文の書き手というのは、いそうでいないものである。
この論文以来、すっかりファンになってしまった僕は、親しみを込めて彼を「優ちゃん」と呼んでる。無論一度も会ったことはないのだが、ファンなのだからそれくらい許されるだろう。
優ちゃんは以前、天理大学の講師だったが、今では母校の東京大学に移り准教授になっている。
天理大学に残っていたら、天理教に関する論文を書く時に様々な制約もあると想像されるので、東大に移って良かったと思う。ナニモノにも妨げられることなく、これまで以上に自由な発想で研究ができるのではないだろうか。

さて今回は優ちゃんの名論文『教祖の身体-中山みき考』を横目で見ながら、「最後の御苦労以後の傷つき衰える教祖中山みきの身体」と、それをリアルタイムで目の当たりにしていた「傍なる者たち」の信仰について考えてみたい。

「最後の御苦労」について

優ちゃんのこの論文の中で、一番印象的だった一節がこれだ。

みきの晩年、明治20年陰暦正月26日に向かって神人のあいだで繰り広げられてゆくドラマ、そのなかで鍛えられ深められていったと思われる人びとの信仰は、少なくとも当時の人びとの目には弱きもの、それゆえ守るべきものとしてあったみきの身体と切り離しては考えられないということである。
みきを慕う信者たちにとって、教祖みきは、言うまでもなく頼るべき者、強い者であった。だがまた、信者たちにとって彼女の存在は、自分たちが守るべき者、弱い者でもあり、時が経つにつれてますますそうなっていったのではなかったか。
あくまでもみきの神格を強調する後世の教学者は、教祖の「御苦労」とは、どこまでも人間の目から見ての「御苦労」であったにすぎないと言う。だが、どう捉えようと、当時の信者たちの目には、眼前の「神の身体」は、老いて傷つきやすく脆い身体として映っていたはずである。
彼ら・彼女らにとって、教祖みきの「御苦労」は、教祖の身体を実際に傷めつけるものとしてリアルに認識されていたということを忘れてはならない。

渡辺優『教祖の身体-中山みき考』(2015年)

この記述に目の覚める思いがした。
『稿本天理教教祖伝』には教祖が年老いて衰弱していく記述がほとんど無い。
明治20年陰暦正月二十六日の直前を描く第9章「御苦労」と第10章の「扉ひらいて」においても同様である。教祖が傷み傷つき衰える教祖の客観的な記述は皆無に等しい。いやむしろ、

明治十八年になると、教祖は八十八歳。この年、北の上段の間の南につゞく二間通しの座敷で、米寿を祝われたが、その席上、教祖は、当年二十歳の真之亮と前川菊太郎の二人を、同時に背負うて、座敷を三周なされた。並み居る人々は、驚きの眼を見はった。

『稿本天理教教祖伝』第9章「御苦労」

など、教祖は88歳にして壮年男子並に頑強であったことが殊更に強調されていたりするが、僕はこの記述を額面通りに受け取ってよいものなのだろうかと、ふと考えてしまうのだ。
20歳の真之亮(敬称略)と菊太郎の二人は、老いた教祖の背に覆いかぶさり、全体重をまともにかけるなどということが本当にできたのだろうか?
よしんば教祖のご指示通りに背におぶさったとしても、その足は畳(板の間か?)に着けたままで教祖に体重を預けることなく、背にそっともたれるだけだったのではないだろうか。いずれにしてもそれなりに加減していたのではないかと疑ってしまう。
『稿本天理教教祖伝』や『天理教教祖伝逸話篇』には教祖の常人離れした力を描いたお話がいくつかあるが、ほとんどが高齢になられてからの挿話であり、しかも誰かと引っ張りあう力比べや、相手の手の甲の皮をつまんで持ち上げる話など、力を発揮する相手が目の前に存在するお話が多いように思う。教祖が単独でとてつもない重量物を持ち上げたとかいう話ならともかく、二人を背負った話は絶対的客観性に欠ける逸話のような気がしている。
断っておくが、僕は教祖の神性を1ミリも疑っているわけではない。神様が入り込んでいる教祖である。超人的な力を発揮されても不思議ではないが、あえてその力を発揮したお話を強調せずとも、教祖の神性がいささかも損なわれることなどあるはずもない。
であれば、こうした逸話をもって「教祖は本当に神様なのだ」と、ことさら強調する必要はないと僕は感じている。

