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教祖(おやさま)のご日常と存命の理について

教祖おやさまのご日常

先日、存命の教祖おやさまのお給仕をされている本部婦人さんからお話を聴く機会を得ました。仮にS婦人としておきます。
※天理教の教祖おやさま存命の理については天理教公式WEBページで
本部になんの伝手つてもない僕などにはうかがい知ることのできなかった教祖おやさまのご日常について、事細かにお聴かせいただきましたので、そのお話をご紹介いたします。
以下にS婦人のお話の要点を記します。

教祖おやさまのご日課

まずご日課についてです。
教祖おやさまは朝づとめの30分前にお目覚めになると、まずご洗顔あそばされ、その後お茶を一服お召し上がりになります。
朝づとめの10分前にお居間から御殿ごてん(S婦人は教祖きょうそ殿を御殿と表現されていました)にお出ましになります。その折りには紋付きをつけた本部婦人さんが赤衣を奉じ、教祖おやさまをご案内さしあげます。
教祖おやさまが御殿にお出ましになると、本部員先生のお手に合わせて参拝者全員で拝をし、朝のご挨拶を申し上げます。

教祖おやさまは御殿から朝づとめを参拝されます。
神殿でのおつとめが終わった後、真柱様(現在は後継者の中山大亮氏が真柱様に代わっておつとめの芯をつとめている)をはじめとする先生方は教祖殿きょうそでん、祖霊殿と順にお廻りになりますが、教祖殿きょうそでんでの拝を終えて祖霊殿に向かわれる頃に、そのまま御殿で朝食を摂られます。その際は担当のご婦人がお給仕をされます。

大亮氏や先生方は祖霊殿の参拝を終えると教祖殿きょうそでんで一般の参拝者と共に“てをどりまなび”をつとめられますが、教祖おやさまはその姿をご覧になりながら朝食をお摂りになります。

その後、教祖おやさまは午前中に一度お居間にお下がりになり、お四つ(簡単なお茶とお茶菓子など。午前はどききょうされるので”お四つ“と言う)をお召し上がりになります。
昼食は大体11時頃にお召し上がりになります。

午後になると、ご入浴なさいます。ご入浴は毎日湯殿にお湯を張り、担当のご婦人がお背中をお流しいたします。

その後、一旦お居間にお下がりいただき、おつをお召し上がりになります。この間に本部員とご婦人で御殿のお掃除をいたします。
お掃除が済むと教祖おやさまは再び御殿にお出ましになられます。

夕食は午後4時半から5時半くらいで、季節に応じて変わります。

その後、夕づとめをご参拝になります。
夕づとめが終わると、1時間から2時間後にはご就床しゅうしょうなされます。
この際も赤衣を奉じ、ご寝室にお下がりいただきます。

毎日、教祖おやさまがご起床される際は、掛かりのご婦人が「おはようございます」と。またご就床時には「おやすみなさいませ」とご挨拶申し上げます。

教祖おやさまのお食事について

教祖おやさまのお食事は、普段は三つのお膳がつきます。
月次祭は七つ。総会などの年中行事の際は五つです。
(※Be註 三食すべてなのか、夕食だけがそうなのかは聞き及んでおりません)
調理は教祖殿きょうそでんの附属建物にある神饌場しんせんばで行います。
明治五年に七十五日の断食の後、九月に教祖おやさまは「別火別鍋」と仰せられました。
ご高齢の教祖おやさまを思い煮物は柔らかく煮て、箸で切れないような堅いものは大きくなり過ぎないよう切っておく。温かいものは冷めないうちに、冷たいものは冷たいうちにお給仕できるようタイミングを計って調理されます。
お食事の際には、炊事本部で作られて信者さんに供される食事のお初が、必ず教祖おやさまの御前にも並びます。
世界各地の信者さんから献じられる「教祖おやさまに召し上がっていただきたい」という真実のこもった御供物は、教祖おやさまがお通りになられる場所に並べられ、まず教祖おやさまにご覧いただき、その後、食材にあたるものなどは調理され、食膳しょくぜんに供せられます。

