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『アパートたまゆら』を読んで〜その2 絶望と再生のあいだ

一つ前の記事で『アパートたまゆら』の感想文を上げてからも、なんとなくもやもやした気分が残り、その正体を探るべくずっと考えていた。


「XXの絶望と再生の物語」的な定形文のようなタイトルをよく見かけるが、その間には「諦念」と続く「妥協」があると思う。こう書くと救いが無いので、「諦念」は現実を受け止めるためのステップ、「妥協」は多くの場合「新しい選択」としてポジティブに描かれるし、そもそも敢えてそこに明確な単語が当て嵌められることはない。

唐突であるが、『アパートたまゆら』は少女マンガである。ヒロインは2人の男性の間を揺れ動き、最後に本当の王子様と結ばれるという使い古された永遠のテーマを踏襲している。今回の男性側の登場人物は、完璧だが自分のことを愛してくれているのかよく分からない男と、それほどでも無いが自分のことを暑苦しいまでに愛してくれる男。その差を明確にするための小道具として、主人公の「軽い潔癖症」が効果的に用いられている。

そして、この作品の特徴は上述のような「諦念」と「妥協」の部分を丁寧かつ事細かに描写している点にあると思う。ヒロインは、とにかく弱く流されやすい。その流され行く過程を時間が止まったかのように描くので、良い意味でも悪い意味でも強制的に感情移入させられる。もちろん、それでも間延びした印象を与えないのは、著者の優れた描写力によるところが大きいのだが。そして結局、ヒロイン自身が能動的に何かを選び取ることはほとんどなく、物語は終焉を迎える。


かつて、「女の子は好きな人より、好きになってくれる人と一緒になるのが幸せなのよ」と教えられていたように思う。最近そんなことを言う人は見かけないけれど、きっとこの価値観は変わってないのでは無いだろうか? 経済的に自立可能になった女性が、自分のことを好きでもない男と結婚する意味などないだろう。敢えて言うまでもないこと。つまり、当たり前になったのだ。

ただ、現在に於いても女性の「結婚」への憧れみたいなものは維持されている。とりわけ上方婚志向は根強い。それは女性間の見えざる競争なのだろうと思うが、あまりそこには言及しないのが得策だと思うので、ここでやめておく。

そういえばいつの間にか、高身長、高学歴、高収入、いわゆる3Kなんて言う人も見かけなくなった。既にそんなフィルターは「当たり前」になったから? 


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