いきなり『稿本天理教教祖伝』の記述にケチをつけた感じになってしまったが、僕は「教祖の心は神であっても、その肉体は人間としての生物学的制約に従って存在していた」と言いたいのだ。つまり教祖も人間の身体を持つ以上、痛み、病み、衰え、死からは逃れられなかったということを強調したいのだ。
教祖の身体は我々人間と同様、年齢とともに確実に衰えていかれた。
そう考えると、30年来の寒さといわれた真冬の拘留(最後の御苦労)が、89歳の老婆にとってどれほど厳しいものであったか、あらためて想像し直すことができるだろう。
余談だが、僕は櫟本分署跡保存会を訪ねたことがある。
どうしても、極寒の中で教祖が身を置かれた櫟本分署の、街道に面した板の間を見たかったからだ。
現場に立ち、もっと早く来るべきだったと痛切に思った。教祖が座らされた板の間を見て心からそう思った。櫟本分署跡保存会さんに対して、「よくぞ保存してくださった」と、感謝の気持ちで胸がいっぱいになったのを憶えている。

夜が明けると、早朝から、教祖を、道路に沿うた板の間の、受付巡査の傍に坐らせた。外を通る人に見せて、懲しめようとの考からである。

『稿本天理教教祖伝』第9章「御苦労」
大阪府奈良警察署櫟本分署跡 板の間

『稿本天理教教祖伝』には教祖が身体的暴力を加えられる描写はないが、この吹きさらしの板の間に座らされてるだけで、老いた体は確実なダメージを受けたはずだ。ちなみに

巡査は、これを聞いてますますいきり立ち、『懲りないのか』と云って教祖を引きずるように井戸端へ連れて行った。『のぼせている故、井戸端に連れて行き水をかけよ、目を覚ましてやる』と、汲み上げた水を掛けたと云う。教祖の襟髪を開け、柄杓ひしゃくの水を掛けたとも伝えられている。水を掛けられて、教祖が息を呑む声が外まで聞こえた、と伝えられている。
櫟本分署の向い側は、分署の貸主である油やの神田家だった。神田家では、この期間に老婆の悲鳴を何度も聞いたことを現在に語り伝えている。この時の神田家のご新造さんは、みつと云い、半年後に生まれた娘にみきと名づけたほどの教祖心酔者となった。『老婆の悲鳴』につき、その後の天理教が真実の教祖像を伝えていないとして、この櫟本分署後を保存し、代々正しい教祖像を伝えるように子孫に遺言し今日に至っている。

『顕正教祖伝』第一回

という文章がある。これは天理教本部が徹底的に無視している八島英雄『顕正教祖伝』からの抜粋だが、実在する「神田家」という固有名詞まで出している以上、まったくの創作とは考えにくい。充分にあり得る話だと思う。
何故なら『復元』第31号にも

(省略) (明治十九年)弐月 櫟本分署より巡査六人來りて表裏の門をしめ内尓居るものを改めて教祖様と中田桝井樣拘引分署尓十二時拘留となり教祖様ハおひさ樣付添十二日間分署板間尓留置なりました其時さし入尓ゆき居るふ巡査が教祖様を無暗尓打ちょふちやくすること甚だ敷尓見るも涙の種思ふもかしこきこと亊尓ぞある後三月中ごろから中田儀三郎煩ひとなり五月末尓死去なりました又辻四月廿五日頃より煩ひとなり十二日程之間余程大患となり頭髪もぬける位でありましたが(省略)
※カッコ書きは筆者による

