まばらな拍手は雨の音がする

「まばらな拍手は雨の音がする」という言葉がここ数年から自分の頭の中にいつもあって、勝手に人生のテーマみたいにしている。

何がきっかけでこの言葉が、心にしみついているのかはよくわからないけれど多分どこかのライブハウスでシンプルに、言葉の額面通りに感じただけだと思う。

つまりこの言葉に深い意味なんていうものや教訓や生き方の哲学みたいな要素は全く含まれていなくて、人生のテーマにするにはかなり心許ない存在感をお持ちになられているのだが自分の中の論理的な思考力よりも直感的な感覚のほうが議決権を多く持っているらしく、つまり左脳よりも右脳のほうが権力を持っており、申し訳ないのだが強行採決で大切な人生のテーマが採択されてしまっているのが現状である。

これが白昼の元に晒されれば社会的な大問題となり右脳派は強制解散、悪夢の政権だったと後世まで伝わるはずだが民衆はまだ真実には気づいていないようである。

不毛な政権批判をするためにこの文章を書いているわけではもちろんなくて、人生のテーマという宇宙よりも壮大な話をしたかったので話を正規ルートに戻したいと思う。

最近感じることは逆にこの言葉に意味性なんてものがない方がいいのではないかということだ。
人生のテーマが明確に決まってしまうことは、自分の人生が、ゴールのようなものが明確に決まってしまうことと結構近い気がしている。
そんなものをはなから決めてしまうことは、これから生きていくうえで大変な障害物になるのではないかと感じるのである。

今私は大学4年生で就職活動真っ最中なのだが今現在が限りなく人生で一番社会的な価値観で生きていると思う。
自己分析という言葉があるが、自分という存在を文学的な視点で見つめるのではなく社会的な視点で見つめ、持っているスキル、やりたいこと、どのように貢献できるかなどを洗い出す作業だと思う。
こんなまったくもってつまらないことをやっている最中にこれからの人生の指針となるテーマを明確に決めてしまうと完全に社会的な要素を多く持った無機質なテーマが生産ラインに並んで大量生産されてしまうことが間違いないので今現在抱えているテーマで現状は大変満足している。

これから生きていく中で「まばらな拍手は雨の音がする」という言葉の意味性が、ワインが、3日間肉体的な作業を寝ずにやりぬいた後に現在少しめんどくさい関係になっているクラスメイトから呼び出されて痴話げんかまで発展し、そのストレスでビールを浴びるほど飲んだ後で熱いシャワーを浴び、炊き立ての土鍋ご飯のようにホッカホカのベットで泥のように、死んだように、逆に羊に数えられるほど眠りこけている間にどんどん熟成していくように発展していくのかもしれない。

そうなったら未来の自分はこの言葉からどんなエネルギーをもらっているのだろうか。負のエネルギーじゃなければいいな。この言葉を聞くたびにお腹がすくようになることが理想かもしれない。元気が出るし、万が一ご飯を食べるという概念を何らかの拍子に失って餓死してしまうなんてことがないからね。
そうなったらこの言葉が持っているエネルギーを空腹エネルギーと名付けよう。
我が家の晩餐ではお母さんが子供たちにご飯よーと声をかけるのではなくまばらな拍手は雨の音がするーと呼びかけるのである。
なんて詩的で文学的で明るく温かい家庭なのだろう!
将来婚活サイトに登録するときには柔軟なご飯の時間の呼び方ができる人という項目が必須になるのだろう。

もしくは、毎年毎年感じ取る意味性が移ろい変わっていくことも理想かもしれない。自分の経験なんかが価値観に影響を与えるなんてことは日常茶飯事のことで、今年は過去最高傑作、100年に一度の出来、あの去年を超えたなど毎年毎年同じことを言っているボジョレーヌーボーみたいですてきだなと感じる。
結局人生はボジョレーヌーボーみたいに良し悪しなんてものは他人からすればわからないものである。
一個人の限りなく狭い範囲しか見ていないし、価値観や大事なことは各個人によって違うからね。

だったらボジョレーヌーボー見たいに自分なりでも毎年記録を更新して、過去最高の自分になり続けるってのは素晴らしい人生で完成形なのかもしれない。

私はボジョレーヌーボーみたいな人生を目指しています。
なんて言えたら結構かっこいいんじゃないか。
前提となる文章を読んでないとこいつはワインになりたいのか?
はたまた自分は最高級の人物だといいたいのか?
とあらぬ誤解を受けそうだが、その際はおとなしくこのnoteを差し出すことにしよう。

最後になるが偶然575の俳句になっている点も気に入っている理由の大きな一つかもしれない。1字字足らずなのが惜しいが、俳句としても結構気に入っている。季語が入っていないという致命的な弱点は見逃してほしい限りである。
いつか自費出版で歌集を出すことが夢なのだがその際のタイトルは「まばらな拍手は雨の音がする」で決定していることだけが計画として進んでいる内容である。

まとめにはいるが、今現在、これを書いているときに教科書のようなまばらな雨が降っている。不思議なことにまばらな雨が降っているときには拍手の音がしない。ここに大変重要なことが隠されているように感じるが具体的にはわからないため、これからの人生で解き明かしていきたい。

もしこんな拙い文章を読んでくれている人がいるのなら人生のテーマとなる言葉があれば教えてほしいし、無いなら考えてみてほしい。いつか人生のテーマ研究会という非営利組織を立ち上げるのでぜひそこで声高らかに各個人のテーマを赤裸々に語り合おうではないか。もちろんトップバッターはこの自分が務めさせていただく。内容はもちろん「まばらな拍手は雨の音がする」である。


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