お給仕の際にはご飯もおかずもたっぷりと器に盛られます。
教祖おやさまのお給仕をされているS婦人は、初めて教祖おやさまのお世話の掛かりを申しつかった際に、「ご高齢の教祖おやさまのお食事にしては量が多いのでは?」と思われたそうです。けれどもその後、

教祖おやさまの食膳に珍しい物を差上げると、きまって黙祷のうえ「おいしいなあ」と仰せになる。その場に二人おれば二人、三人おれば三人に相手の手のひらにそれを分け与えられる。どんな時も自分ひとりで召し上がることがなく、皆とともに喜びをお分かちになったという。教祖おやさまの食事茶碗は、胴黒の大き目のものであった。なぜなら小さければおてぶくぼ(手のひらで受けること)のとき、みんなに行きわたらないので、大きい茶碗をお使いになったのだろうと、りんは推察をまじえて語っている。

「誠真実の道」増井りん より(おてぶくぼ)


という文章を読んで、「ああ。教祖おやさまはお一人で召し上がるのではなく、世界中の多くの人々に分け与えていらっしゃるのだ」と納得されたといいます。
ちなみに、教祖殿きょうそでんで結婚式を挙げる方がいらっしゃいますが、結婚式での”夫婦固めのさかづき”に使われるお酒は、前日の夕食で教祖おやさまに召し上がっていただいた燗酒かんしゅをお下げいただいたものです。
S婦人はそのことを新郎新婦にしっかり伝えておられるとのことです。

また、お給仕をしていると、誰かが神殿で唱えるおつとめの声が教祖おやさまの御殿まで聞こえてくることがあるそうです。
「何かの御礼で参拝されているのでしょうか。あるいは病気の人の助かり願っておられるのでしょうか。それとも高校生の参拝でしょうか。きっと教祖おやさまはそのお声を微笑みながら聴いておられるのでしょう。」と語っておられました。

ちなみに、ご給仕をはじめとする教祖おやさまへのお仕えの仕方は、

おさしづ明治二十五年二月十八日夜
永尾よしゑ前おさしづより中山会長出席の上御願
守りと言うてどうして居る。休息所日々綺麗にして、日々の給仕、これどうでも存命中の心で行かにゃならん。

押して、給仕は日々三度ずつ致しますもので御座りますや

さあ/\心々、心やで。心を受け取るのやで。一度の処を二度三度運べばそれだけ理が日々増すという。これ日々楽しんでくれにゃならん。

宵の間は灯りの一つの処は二つも点け、心ある者話もして暮らして貰いたい。一日の日が了えばそれ切り、風呂場の処もすっきり洗い、綺麗にして焚いて居る心、皆それ/\一つの心に頼み置こう。

『おさしづ』明治二十五年二月十八日夜

という『おさしづ』に依拠いきょするようです。

教祖おやさまのお召し物について

教祖おやさまのお召し物は季節に応じてお替えいただきます。何月何日からという期日は決まっておらず、あくまでもその時々の気候に合わせます。(※Be註 このあたりも形だけにとらわれていないことの表れではないでしょうか)
夏は単衣ひとえ。寒くなるとあわせや綿入れ、お襦袢じゅばんなども気候に合わせてお替えいただきます。
教祖殿きょうそでん結界けっかい近くまで行き参拝していると、冬場などには教祖おやさまのお召し物もあわせなどになり、かさが高くなるので、奉じられた赤衣が少しだけ見えることがあります。

”おまもり”について

証拠まもり

人類のふるさとである”ぢば”に帰った証拠としてお下げ渡しくださるのが”おまもり”です。
おまもりは教祖おやさまがお召しになられた”赤衣あかぎ”を小さく切ったものを頂戴します。教祖おやさまは明治7年から赤衣をお召しになりました。

※ちなみに、S婦人が教祖おやさまのお世話に参上するようになって、初めて教祖おやさまはお着物のみならず、襦袢、足袋、紐、草履ぞうりにいたるまですべてが赤いことを知り驚いたと言います。