『復元』第31号 P40「ひながた」辻忠作 昭和32年10月

上記引用を現代文に書き直すと、

「明治19年2月、櫟本分署より巡査6人が来て表と裏の門を閉め、お屋敷の中に居る者を調べて、教祖と中田(仲田儀三郎)と桝井伊三郎を拘引して12時から拘留となり、教祖はおひさ(梶本)様が付き添って12日間分署の板の間に留置された。
その時差し入れに行くと巡査が教祖を闇に打擲ちょうちゃく(手や杖で叩くこと)することはなはだしく、見るも涙の種、思うも畏れ多いことであった。
その後(釈放後)仲田儀三郎が患い、5月末に亡くなった。また辻(忠作)は4月25日頃から12日間にわたって大患いとなり、頭髪も抜けるほどであった・・・」

と書かれている。仲田儀三郎が拷問を受けたのであれば、教祖も同様にそれを受けた可能性はゼロではないだろう。
この『復元』での記述については大先輩の信仰者であるM氏が

仲田儀三郎さん(当時五六歳)の死去が改宗をせまる折檻によるものかはわかりません。しかし教祖への打擲については事実かどうかは疑わしく、忠作さんが差し入れ(これも不確実)にいって、そのような現場を見ることなど考えられません。
分署に入ることすら自由にできず、分署の中の様子は、教祖に昼夜の別なくお側に仕えられた、ひさ様に差し入れられた弁当箱のタブレットを通してしか知ることができなかったようです。
またひさ様の書き残されたものの中には、忠作さんの名前は全く見当たりません。
一説によると忠作さんは珍談、逸話の豊富な人で、文字を書かれず、人から聞いた話を代筆してもらったとも言われています。 

『天理教教理随想』

と否定している。言いにくいのだが、もしかしてM氏は辻忠作に恨みでもあるのだろうか。『復元』に収録された辻証言を
「一説によると忠作さんは珍談、逸話の豊富な人で、文字を書かれず、人から聞いた話を代筆してもらったとも言われています。」
と、忠作さんの知識レベルやパーソナリティを根拠に否定する論法は、研究者としての姿勢を疑いたくなる。忠作さんの子孫にしてみれば看過できない侮辱なのではないだろうか。

確かに辻さんはユニークな方だったようだ。『清水由松傳稿本』にはその型破りな人となりが記されている。たとえば

お道のお話となると何もかも忘れてしまう程熱心で、火鉢を挟んでの膝つきのお話に、火鉢で相手を押してゆかれるので相手がすざると、又押してゆかれる。遂には部屋中をぐるぐる廻りされたという逸話は余りにも有名である。こんな熱をもってグングン相手を説服せずにおかぬというような話しぶりは、先生以后にはちょっと見当たらない。そして特に記憶のよい人で「今から何年前の何月何日に神さんがこう仰言った。ああ仰言った」と正確に憶えていられた。その別席のお咄は、泥海古記をとても詳しく説かれた。鴻田忠三郎先生も泥海古記をよく説かれたが、その詳しさと相手を得心さす話し方とは、到底辻先生の比ではなかった。別席で泥海古記を詳しく話されたのはこの両先生だけである。
(中略)
もともとお百姓出のこととて服装も飾らず行儀作法もなく、老年になってからも、旧藩時代のままに振舞われたので、本席様の御随行で出られた時など、顔の赤らむようなことが多かったと本席様が時折話してをられた。何しろ一番古い人だからどこへ行かれても、本席のすぐ傍らに席がとってある。本席はなかなか慎しみ深く心得たかたとて、すべて心得て振舞われたが、辻先生は昔の百姓の習慣を丸だしで、座席も何も頓着されず、お膳部が出ると、お皿に盛った料理をお箸で、左掌の凹(くぼ)にとってその掌を口へもってゆかれる不作法さであった。朝起きると金だらいにちゃんと洗面の用意が出来ているのに、手水鉢の水を掌ですくって口をすすぎ、顔をくるくるとぬれ手で撫で廻してそれで平気でおられた。
 こんな具合で後には本席様も随行におつれにならなかった。けれども何の悪気もなく、昔風で堅かっただけで、言わば世間知らずであった。
(中略)
少しもえらばる(高ぶる)事なく、誰に対しても公平につきあい、えらい先生だからといって遠慮もせず、青年さんだからとて見下げず親切にされるので、どの青年も心安くなり過ぎて、ほかの先生方に対してのように畏(おそ)れんことになってしまった。先生はいつもおつとめの時「ぢかた」に出られ、かぐらづとめには西の大戸辺さんをおつとめになった。当時の「ぢかた」は大抵辻、平野楢蔵、山中彦七、島村菊太郎の四先生であった。四人の内で尤も声の高かったのは平野先生で、その次が島村先生の浄瑠璃声、そして尤も低いのが辻先生であったが、辻先生は平野先生の声にいくら押されても平気で、口も顔も身体も全部を動かして、身体全体でぢかたされた。それを見ている者は、自然と身体に力がはいって、誰でも勇まずにはおれない位、熱誠表に現れたものであった。別席のお話でも一生懸命で聴き手は、いつの間にか感動せずにおられないように引きこまれていった。
まことに特異な風格をもった先生であった。

