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同性愛的描写を普遍的ということについて

先日、カンヌ映画祭記者会見において映画『怪物』の監督是枝博一監督の発言が話題になった。

LGBTQに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話と捉えた。誰の心の中にでも芽生えるのではないか

https://mainichi.jp/articles/20230518/k00/00m/200/433000c

この発言に対し、トランス男性でゲイの僕個人の思うことを書こうと思う。僕は専門家ではなく、活動家でもない。あくまで僕や僕の周りで起こったことや考えたことだと思って読んでいただきたい。

僕は以前、トランスジェンダーであることが起因する悩みについて友人に話したことがある。その際、友人は「それって突き詰めると皆が持つ悩みなのではないか」と言った。僕はその発言にひどく憤慨した。僕の悩みを奪うなと思った。僕はなぜこの発言に憤りを感じたのか。それは、彼がトランスジェンダーではないからだ。同じ経験や同じ痛みを味わったことがないと考えられるからだ。つまり同じ過去を共有していないということである。
同じ悩みなわけがないのだ。
自分の身体が偽物の器だと思い、周りから自分はどういう性別に見えるのかおびえ、「お前は男ではない」と言われたことがないだろうから。魂は肉体を離れて存在することはできないのかもしれないが、肉体という見せかけの器の呪縛に囚われる必要などない。まあ、僕の体験談は置いておいて僕が何を言いたいかというと、悩みを共有する(あるいは共感する)には過去を共有する必要があるのではないかということだ。

では、今回の発言はどうだろう。
僕はマイナスな意味には捉えなかった。社会にいないものとして扱われてきたLGBTQの方々が「同性愛をテーマにした」作品にどれほど救われるか、分からないわけではない。だが、この発言はLGBTQの存在を透明化するのと同義なのか?と疑問に思った。
さきほど、同じ悩みを共有するには過去を共有する必要があると書いた。
つまり、他人事ではないという思いがあることになる。これは「皆持つ悩みである」ということではない。それは論点のすり替えでしかないからだ。

例えば、是枝監督が「怪物という映画は同性愛について描いた作品です」といえばヘテロセクシャルの人はどういった視点で観賞することになるだろうか。知らない世界の入り口として、あるいは自分とは関係のないものとして観る人がいてもおかしくない。(それが良いか悪いかは置いて)
僕はそれに「見世物にされている」ような嫌悪感を抱く。僕はあるトランス女性を描いた作品で自身のジェンダーの悩みに気づいた経験があるので、そう銘打つ作品を否定したいわけではない。むしろどんどん作っていただきたいものである。

この発言を見て僕は敬愛するグザヴィエ・ドラン監督の発言を思い出した。ドラン監督はゲイ当事者であり、数々の作品で同性のカップルを描いてきた。『マティアス&マキシム』という作品について彼は「これは同性愛の話じゃない。愛の話なんだ」と語っていた。

上記の記事に書いてある通り、この作品ではヘテロであることにこだわる主人公が自分の気持ちのゆらぎにとまどう描写が多く登場する。ホモソーシャルが生んだ悪しき価値観としか浅学菲才の僕には思えてならないのだが、自分の変化や周り(シスヘテロ男性)と違うことへの底知れぬ恐怖(そこには無意識の差別も含まれる)が真に迫る表現で見ているこちらも息が苦しくなるほどだった。

僕は『マティアス&マキシム』でドラン監督が表現したかったことの一つには「他人事じゃねえぞ」という気持ちがあるのではないかと思わずにはいられない。
是枝監督がどの程度考えてかの発言をしたのかは映画を観ていない以上判断しかねるが、似たような発言をしたドラン監督の映画を観て僕が思ったことは、

ゲイを見世物にしたり、新しい世界の入り口として他者化するのではなく、ヘテロ男性のゆらぎを書き、普遍性をもたらせることで「他者の物語」ではなく「お前の物語」にしたかったのだということだ。

芸術の持つ暴力性を常に疑いながら芸術と付き合う僕だが、それはすなわち芸術の持つ力(簡単に言えば影響力)を信じているということだ。

ここでもう一度僕の経験談を話そう。
とある政治家のホモフォビックな発言を目にし、ひどく落ち込んだことがある。こいつは自分の発言で憤る人がいる程度では自分の言葉の重みを実感しないだろう。人が実際に死ぬところを知らしめなければならないと本気で思った。
これだって、自分がゲイではないから、ゲイは違う生き物だからと高を括って他人事として処理し、差別するのだろう。

だからこそ、圧倒的な力を持つ芸術を武器に突き付けてやるのだ。
お前が明日、同性を好きにならない保証がどこにある?と。

他人事ではないと実感したときはじめて、LGBT法の問題だったりトランス女性が受ける卑劣な差別だったり同性婚について考えるようになるのだろう。
人は愚かな生き物だ。気持ちの共有をはじめから拒否している人間相手には他人事でないことを知らしめるしかないのだと思う。対話では共有不可能だということは歴史が教えている。

故に、LGBTQが題材であると銘打ち可視化する作品も作りながら、普遍性を訴えるような作品も必要なのではないかと思うわけだ。
芸術は大系だ。一つでは完成するものではない。
だからこそ、それと向き合う作り手たちは自分の武器の恐ろしさを自覚しながら、表現し続け行かねばならない。

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