この教祖おやさまがお召しになっていた「赤衣」を細かく裁断したものが「証拠まもり」として下附されてきたわけですが、教祖おやさまが現身をお隠しになった3年後の明治23年には、教祖おやさまのこされた赤衣そのものが足りなくなってしまいました。
そこで『おさしづ』を仰ぐと

明治二十三年三月十七日(陰暦正月二十七日)
御守はこれまで教祖おやさまの御衣物を御守に用い来たりしに、皆出して了いになり、この後は如何に致して宜しきや伺

さあ/\尋ねる処、守いつ/\続かさにゃならん。赤衣という、いつ/\続かんなれど、そうせいでもいと、何尺何寸買うてそうすればよかろうと思うなれど、赤き着物に仕立てゝ供え、これをお召し更え下されと願うて、それを以ていつ/\変わらん道という。
御霊前へ供えますや、本席へ御召し更え下されませと御頼み申しますや、どちらでありますや願
さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。日日の道を見て思やんしてくれねばならん。さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。日日の道を見て思やんしてくれねばならん。
押して、御霊前へ赤衣物に仕立て、御召し下されませと御願い致しますにや
さあ/\ちゃんと仕立て御召し更えが出来ましたと言うて、夏なれば単衣、寒くなれば袷、それ/\旬々の物を拵え、それを着て働くのやで。姿は見えんだけやで、同んなし事やで、姿が無いばかりやで。さあ/\ちゃんと仕立て御召し更えが出来ましたと言うて、夏なれば単衣、寒くなれば袷、それ/\旬々の物を拵え、それを着て働くのやで。姿は見えんだけやで、同んなし事やで、姿が無いばかりやで。

『おさしづ』明治23年3月17日(陰暦正月二十七日)

と、「赤い反物たんものを用いて着物に仕立て、それをいったん教祖おやさまにお召しいただいたものを”おまもり”として下げ渡せばよい」とのお言葉をいただきます。これが現在ご下附いただいている”おまもり”です。
この時の『おさしづ』では「姿は見えんだけやで、同んなし事やで、姿が無いばかりやで。」と、教祖おやさまが存命であることも改めてお示しくださっています。

”証拠まもり”は赤い布地を一度着物に仕立てて教祖おやさまにお召しいただき、それをお下げいただいたものを、一針一針丁寧に外して布地に戻し、決められた寸法に切ってアイロンをかけ、”おまもり”として決められた寸法に改めて縫い直して作られます。その際の縫い方、糸の止め方までが厳密に決められているそうです。
その後、一旦教祖殿きょうそでんに供えられた”おまもり”に真柱様がご祈念くださり、その後紙で包んで下附されます。
大切なのは、現在でも教祖おやさまに一旦お召しいただいた後にお下げいただき、その赤衣を丁寧にほどいて”おまもり”が作られているということです。事ほどさように”おまもり”は教祖おやさまのお心がもった尊いものなのです。”おまもり”には教祖おやさまの肌の温もりさえも感じられる気がします。

身上みじょうたすけの御供ごくについて

御供ごくについて

身上たすけの御供

明治三十七年四月三日
洗米御供幾粒ずつにして包めば宜しきや願御供というは大変の理なる。皆々も聞いて居るやろ。さあ/\何も御供効くのやない。心の理が効くのや。気の休め、心の理の休まりに出したるものや。すれば分量計りた薬味に出すのやない。どうしたてこうしたて、何も言やせん。三つ/\これだけ知らして置く。出すがよい、出すがよい。
教祖御前に三粒供えるのでありますや
そうやない/\。たっぷり供えて三摘み/\/\入れて、後へ三粒々々。そうやない/\。たっぷり供えて三摘み/\/\入れて、後へ三粒々々。

『おさしづ』明治三十七年四月三日

という『おさしづ』があります。
御供ごくは、教祖殿きょうそでんで三宝(通常は5台ですが、3台の時もあるといいます)に洗米を載せてお供えし、教祖おやさまにお息をかけていただいた後に下附されます。これを「身上たすけの御供」といいます。