『清水由松傳稿本』

などと書かれてる。「常識をわきまえない人」とディスる一方で、いかにも教祖がお好きなタイプの汗っかきで泥臭い高弟という感じもしっかり伝わってくるのが救いだ。僕はそんな辻さんが、わざわざ嘘の証言をするはずがないと思っている。今さら真偽は調べようもないのだが。

M氏のことは置いておき、『稿本天理教教祖伝』には梶本ひさ(初代真柱の姉)の以下の証言が記述されてる。

 分署にお居での間も、刻限々々にはお言葉があった。すると、巡査は、のぼせて居るのである。井戸端へ連れて行って、水を掛けよ。と、言うた。しかし、ひさは全力を尽くしてこれを阻止し、決して一回も水をかけさせなかった。

『稿本天理教教祖伝』第9章「御苦労」

この梶本ひさ証言については『稿本天理教教祖伝』に記されている以上、疑うことなく文字通りに受け止めるべきだろう。ひささんは警官が教祖に水をかけることを全力で阻止したのだろう。しかし厳寒期に教祖が水をかけられそうになったことは確かである。
教祖に対する拷問があったにもかかわらず、『稿本天理教教祖伝』にそれが記述されていないのは、たとえそれが旧法時代の出来事だったとはいえ、国家権力による拷問の事実を『稿本天理教教祖伝』という教祖の伝記に残すことを二代真柱が良しとしなかったからではないか?と考えるのは邪推に過ぎないだろうか。
余談だが、梶本ひさは櫟本分署で教祖がおやすみになるとき、教祖の草履に自分の帯を巻いて枕の代わりに使っていただいたが、その帯を後年廃棄している。
人から「あんなに大事なものを捨ててしもうたんかいな?」
と問われた時。
「あんなものを置いておけるかい!」
と大変な剣幕で怒ったという。
それほどまでに、傍な者にとっての教祖最後のご苦労は、思い出したくもない辛く悲しい出来事だったのだ。

