アイデンティティを「次の瞬間」に置く

「なるべく自分がアイデンティティを感じる範囲を小さくするべき」という考えがあります。
これに加えて、小さくするだけではなく、アイデンティティを「次の瞬間」に感じるようにするのはどうかと考えます。



アイデンティティ対象はなぜ小さい方がいいのか

人は自分がアイデンティティを感じる対象(以後、「アイデンティティ対象」とします)を他者に触れられると、攻撃されたと感じます。
すると自己防衛に必死になり、合理的な判断、建設的な議論が不可能になります。
故にアイデンティティ対象=自己防衛のスイッチが入る領域を小さくすべきという考えです。

グレアム氏のエッセイ

この主張として代表的なものに「Keep Your Identity Small」というエッセイがあります。
2009年にアメリカのプログラマーであるポール・グレアム(Paul Graham)氏が「政治や宗教というトピックでは無駄な論争が起こるが、Javascriptに関するネットフォーム上でのやり取りでは起きないのか」という問いを立て、その原因をアイデンティティに見出しました。

宗教と政治に共通しているのは、宗教と政治が人びとのアイデンティティーの一部となり、人びとは自分のアイデンティティーの一部である何かに関する有意義な議論をすることができないことだと思う。
(中略)
り一般的には、あるトピックが誰か参加者のアイデンティティーに関与しない場合、あなたはそのトピックに関する有意義な議論をすることができる
(中略)
自分自身に対するラベルが多いほど、ラベルはあなたを愚かにする。

日本語訳はJack氏のNoteより引用させていただきました。

ちなみに、このエッセイの起点である「ソフトウェア開発では論争が起きにくい」という前提も今日では崩れているかもしれませんが、「アイデンティティに触れると有意義な議論ができない」という主題は普遍的なものではないでしょうか。


アイデンティティの性質

この主張の前提、導けることを整理します。

①アイデンティティ対象と自己を同一視する

アイデンティティという言葉自体の定義です。
いささか乱暴な言い回しですが、簡略化しています。

②対象の正当性を守ろうとする

特殊でない環境にいる人は自分の正当性を守ろうと、自己を重ねているアイデンティティ対象を守ろうとします。
ここからさらに2つのことが言えます。

②−1対象が攻撃された時には、他の価値観を受け入れなくなる

自分のアイデンティティを守ることにベクトルが向くため、自分のアイデンティティの外側にある価値観を排除しようとします。

②−2対象を守ることに対しては、強いエネルギーが生まれる

②−1になるのも、元来アイデンティティを守る同期から生まれるエネルギー出力が強いためです。
他者から攻撃時以外にも、自己が揺らがないよう維持し続けるエネルギーは強いです。

③アイデンティティ対象はコントロールすることができる

グレアム氏のエッセイの隠れた前提です。
アイデンティティは自己を規定するものでありながら、感じる対象は自分でコントロールできる。故に小さい範囲に収めようというわけです。


アイデンティティ対象をコントロールし、自分をうまくコントロールできないか

グレアム氏の主張は②−1「他の価値観を受け入れられない」のデメリットを最小化しようという主張でした。
それにより「合理的な議論」「違う価値観の間での歩み寄り」が期待されるわけです。

これをもう少し発展させてみます。
アイデンティティの性質を活用して、よりメリットを得る方法を考えてみます。

まず、②−2「アイデンティティを守るためならエネルギーが出る」と③「自分でアイデンティティを感じる対象を選べる」の2つの性質を組み合わせてみます。
「自分で選んだアイデンティティを守るためならエネルギーが出る」と導けます。

これをさらに逆に考えてみます。
「自分がエネルギーを出したい方向性に、アイデンティティの対象を設定すれば、エネルギーをうまく出しやすい」と言えないでしょうか。

不可能そうではない話です。
小さい子供が「良い子は宿題をやるものだ」というモチベーションで宿題を終わらせるのと同じです。
周りから「良い子は宿題をやる」と強いられるのではなく、自分自身がそう信じていること、信じようとすることがポイントです。


アイデンティティ対象を「次の瞬間」に置く

自分の狙いに合わせてアイデンティティの対象を選択することは可能そうです。
さらに私はその対象を「少し先の未来」に置くことを提案したいです。

この提案には新しく時系列の概念を取り入れています。まずここから整理します。

A.「過去」に置く

「昔こんな実績を上げたんだぞ」「昔こんなすごいところにいたんだぞ」といった過去の出来事を自分自身の拠り所とすることです。
これは一般的でありますが、最適な形ではないと考えます。
その理由は「重く狭くなりやすい」ためです。

まず「重い」とはどう言うことか。
過去にアイデンティティ対象を置く場合、繰り返し過去に立ち返ります。
1つの出来事であっても、立ち返る度に自分の中での存在が大きくなります。
時間が経つほどその回数が増えるので、次第に存在が大きくなるということです。