以上、S婦人のお話より、要点だけを記しましたが、率直に言って衝撃的でした。もちろん噂には聴いておりましたが、僕などにはあまりにも遠い世界でのお話でしたので「へー。凄いなあ。教祖がいらっしゃるというていで食事やお風呂などの準備を毎日されているんだなあ」くらいの、言ってみれば形だけのご奉仕のイメージが少なからずあったんですよ。
言葉は最悪ですが、「大人のままごと」みたいに思っていたのかも知れません。
教祖はご存命であると信じていても、「そこに教祖はいてはるんか?」みたいな。
でも、S婦人のお話しを聞いて襟を正す思いになりました。世界たすけに駆け回っておられるご高齢の教祖に、少しでもお心安らけく寛いでいただこうと、ド真剣な思いでお仕えする方々の真心を知り、羞恥しゅうち慚愧ざんきの念に卒倒しそうでした。結局僕は教祖存命の理について、肝心なところを何ひとつ分かっていなかったのです。

教祖殿

さて、前段では教祖おやさまのご日課についてS婦人からお聴かせいただいたことを元に簡単に記してきましたが、ご婦人方が、形だけではなく、本当に心から教祖おやさまにお仕えしている様子が伝わって来ました。
教祖が現身を隠されて後、最初に教祖にお仕えされたのは、教祖のお孫様である中山たまへ様でした。
たまへ様は教祖へのお仕えのし方について

明治二十五年二月十八日夜のおさしづに
永尾よしゑ前おさしづより中山会長出席の上御願
さあ/\心々、心やで。心を受け取るのやで。一度の処を二度三度運べばそれだけ理が日々増すという。これ日々楽しんでくれにゃならん。

『おさしづ』明治二十五年二月十八日

と、『おさしづ』にもあるように「形ばかりにとらわれてはいけない。心が大事なのだ」と、常に教祖にお仕えするご婦人方に仕込まれたそうです。

たまへ様について-Beによる余談-

中山たまへ様は明治10年(1877)2月5日、中山秀司様、まつゑ様の間に生まれました。

中山たまへ様

なわたまへはやくみたいとをもうなら 月日をしへるてゑをしいかり

『おふでさき』七号七十二

と、教祖おやさまが誕生を予言されていた方です。
明治14年、たまへ様4歳で父の秀司様を、翌明治15年には母のまつゑ様を亡くされています。これ以後、たまへ様は教祖によって育てられます。
そして明治20年、11歳の時に祖母である教祖おやさまを亡くし、中山家唯一の人となります。幼くして頼る人をすべて亡くした寂しさ心細さは、我々の想像の及ぶものではありません。
長じるにしたがって、魂のいんねんのあらわれとでもいうのでしょうか、その徳分を十二分に発揮されました。

明治23年12月7日、初代真柱中山眞之亮と結婚。玉千代、正善の1男1女をもうける。
大正3年(1914)12月31日、38歳で夫(眞之亮)が出直し、以後「御母堂様」と呼ばれた。
生来聡明で、記憶力・判断力に優れ、初代真柱夫人、2代真柱母堂として教会設立以後の天理教の発展に力を尽くした。
また、気丈で愛情深く、質素でしかも行動力に富んだ人柄で、一心に親神の思召に沿った生き方は「道の母親」として慕われた。

『喜び勇んでブログ』

御母堂様(初代真柱夫人)にはいつも婦人の役員方に、男松女松のへだてはない、と神さまが仰せ下されたからには、女やからといつていつ迄も男にぶら下つて居るやうではならん。良人(夫)の光によつて光つて居るやうでは良人が居なくなれば光らんやらう、自分で光を出さねばならん』とおさとし下されました。この精神の表はれが、幼稚園、託児所、養徳院の建築で、設計から工事の監督、設備万端まで役員の手でおさせになりました。

