見出し画像

なんで別姓にしたんですか?

10月31日、今日投票の総選挙で、選択的夫婦別姓が争点の一つになっている。反対しているのは自民党だけのようだ。「家族の一体感が壊れる」云々というのが反対の主な理由らしいが、それはつまり家父長制へのノスタルジーなのだろうなと思う。

選挙の争点になったことについては、何を今さら・・という気持ちと、やっと、ついに、ここまで来たのか‥という気持ちと両方ある。遅すぎるとは思うが、総選挙後早々に民法改正が進むことを願う。

結婚前の不安

つい先日、若いママから「なんで別姓にしたんですか?」と聞かれた。聞いてくれて嬉しかった。私や親しい友人たちにとっては「別姓夫婦です」という事実が馴染みすぎていて、当時の思いを話題にすることがなくなっているから、久々に話せるのはちょっと嬉しいのである。

もう30年近く前のことになるが、結婚前の私は滋賀県に住んでいて、お相手は和歌山に住んでいた。その時点で彼は正社員、私は続けたい仕事に就いていなかった。生活基盤を考えれば、私が和歌山に引っ越すしかないことに異論はなかった。

当時、他府県の知り合いには「滋賀県の馬場です」と名乗っていたが、結婚して夫の姓(仮に佐藤さんとしよう)に変え、和歌山に引っ越したら「和歌山の佐藤です」と挨拶することになるんだな・・とぼんやり考えた。私はこれまでの友達や家族、人間関係を引っこ抜くようにして新しい土地に移り、私を知ってくれている親しい人も近くにいなくなるのに、名前まで失っても大丈夫?結婚前と連続した自分でいられるだろうか。「和歌山の佐藤さん」はもはや自分ではない気がした。

夫となる人は、結婚が決まってその準備や仕事で忙しそうに、嬉しそうにしていた。夫のご両親も「嫁に来てくれる」と歓迎してくれていたと思う。しかし、お代わりのお茶碗を無言で差し出す義父、両手で受け取りごはんをよそって両手で差し出す義母、その食卓に違和感を持たない彼。そんな風景に自分が嫁として参加する?ご家族が喜んでくれればくれるほど、不安だった。

せめて名前ぐらいは継続したい

生活も人間関係も全部変わるんだから、せめて名前ぐらい変えずに結婚生活をスタートできないかと考えたのは自然ななりゆきだったと思う。それに、歴史の中には別姓の先輩がいた。平塚らいてうが事実婚にふみきったのは大正初期のことであり、私が結婚した1992年の80年近く前である。そのほか、政治家や弁護士や有名人の中にも、通称使用も含めて別姓夫婦は存在する。何も自分が歴史上初の実践をするわけではない。姓をどうするかの話し合いくらいはしてもよいではないかと自分に言い聞かせた。

また、学生時代によく読んでいた落合恵子さんの小説にも、パートナーとの関係性や家族のあり方について、もっと自由であっていいと繰り返し描かれていた。自分の両足ですっくと立って「自分の人生は自分で決める!」と静かに宣言しているような文章がとても心地よく、知らない間に勇気づけられていたのだと思う。

私は姓を変えたくない。かといって夫となる人に変えてほしいわけでもない。そもそも戸籍って何なのだ?夫婦同姓はほんとに日本の伝統か?調べ出したらあっという間に「別に法律婚をしなくても良いや」という結論に行きついた。そして、こんな私でもいいのですかと彼に問い、彼が「まぁいいでしょう」と答えて今に至る。

誤解されないために書くが、私は別姓を推奨したいのではない。「自分の人生は自分で決める」ことを重視しているだけだ。それぞれの選択を尊重できる社会は豊かだと思う。そして、特定の幸せの形を押し付けることなく、どんな選択をしても不利にならないような仕組みを作ることが、政治の役割だ。時代の制約があるから何もかもが一気に自由にできるようにはならないが、こと別姓についてはもう十分議論されてきた。それでも反対する人たちは、やっぱり「自分で決める」ことが気に入らないのだろうかと勘ぐってしまう。

幸福追求権を行使する主体は個人だ。誰かに決めてもらうものでも、誰かが幸せにしてくれるのでもない。別姓か同姓かの選択も二人が幸せに生きるために二人で決めるのが良い。国が、その幸せの選択肢を奪ってはいけないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?