拷問が行われたか否かはさておき、教祖の身体は確実に衰弱していった。これについては教祖は立教以来神そのものであったという「突発説」支持者にも異論は無いだろう。

最後の御苦労からお屋敷にお帰りになられてからの教祖のご様子について『天理教教祖伝逸話篇』に

185.どこい働きに
明治十九年三月十二日(陰暦二月七日)、山中忠七と山田伊八郎が、同道でお屋敷へ帰らせて頂いた。教祖は、櫟本の警察分署からお帰りなされて以来、連日お寝みになっている事が多かったが、この時、二人が帰らせて頂いた旨申し上げると、お言葉を下された。
「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。そこで、指先にて一寸知らせてある。その指先にても、突くは誰でも。摘もみ上げる力見て、思やんせよ。」
と、仰せになって、両人の手の皮をお摘まみ下されると、まことに大きな力で、手の皮が痛い程であった。両名が、そのお力に感銘していると、更にお言葉があった。
「他の者では、寝返いるのも出けかねるようになりて、これだけの力あるか。人間も二百、三百才まで、病まず弱らず居れば、大分に楽しみもあろうな。そして、子供は、ほふそ、はしかのせんよう。頭い何一つも出けんよう。百姓は、一反に付、米四石、五石までも作り取らせたいとの神の急き込み。この何度も上から止められるは、残念でならん。この残念は、晴らさずには置かん。この世界中に、何にても、神のせん事、構わん事は、更になし。何時、どこから、どんな事を聞くや知れんで。そこで、何を聞いても、さあ、月日の御働きや、と思うよう。これを、真実の者に聞かすよう。今は、百姓の苗代しめと同じ事。籾を蒔いたら、その籾は皆生えるやろうがな。ちょうど、それも同じ事。」
と、お聞かせ下された。

『天理教教祖伝逸話篇』185話

という記述がある。この逸話の元になっているのは『山田伊八郎文書』だと思われる。

明治十九年三月十二日(旧2・7)
神様の仰せ(最後の御苦労お帰り後十二日目のお言葉)

明治十九年旧二月七日、神家敷へ参りがけに大豆越村山中宅へ、ざしき棟上の日を尋により、父忠七殿と導同にて参詣致。神様ハ、やすんでござるを、父が、ゆすりおこされ、神様の仰にハ 旧正月十五日より、神様と、仲田佐右衛門(儀三郎)様と伊豆七条村増井(桝井)伊三郎様と、又、神様のつき添に櫟本村おひさ様と、四名の御
方、櫟本分署へ十二の拘留にて御苦労下され 右公留ハ倉橋村心勇組ノ内より講中十八ヶ村押込、むりからでも、つとめをさしてもらをふと思て、三百人余ノ人数を段々願ひ、是に付テ公留。
帰宅ハ旧正月二十六日に。おかいり後、もどりてから今日で十二日目になる。夫レより毎日、ねふどふし、耳ハ きこへず、めへハとんとみへず。神様あが暫クしてから神様の仰にハ、天の月日様の仰にハどこいはたらきい行やらしれん。それに、おきてるとゆふと其のはたらきの、じゃまになる。しとり、めへあくまで、ねていよふ。なにも、よわりたかとも、ちからおちたかとも、かならずおもうな。
そこで、いび先にて一寸しらしてある。其いび先にても、つくハ誰でも、つもみ上るちからみてしゃんせよ。
父忠七殿伊八郎両人手をつもみ上ケ下され其大成(おおいなる)ちからいかにもかんしん致神様の仰にハ外(ほか)の者でねがいるのも、でけかねるよふに成りて、是丈ヶのちから有か。との仰也
又、人げんも、二百三百歳まで、やまず、よハらずに、いれバ、だいぶんに、たのしみもあろうふな。そして子供ハほふそ、はしかのせんよふ、かしらい、なに一ツもでけんようふ。又、百姓ハ、一反ニ付、米四石、五石までもつくりとらせたいとの神のせき込このなん度も上からとめられるハざんねんでならん。此ざんねん、はらさずにおかん。又、この世界ぢゆふに、なににても、神のせん事、かまわん事、更になし。
なん時どこから、どんな事をきくやしれんで。そこで、なにをきいて
も、さあ、月日の御はたらきと、おもうよふ。是を、しんぢつのものにきかすよふ。又、今ハ、百姓のなわしろしめと、おなじ事。もみお、まいたら其もみハ、皆はいやろうかな。ちょふど、それもおなぢ事。
右を、こと/\/\く神様の仰也。
一寸日日におさとりより、神様の窺にハ、こんとハ、たすけより、ざんねんはらしがさき。