『みちのとも』昭和13年9月号

などの記述からも、聡明で記憶力・判断力に優れ、また、気丈で愛情深く、質素でしかも行動力に富む、という素晴らし人柄と強烈なリーダーシップをお持ちの方だったと想像されますが、その強さはきっと教祖譲りだったのでしょう。またその日々の暮らしにおいても、

真柱宅に勤めている方が、新しいお召物をおすすめすると、「新しいもので新しく使うてゆくのは、あたりまえやが、すたるものを活かして使うということは一寸むつかしい。このむつかしい人のやりにくいことをしてこそ、神様はお喜びくださる」

「人も悪人を導いて善人にするのが、この道の精神である」と、日々、そこをよく考えて通るように、とおっしゃいました。
その日々は、「洗いざらした浴衣や、ツギのあたった足袋など」を身につけ、日常の身なりの質素なことは、おどろくばかりでした。

おやさまのことをおもえば、「これで充分や。おやさまは八十、九十というご老体でありながら、冬の最中ににちにちのお召物さえ満足なものは召されなかった。そのお徳をいただいて、『これを着よ、あれを食べよ』と、何一つの不自由もなく、ほんとにもったいないことや」

『天理教online』より

という記述があります。たまへ様の言葉は教祖のお心とお道の精神を私たちに教えてくださっています。

教祖おやさま存命の理

S婦人が語ってくださった、ご自身の「教祖おやさまご存命の理」の受け止め方について記します。

お子様を赤ちゃんの頃に亡くされた婦人は「また別の身体を借りて私たちの元に生まれかわってきて欲しい」と心から願われていたのですが、なかなか次の子供をお与えいただけませんでした。
そんなある日、自教会の神殿で親神様に続いて教祖おやさまに拝をした際、「もう子供はお与えいただけないのでしょうか」と、ごく自然に尋ねていたそうです。
その後、とある教会の婦人会に招かれた際にそのお話をされたそうです。
すると、講話が終わった後にある方から「何故教祖おやさまなんですか?真柱様も教祖おやさまのお話ばかりされますが、何故教祖おやさまなのでしょうか?」と問われました。おそらくその方は「身上たすけの主体である親神様ではなく、何故教祖おやさまに尋ねられたのか?」とききたかったのでしょう。
幼い頃から「教祖おやさまが・・・。教祖おやさまは・・・。」と常に口にする周囲の大人たちに囲まれて育ってきたご婦人にとって、教祖おやさまに問いかけるのは当たり前のことだったので、「何故教祖おやさまではいけないのだろう?」と疑問に思いはしたものの、はっきり答えることが出来なかったそうです。
けれども、今ではその答えが「教祖おやさまご存命」ということの中にあるのではないかと思っている、とおっしゃいました。

S婦人は教祖殿きょうそでん教祖おやさまにお仕えする日々にあって、お給仕の際やご入浴の際に、子が親に話しかけるように教祖おやさまにお話を聞いていただいたり尋ねたりしていることは、教祖おやさまを身近に感じているからなんです。それが「何故教祖おやさまなのですか?」と尋ねられた男性への回答なのかも知れませし、自分にとってはそれこそが「教祖おやさまご存命」の証しである。と語ってくださいました。
このくだり教祖存命おやさまぞんめいの理を考える上で正鵠せいこくを得たものと言えるのではないでしょうか。
決して褒められた話ではありませんが、僕はおぢばに帰ると、必ず教祖殿きょうそでんの結界正面に座って教祖おやさまとお話しをさせていただきます。
その際に、なかなか御守護いただけない病人さんのおたすけに掛かっている時や、モロモロ切羽詰まっている時などは、今は亡き祖母と話すような言葉遣いになっていることもあります。
また、どうしても納得のいかない姿をお見せいただいた時などにも、「教祖!どないせえ言わはるんですか!」などと食ってかかるようなこともあります。不敬のそしりはまぬかれないでしょうが、これとても教祖おやさまを身近に感じているからこそだと信じていた僕に勇気を与えてくれました。

