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普通って、どんな感じか忘れてしまいました

双極性障害(躁鬱病)は無駄に元気で問題を起こしがちな操状態と、身体も動かせないくらい気分が落ち込む鬱状態を繰り返す疾患なのですが、その間には寛解と呼ばれる躁でも鬱でもない状態もあります。双極性障害の治療とは、薬を使ってこの状態をできる限り長く維持することを目指します。

しかし残念ながら患者の何割かは、年に何回も操と鬱を行ったり来たりするラピッドサイクラー(急速交代型)になってしまいます。こうなると寛解状態は短くなり、躁状態と鬱状態の間の単なる通過点でしかありません。

当たり前ですが診察に行くと毎度、医者に、「最近、調子はどうか?」と訊かれるのですが、正直答えようがありません。10年近く急速交代型を経験していると、普通、つまり寛解の状態なんて忘れてしまいます。基準がないのに良い悪いは判断できません。

本来なら操状態は社会的損失が大きいのもあって「低め安定」(少し鬱くらいの意)を良しとするようですが、いつまで経っても躁に振れた方が気分が良いので、本当の自分、普通の自分だと思いたい気持ちは変わりません。これもまた、判断を鈍らせます。

さあ、どの時の自分が普通の自分なのでしょう?それについて考えることに意味があるのかさえ分からなくなってきました。メタ的に、この安定することなくアップダウンを繰り返す自分こそが本来の自分、本当の自分と考えるのもありなのかもしれない、と考えないこともありません。これこそが最高の自己肯定なのか?

しかし、鬱状態は正直なところ辛いです。まあ、ラピッドサイクラーなので長くは続きませんが。悲しいかな、ある意味救いなのかもしれません。操状態は気分はよいですが、やらかした事が鬱状態の時に自己嫌悪のネタを増やします。ただただ自分にブレーキを掛け続ける人生に意味はあるのか?

人はどんなに辛い状況でも、受け容れざるを得ない、受け容れると決めれば何とか生きていけるものだと聞いたことがあります。逆に選択の余地が残っていて悩んでいる状況が却って辛いのだとか。

彩りに溢れた破滅を選ぶのか、束縛だらけの安定を選ぶのか。悩みは続きそうです。

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