『山田伊八郎文書』P152-156

この二つの文章を対比すると、『山田文書』には
「帰宅ハ旧正月二十六日に。おかいり後、もどりてから今日で十二日目に
 なる。」
とあり、教祖が釈放されお屋敷に帰られてからその日まで12日間、床に伏したまま寝ていたことと、聴力も視力も失っていたという、驚くべきことが記述されている。『稿本天理教教祖伝』に記述されていない理由は想像できるが、そこは敢えてスルーする。
しかし、視力も聴力も失うほどに衰弱した教祖のお姿を思い浮かべる時、深い悲しみと激しい怒りが僕の心の中で渦巻くのだ。
また『山田文書』の最後に記されている「こんとハ、たすけより、ざんねんはらしがさき。(今度ばかりは、たすけよりも残念晴らしが先や)」という常ならぬ強いお言葉を目にするとき、やはり拷問はあったと想像したくなる。
教祖はこの後、6月22日に最後の御苦労で共に拘留された愛弟子の仲田儀三郎さんを喪うことになる。儀三郎さんに関しては事実上の拷問死と言って間違いないだろう。
冒頭で引用した優ちゃんの論文の一節、

みきの晩年、明治20年陰暦正月26日に向かって神人のあいだで繰り広げられてゆくドラマ、そのなかで鍛えられ深められていったと思われる人びとの信仰は、少なくとも当時の人びとの目には弱きもの、それゆえ守るべきものとしてあったみきの身体と切り離しては考えられないということである。みきを慕う信者たちにとって、教祖みきは、言うまでもなく頼るべき者、強い者であった。だがまた、信者たちにとって彼女の存在は、自分たちが守るべき者、弱い者でもあり、時が経つにつれてますますそうなっていったのではなかったか。あくまでもみきの神格を強調する後世の教学者は、教祖の「御苦労」とは、どこまでも人間の目から見ての「御苦労」であったにすぎないと言う。だが、どう捉えようと、当時の信者たちの目には、眼前の「神の身体」は、老いて傷つきやすく脆い身体として映っていたはずである。彼ら・彼女らにとって、教祖みきの「御苦労」は、教祖の身体を実際に傷めつけるものとしてリアルに認識されていたということを忘れてはならない。

渡辺優『教祖の身体-中山みき考』(2015年)

に再度目を通す時、当時のそばな者達が教祖に対して抱いていた「たすけの主体としての教祖であり、もろい身体をもつ守るべきお方」という思いの端に触れることが出来る気がするのだが、それはお道の信仰者にとって、とても大切なことだと思っている。
そうした思いをもって、

或る日のこと、
「一ふし/\芽が出る、・・・」
と、お言葉が始まりかけた。すると、巡査が、これ、娘。と、怒鳴ったので、ひさが、おばあさん、/\。と、止めようとした途端、教祖は、響き渡るような凛とした声で、
「この所に、おばあさんは居らん。我は天の将軍なり。」
と、仰せられた、その語調は、全く平生のお優しさからは思いも及ばぬ、荘重な威厳に充ち/\て居たので、ひさは、畏敬の念に身の慄えるのを覚えた。肉親の愛情を越えて、自らが月日のやしろに坐す理を諭されたのである。

『稿本天理教教祖伝』第9章「御苦労」

という記述を読み直すと、教祖のお孫さんであるひさ(梶本ひさ・後の山澤ひさ)さんが思わずかけた「おばあさん」という言葉が、単に肉親ゆえに出た「おばあさん」という言葉だったのではなく、年老いた教祖が守るべき者、弱き者でもるという思いがひささんの中にあったのではないかと見ることもできる。想像が飛躍し過ぎてるかも知れないが。
『稿本天理教教祖伝』の、最後の御苦労で教祖にお供して櫟本分署にいたひささんを、通りを行く人が見て言ったという

あの娘も娘やないか。えゝ年をして、もう嫁にも行かんならん年やのに、あんな所へ入って居る。と言う者もあった。格子の所へ寄って来て、散々悪口を言うて行く者もあった。しかし、後年、ひさ(梶本ひさ・教祖外孫 最後の御苦労当時24歳)は、わしは、そんな事、なんとも思てない。あんな所へ年寄り一人放って置けるか。と、述懐して居た。

