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N4書房日記 0725-0731

0725

ツイッターを見ていると気が滅入るので、平凡社の「柳田國男 ささやかなる昔」を開いたら、いきなりオザケンのお父様のエピソードが出てきた。



センスや頭の良さを誇示するために、「そんなことは前々から分かっていた」と誇るような発言は結構ある。「コーネリアスが世界的に高く評価されるようになるのは、FGの頃から分かっていたよ」的な。そこまで先読みできるなら、「あなたは過去にこういう発言を雑誌でしているけれども、将来に瑕瑾を残すことになるから謝罪した方がよい」と進言するべきだったはずで、それができた人は見聞する限りでは周囲にもファンにもほとんどいなかった。あるいは、聞き入れられなかった。


やはりあの悪趣味カルチャーの渦中で「このくらいどうってことはない」「どうせ誇張しているのだろうし、そんなもん」と見くびっていた点においては明らかに責任の一端は自分にもある。それはいじめの傍観者と似たようなものだ。やましい気持ちがあるから擁護するのではなくて、次に似たような事例が目の前に現れた時に、どう振舞うべきかという方向で考えたい。


「小山田圭吾事件まとめ」というアカウントができて、北尾修一が叩かれ出した。元々の偏った内容のブログを書いた人が北尾ブログの文章や構成を鏡のようにそのまま真似て反論する。元編集者で元編集長で出版社の現社長である北尾氏より、文章力も構成力も一枚上手だが、やはり恣意的でどっちもどっちという印象を受ける。この二人の戦いというより、それを見ている野次馬同士の罵り合いみたいになっている。

 


 夜「MUSIC IS MUSIC」が始まる前に次のようなツイートが。

 



0726

何だかもう擁護派も攻撃派もゴチャゴチャしてきて、誰は確実に信用できるとか、この人についていれば大丈夫だといったようなポジションはなくなってきた。冷静な擁護派と思われていた某氏は急にあちこちに嚙みつきだすし、横合いから急に出てくる当たり屋みたいな批評家、音楽周辺のライターなど。昔からお前は何々だったくせにとか、あの時のお前はこれこれで、などと変な風に飛び火する。


 https://twitter.com/yorunodokusyo/status/1419580744620335110


「時代」のせいにするんじゃないよ、いつの時代も障碍者いじめは許されないぞ、という主張は2021年の日本では「正しい」とされているが、ほんの二、三代ほど遡って落語を聴けば、録音の残っている有名な噺家の有名な噺ですら差別用語まみれで、「いつの時代も障碍者いじめは許されない」などと主張されてもピンと来ない。

むしろその前の時代も、もっと前の時代も、さらに前の時代も、障碍者への差別や暴力は普通に存在していた。メ〇〇のくせに、〇〇〇のくせに、と罵られて、泣いて悔しがる障碍者の姿と心情を普通に共有できていた時代の方がずっと健全に決まっている。いま現在は普通の子供同士のいじめすら隠蔽しているだけの話だ。

 

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道徳的な判断は永遠不滅で、言葉に関しては時代と共に移り変わって当然、という変な基準がまかり通っているが、「多数派が正しい」と都合よく決めているだけで、やはり基準もへったくれもない。言葉の意味や用法が推移することについては、やけに寛容で柔軟な癖にと思う。


 https://twitter.com/yorunodokusyo/status/1419848898575626241



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今は偽善も含めて「いい子」であれば安全地帯にいられる。90年代はそれが正反対で「悪い子」「悪ぶった子」の方が安全地帯に近かったという、それだけのことだ。どちら側に傾くかは風向き次第で、いわば善悪が流行のようになっている。いま「キャンセルカルチャー」と呼ばれている現象も、その特徴は私刑をするのに基準がない点だという。

 

当分、週に一回のペースで更新していた日記は休んで、9月ごろからまた週一にしようかと考える。ちょうど「販売」から「製作」に頭を切り替えるべき時期なのだ。

 

「孤立無援のブログ」が北尾修一への公開質問状を出した。



0729

富裕層セット(ネクタイ付き)が1セット売れたので、残りはもうあと僅かになった。



0730

都道府県別に「ベレー帽とカメラと引用」の購入者の比率を出したらどうかと思いつく。

普通に比べると人口の多い順は、東京都が一位で、以下は神奈川、大阪、愛知、埼玉、千葉、兵庫、北海道、福岡、静岡、茨城、広島、京都になるらしい。

 


0731

ご兄弟が障碍者という立場からの考察、24日に書かれたものの反響が大きかったらしく、続きが書かれた。雑誌ジャーナリズムを責めるより、個人的にはこちら方面の意見の方に耳を傾けたい。

 



METAFIVEの発売中止の経緯について、海外との比較など。自分も海外で販売して、日本へは逆輸入という形でもよいのではと思っている。



「ベレー帽と~」を購入した人ではなく、冊数で計算して都道府県別の比率を出してみた。

その結果、10位は沖縄、岐阜、岡山で比率は1.5%ほど。

9位は新潟で2%。

6~8位は僅差で8位愛知、7位秋田と静岡、6位は兵庫。いずれも2.5%。

5位は埼玉で3.5%である。

これはやや意外で、自分が埼玉に住んでいるせいか、これまで「埼玉の売り上げが少ない」と感じ続けていた。

4位は大阪で7%。

前々から関西は渋谷系の音楽を好む人が多いらしいと聞いてはいただのが、人口比でいうともう少し多くてもよさげである。

3位は千葉で7.5%!

何と、大阪よりも埼玉よりも人口が少なくてこの順位である。今夜からは千葉県に足を向けて眠る訳にはいかない。

2位は順当に神奈川県の8%!

実に12冊売れるとそのうち一冊は神奈川に行っているのだ。

そして1位は!

当然ながら東京都で、36%!

ダントツの一位であった。

驚くべきことに、これまで売れた分の四割近くは都内在住の方々に読まれている。これほどの比率になるとは意外であった。

「ベレー帽と~」がシティ派のZineであることが証明されてしまった。

 

ここ最近ずっと、新選組に関する映画を観たり、本を読んだりしている。司馬遼太郎の「奇妙さ」から、正義について。

“ついでながら、正義という人迷惑な一種の社会規範は、幕末以前には日本になかったといっていい。言葉も、幕末に日本語になった。”

“”正義という多分に剣と血のにおいのする自己貫徹的精神は、善とか善人とべつの世界に属している。”

“(略)正義という電球が脳の中に輝いてしまった人間は、極端に殉教者になるか、極端に加害者にならざるをえない。正義の反対概念は邪義であり、邪義を斃さないかぎりは、自己の正義が成立しようもないからである。”


ドリーミー刑事氏のここ数週間のまとめ。


 【お知らせ】8月中はこの日記はお休みします。

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