さらに、過去のアイデンティティ対象の出来事と違う出来事が起きた場合には、アイデンティティを守るために拒絶をします。つまり変化を受け入れないのです。そのためアイデンティティ対象は変わらず「狭い」ままであり続けます。

さらに「重さ」と「狭さ」はループ構造にあります。重いからこそ変化を受け入れず狭くなり、狭いからこそ、そこに立ち返る回数が増えるので重くなる。という関係です。

このように過去の出来事にアイデンティティを持つと、変化を拒絶し続ける状態になりやすいと言えそうです。

B.「未来」に置く

次にアイデンティティを「未来に置く」ことを考えてみます。
例えば「自分は将来に〇〇を成し遂げる」と信じ、それを自身の拠り所とすることです。

結論、この方法も最適とは言えないと考えます。理由は2つです。

1つ目は「脆い」ためです。
未来は自分がコントロール不可能な要素も存在するため、当然ながら不確実です。故に未来の出来事を自分自身の拠り所とするのは、自分自身の存在も不確実だと認識することと同義です。
アイデンティティとしての第一の役割を果たすことができないわけです。

「必ず実現できると強く信じる」ことで脆さを回避できそうですが、その可能性も現実的ではないと考えます。
まず、真に実現に励む場合はコントロール不可能要素があると気がつくはずです。
この時にも実現を強く信じることは、不確実性から目を逸らすことになります。

つまり実質的に運任せです。
その瞬間は目を逸らすことでアイデンティティは守られるかもしれません。
ただし”運悪く”達成できない場合にはアイデンティティ崩壊の危機に晒されます。
運任せ自体が悪いわけでなく、自分では無自覚の運任せであることが問題だと考えます。

「未来」に置くことが最適でない理由の2つ目は達成後に「過去にアイデンティティを置く状態」になりやすいためです。
目標が重要であったほど、それが達成できた時にも本人にとって重要な存在になりやすいはずです。


C「次の瞬間」に置く

ではどうしたら良いのか。
そこで提案したいのは「次の瞬間」にアイデンティティを持つことです。

「次の瞬間」とは言い換えると「コントロール可能な未来」です。
例えば「常に学び続ける人である」として、何事からも学びを得ようとし続けるようなことです。

つまり自分の次の瞬間がどういう人間であるかをアイデンティティにするということです。

まず過去の出来事には囚われません。
「今起きていることに対して何をすべきか」を考えることができ、合理的な判断や、建設的な議論が期待できます。
さらに次の瞬間の自分の行動はコントロールが可能であるため、不確実性が低いです。そのためアイデンティティ対象としても機能をします。

「次の瞬間」は生まれては消えていきます。
そしてポイントなのが「前の瞬間にありたい自分であれたか」は次の瞬間には関係なく、「次の瞬間にありたい自分で入れるか」だけが重要であるという点です。
アイデンティティの対象は「次の瞬間」だけであり続ける、つまり肥大化しないのです。そのため、アイデンティティの対象は小さくあり続けます。

「次の瞬間の姿」をどう描くべきか

「次の瞬間」にアイデンティティを置くデメリットもあります。それはシンプルに大変であるということです。
アイデンティティを守るべく、自分が理想の姿であり続けるために、常に意思を持って行動しなくてはなりません。
過去にアイデンティティ対象を置く場合は、対象自体を新たに生む必要はないので比較すると必要エネルギーは「次の瞬間」式の方が多くなります。

ただし、デメリットだけではないと考えるのです。
ここで思い出したいのが「アイデンティティの対象をコントロールすることで、自分がエネルギーを向ける先をコントロールできる」ことです。
「次の瞬間」にあるアイデンティティを守るための行動には大きなエネルギーが向きます。
自分がなりたい自分になるために、全ての瞬間でエネルギーを出すことができるわけです。
たしかに大変ではありそうですが、とても充実していそうではないでしょうか。

ここで重要なのは「次の瞬間どんな自分であるか」の目標設定の仕方です。
条件は2つあると考えます。

1つ目は自分がなりたい姿を設定することです。
そもそもの定義でもありますが、「この行動をとっている自分が好きだ」「この行動のためならば頑張れる」という姿を設定することがまず大事です。
「己の美学」と言っても良いのかもしれません。

2つ目に達成できる目標を設定するべきということです。
毎回の瞬間で目標を達成できることがアイデンティティに繋がるわけであるので、達成は必須ですが、ストレッチした目標を掲げてしまっては毎日がしんどいです。
適度なバランスを設定することが重要だと考えます。


以上、「次の瞬間の自分」をアイデンティティ対象にすることを提案しました。
読んでいただきありがとうございました。



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