『稿本天理教教祖伝』第9章「御苦労」

との記述にある「あんな所へ年寄り一人放って置けるか」というひささんの述懐からは、年老いた人間としての教祖を思う気持ちがあふれ出ている。
そうした気持ちは、おそらく側な者や身内や高弟たちの間での共通した思いだったと想像する。
もちろん、当時人々にとって教祖は真に神様だった。教祖様と書いて「かみさま」という読み方もしていたと聞く。けれども教祖のリアルを知る側の者にとっては、中山みきは傷つき衰える身体をもった「か弱き聖者」でもあったのだ。
教祖に対してそうした見かたをすることは不敬なのかも知れないが、むしろ信仰を深める一助になると僕は信じている。


そして扉は開かれた

こうした新しい教祖像を元に第10章「扉ひらいて」を読むと、また違った味わいがある。
明治20年陰暦26日(2月18日)正午頃からいよいよ教祖の容体は悪化した。
おつとめをつとめることを躊躇う人々に対して、神様は本席のおさしづを通して「神が怖いか、律が怖いか」と迫ったことはご承知の通りである。
この記事を書こうと思い立つ以前は、『教祖伝』の第10章を読むたびに、真柱をはじめとする高弟たちが心を定め切れず、何度も「おさしづ」を仰ぐことに「何をグズグズしているのだ」とイラついたが、今では自分の短慮たんりょを恥じている。
神様は、法律を恐れず神の思いに従う道をとることを迫り続けた。しかしお側の人々は決して法を犯すことが怖かったのではなく、神様の思いに従うのか、それとも病み衰え、命が尽きようとしている教祖を守るのか、という究極の選択を迫られてたのだ。
優ちゃん(渡辺優博士)は教祖が現し身を隠される直前に起きたこの場面を次のように表現している。

人びとは律そのものを恐れていたのではなかった。人びとが真に恐れていたのは、律に背くことにより、教祖に具体的な危害が及び、その身体が傷めつけられることであった。
だが、信仰者を襲ったこの究極的な葛藤は、たんに乗り越えられるべき否定的な苦しみ、弱さではないだろう。
私は次のように考える。「つとめ」の実行を要請する神の言葉は、教祖の身体が現前することによって、人間をただ従わせる命令ではなく、人間にまことの苦しみを通じた深い思索をうながす言葉となり得たのではないか。
おのれが引き裂かれるような葛藤や煩悶が、信仰にとって消極的な意味での疑いや弱さではなく、信仰をいっそう深く、強く、豊かにするものだとすれば、「死」に臨む教祖の身体は、ますます弱く、配慮されるべきものであればあるほど、いっそう人びとの信仰の成熟をうながしたのではないか……。

渡辺優『教祖の身体-中山みき考』(2015年)

さすがだ。「看破する」とはこういうことを言うのだろう。
そして遂に「つとめ」は所定の人数が揃わないままつとめられることに決まった。
みなさんが知る教祖伝の一節。

真之亮から、おつとめの時、若し警察よりいかなる干渉あっても、命捨てゝもという心の者のみ、おつとめせよ。と、言い渡した。一同意を決し、下着を重ね足袋を重ねて、拘引を覚悟の上、午後一時頃から鳴物も入れて堂堂とつとめに取り掛った。その人々は、地方、泉田藤吉、平野楢蔵。神楽、真之亮、前川菊太郎、飯降政甚、山本利三郎、高井直吉、桝井伊三郎、辻忠作、鴻田忠三郎、上田いそ、岡田与之助。手振り、清水与之助、山本利三郎、高井直吉、桝井伊三郎、辻忠作、岡田与之助。鳴物、中山たまへ(琴)、飯降よしゑ(三味線)、橋本清(つゞみ)であった。

