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希死念慮について思うこと

まなみんさんの以下の記事を読み、興味深く思ったので本気で考えてみました。初めコメント欄に書き込ませてもらおうと思ったのですが、500文字という字数制限があり入り切らなかったので、こちらに記すことにします。


希死念慮がつらいのは、死が怖いのに襲いくる死にたいという自動思考に抗い、「生を選択し続けなければならない」ことと、その激しい葛藤を周囲の健常者には全く理解してもらえないことだと思います。まなみんさんも仰る通り、軽薄なオプティミズムや安易な共感から発せられる言葉は、ある一線を越えてしまった人の心には全く届きません。

おそらく健常者にこの葛藤を理解してもらうのは諦めざるを得ないと思います。つまり、まなみんさんの結論通り、「救われる」というのが希死念慮から(一時的にでも)開放してくれたり、自分の苦しみを理解してもらえると言う意味ならば、残念だけれども、そのようなマジックワードは存在しません。

ただ、この絶望的状況下においても、

1.誰かが尊厳を認めてくれること。

自分には想像も出来ないけれど、本能的な死への恐怖をも凌駕する苦しみがあなたを責め苛んでいて、それに対し最後まで全力で闘ったことに敬意を示してくれること。

2.誰かが覚えていてくれること。

あなたがいなくなっても、1日に1度はふと思い出し、誕生日にはお祝いの言葉をかけ、命日には少し寂しく思ってくれること。

この2つの気持ちを何らかの形で伝え、守ってくれるという人が1人でもいてくれれば、僕はおそらく救われた気持ちになると思います。ただ、そんな人と巡り会えるかといえば、難しいだろうなとも思いますが。

既にお気付きかもしれませんが、どちらの条件も死を選ぶことを前提としています。しかし、生きている限り希死念慮から逃れられず救われないのだとすれば、死後に希望を託すしかありません。残念ながら僕は無宗教なので天国や極楽浄土があるとは微塵も思っていませんし、もしあったとしても普段の行いが悪いのでそんな上等なところへ行かれるはずもありません。ただ、人の記憶に残るのは可能であり、その記憶が続く限りは生き続けているのと同義だと考えます。

敗北主義と言われるかもしれませんが、僕はこれが負けの度合いが最も少ないと言う意味で最善手だと思います。

最後に。僕なりにかなり真面目に考えて書いたつもりですが、年代が異なるまなみんさんとは意見も異なるでしょう。勝手に引き合いに出されて、ご不満もあるかもしれません。ご容赦を。



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