婦人は教祖おやさまのお側で、世界を駆け巡ってお働きくださるご高齢の教祖おやさまがここで暮らしていらっしゃる、ということを常に意識してつとめておられます。その中で、「心ある者話もして暮らして貰いたい」との教祖おやさまのお言葉通りに、お給仕の際やお風呂でお背中を流させていただく時に、子が親に語りかけるように、あれこれとお話されておられます。
先輩のご婦人からは「参拝にいってふと心に浮かんだ時は、それが教祖おやさまからお聴かせていただいている答えだよ」とも教えられたそうです。

教祖おやさまご在世中、先人の先生方は事あるごとに教祖おやさまのもとへ行き、あれこれと尋ねておられます。『おさしづ』をひもとくと、実に雑多で些細なことや、正直なところ「そんなしょうもないことまで、よーかはったなあ」と思えるようなことまで尋ねておられる。
教祖おやさまが現身を隠された後は、すべて『おさしづ』を通して答えを得ておられました。
今の時代を生きる信仰者も、おぢばの教祖おやさまの御前にぬかづき、病める方、悩める方をどうか助けていただきたいとすがり、あるいは嬉しいご報告をしたり、哀しみや苦しみを訴えたり、まるで母親に語りかけるようにお話させていただいていると思うのです。
それって教祖おやさまを身近に感じている証左しょうさであり、教祖ご存命の理を掌中しょうちゅうに収めた姿なのではないでしょうか。

結びにかえて

さて、教祖おやさま百四十年祭まで残すところ2年余りとなりました。年祭のお打ち出しがあると「教祖おやさま存命の理」と言う言葉が頻繁に飛び交います。それは当然のことでしょう。でも、ダークサイダーな僕は、それをばんたび繰り返し聞かされると、「闇雲やみくもに信じろ」と強要されているような気がして心がザワザワしてしまうのです。
そんな時にS婦人のお話を聴けたことはまさに僥倖ぎょうこうでありました。自分の信仰の未熟さを思い知り、えりを正して”教祖存命の理”という信仰の要諦ようていに向き合えたわけですから。

教義上、教祖おやさまのお立場は
・月日のやしろ
・ひながたの親
教祖おやさま存命の理

の三点であると規定されますよね。そこから考えると、月日のやしろたる教祖おやさまの”ひながた”を、たとえ教祖おやさま同様に辿たどることが出来なくとも、そのひながたを手本として歩み、理と情をあわせ持たれる”ひながたの親”としての教祖おやさまを少しでも身近に感じられるような日々を送ること。
もの凄く簡単に言うと、教祖をけいしつつ甘えたらいいのではないでしょうか。

それが教祖おやさま存命の理を、より体感しやすい歩み方なのではないかと、ぼんやりと僕は考えております。
もっとも、眦決まなじりけっして「教祖おやさまがご存命でお働きくださっていることを信じて」と声高に叫び、”信じる”という行為自体に重点を置くのも決して悪いことではないのですけどね。それも信仰のカタチです。
いずれにしても、今回の記事を書いたことで、僕は”教祖ご存命の理”というものを、本当は分かっていなかったことに気づきました。
でも、その気づきは僕にとって絶対必要なことだったと感じております。

最後に元本部員、増井りん先生の言葉を記します。

晩年のある日の夕暮れ時、りんは本部詰所の廊下に座ったまま、沈みゆく夕日をずっと見つめていた。辺りが暗くなると、やおら立ち上がって「今までおやさん(教祖おやさまのこと)がお寝みになるのをじっとお見送り申していましたんや。あんさんら、淋しいと思いなさらんかナ、私は淋しうてナ、毎日こうしてお見送りしますのやで」と、目をショボショボさせながら語ったという。

天理時報onlineより
女性初の本部員 増井りん

よってくだんのごとし。

もしかすると今年最後の記事になるかも知れません。
1年間、拙い記事をお読みいただきありがとうございました。
みなさん、どうか良いお年を!
ではまたいずれ。

writer/Be weapons officer
proofreader/N.NAGAI

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