『稿本天理教教祖伝』第10章「扉ひらいて」

我々はこの人々を忘れてはならないと思う。
前川菊太郎と橋本清は後に本部を去るが、やはりこのおつとめに出た意味は大きい。
ここでは「若し警察よりいかなる干渉あっても、命捨てゝもという心の者のみ、おつとめせよ。と、言い渡した。一同意を決し、下着を重ね足袋を重ねて、拘引を覚悟の上・・・」と拘引される危機がクローズアップされているように見受けられるが、この人たちはそんなことを少しも気にとめていなかったはずだ。ただただ教祖を守りたかったのだ。このおつとめは、当時の人々にとって「御願いづとめ」でもあったのだから。

そして十二下りが終わるとともに、教祖は満足げに微笑んで現し身を隠される。

つとめを無事了えて、かんろだいの所から、意気揚々と引き揚げて来た一同は、これを聞いて、たゞ一声、「ワ-ッ」と悲壮な声を上げて泣いただけで、あとはシ-ンとなって了って、しわぶき一つする者も無かった。
 教祖は、午後二時頃つとめの了ると共に、眠るが如く現身をおかくしになった。時に、御年九十歳。
 人々は、全く、立って居る大地が碎け、日月の光が消えて、この世が真っ暗になったように感じた。真実の親、長年の間、何ものにも替え難く慕い懐しんで来た教祖に別れて、身も心も消え失せんばかりに泣き悲しんだ。更に又、常々、百十五歳定命と教えられ、余人はいざ知らず、教祖は必ず百十五歳までお居で下さるものと、自らも信じ、人にも語って来たのみならず、今日は、こうしておつとめをさして頂いたのであるから、必ずや御守護を頂けるに違いないと、勇み切って居ただけに、全く驚愕し落胆した。

『稿本天理教教祖伝』第10章「扉ひらいて」

何度読んでも泣ける。このくだりは。
優ちゃんの論文を読んで以降、今までとはまた違った気持ちがこみ上げてくる。
神の退場ともいうべき場面に遭遇し、奈落の底にあった人々がこの後の「おさしづ」によって元気を取り戻すことはご承知の通りである。


よって件のごとし

これからハおやさまわ、せかい中かけ廻るとの事なり。

『梅谷文書』天理教船場大教会史料集成部 (1951年)P114

教祖が神の社としての扉が閉じたその瞬間から、人間による「たすけ」の道が開かれたのであり、同時に教祖が身体という制約を取り払い、自由自在に世界たすけに駆け巡るための扉が開かれたのだ。

教祖の時代、たすけの主体は教祖だった。教祖がたすけてくだされた。教祖のそばへ行くと、痛みがとまり、苦しみが癒えた。息を吹きかけてくだされたとか、腫物の膿に、唾つけてなおしてくだされた話もあるが、祈禱とかまじないをされた話は聞かない。教祖が神さまだった。神のやしろであった。

高野友治『教祖 おおせには』高野眞幸編(2013年)P212

明治20年陰暦正月26日以前、「たすけ」の主体は教祖だったが、教祖が現し身を隠されて後、人間も「たすけ」の主体となったのだ。
今を生きる僕たちは目に見える教祖を知らない。
けれども陰暦正月26日をもって、教祖はお側にいた人々以外の者にも触れ合うことの出来る身近な存在になったのだと思う。
それは教祖と共に生きることでもある。教祖がおぢばの教祖殿に留まるだけではなく、世界中を駆け巡っておられるということは、僕たちの傍らにいつもいてくださるということなのだから。
病める人・悩める人を前に真剣な祈りを捧げる時、教祖は僕たちのかたわらでお働きくださるのだだから。
そしてその教祖は、扉が開かれたあの日の傷つき病み衰えたお姿ではなく、僕たち一人一人が思い描く若々しく活き活きとした教祖であっていいはずだ。
僕たちは教祖の息を直に感じることができた先人たちと何ら変わることなく、教祖と共に今を生きている。きっとそうに違いないと僕は強く思っている。

よって件のごとし。

追記
今回の記事は渡辺優ちゃんに「おんぶに抱っこ」が過ぎるものと自覚しております。
節操のない引用っぷりに自分でも辟易としておりますが、でもとにかく、自分の思いを文字に込めることはできたと思っております。
優ちゃんに感謝です。


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