太宰治『待つ』論

大学三年時のレポートより
 
『待つ』は昭和十七年六月博文館刊の『女性』に発表された。それ以前に京都帝大新聞の依頼により書かれたが、結局掲載はされなかった。二十歳の女性が小さな駅で何かを待っている様子が女性の告白体で描かれた小説である。

 初期の研究では女性が何を待っているかに論点が置かれていた。佐古純一郎は「キリストとの人格的な出会い、邂逅」別所直樹は「戦争の終結、平和」を待っているとした。だが、これらの先行研究とは違い、柴口順一は「何故待つのか、あるいはどのようにして待つのかを問うべき」だとし、これらを踏まえて村上林造も「「私」が待つものを特定しても、作品理解の上であまり大きな意味があるとは思えないのである」と述べている。⁽¹斎藤理生も「〈大戦争〉という語が反復されることの意味は小さくないが、彼女が待ち続ける何かについて、作中に明確な答えを探し求めても、おそらく徒労に終わる他ない。むしろ自分でも何を求めているのか把握しがたい胸のうずきや、具体的な対象はないのに求めたい気持ちだけが先走ってしまう内面のありようが活写されていると言うべきだろう」⁽²と述べているように、私も「何を」待っているかではなく、「どうして」待っているのかに焦点を絞って論じたい。

 まずこの小説の特色として最初に目がつくのは先にも述べたように、女性一人称の告白体で書かれている点だ。この特色から「待つ」という行為を行うのはなぜ女性でなければならなかったのか、なぜ女性一人称で語られているのか、そしてなぜ「私」は「待つ」という行為を選択したのかというという問いが生まれる。

 「待つ」という行為を行うのはなぜ女性でなければならなかったのか。この小説が書かれたとされる昭和十七年、太平洋戦争勃発から一年、戦況は激化する中で、男性はつぎつぎに戦地に赴いて行った。女性は家庭を守ることを務めていた。女性に役割がないというわけではないが、「待つ」という行為を行えるのは女性だけだったと言えるだろう。「私」は「いよいよ大戦争がはじまって、周囲がひどく緊張してまいりましてからは、私だけが家で毎日ぼんやりしているのが大変わるい事のような気がして来て」とあるように、社会の為に何か行う世間とのギャップを感じているように見える。それも「待つ」ことになった要因だろう。

 そしてなぜ『待つ』は女性一人称で語られているのか。そもそも太宰治作品の代表的な文体として饒舌体と並んで女性の一人称告白体が挙げられる。
安藤宏『太宰治 弱さを演じるということ』によると『待つ』が書かれた時期には、昭和十四年の四月に『女生徒』を発表し、八月に小説が書けない小説家の「私小説」、『八十八夜』を発表、十一月に『皮膚と心』を発表した後、翌十五年一月に創作とは何かを小説家として問い返す『鷗』や『春の盗賊』を書いている。いわばサンドイッチ構造のように、小説家(男)の自己言及と「女」の生活実感の告白とが交互に登場する。⁽³安藤氏は執拗に自己対象化に拘泥する饒舌体と、これを放擲し、自由に生きることを説く告白体として両者を比較している。

『待つ』と同じく「女性」に収録されている『十二月八日』では、太平洋戦争が始まったことを伝えるラジオを聞いた女性が、日常をただすごす様子が告白体で描かれている。『待つ』にも戦争に向かう世間とのギャップが描かれている。そういう戦争への諦観を描くとき、小説家太宰治は女性を語り手に選ぶのではないか。先程の安藤氏の「自由に生きることを説く」女性像とも遠くない。戦時下において女性一人称の告白体を多く残しているところにもその意識があったのだろう。

最後にどうして「私」は「待つ」という行為を選んだのかという問いについてである。「私」は「待つ」対象を明確に定めていないとしたとき、「私」は自ら「待つ」ことを選んだと言える。数ある行動の中からなぜ「待つ」を選んだのか。「待つ」という行為には必ず他者が必要になる。自分が家にいるのを「大変わるい事」のように感じていた「私」にとって他者が関わる行為とは社会的行動と言えたのではないだろうか。ここでいう社会的行動とは「私」が実際何をしていたかというより、第三者に「私」が何をしているように見せるかということで、後者のほうが「私」にとって重要だった。実際には「人間」が「こわい」という「私」は「待つ」対象を設定しなかった。

しかし徐々に「私」は何を待っているのか自問する。「待たれる人」が来てしまうと「待つ」ことを継続できなくなってしまうことや、実際に対人しなければならない恐怖が募り、「待つ」ことに対し、マイナスな思考が生まれる。更にその自問は、「待つ」という行為は他者がいないと成り立たないというそもそもの原理に縛られていっている事によって更に加速していく。
これらの思考は「私」が一人で待っているという点でより大きいものになっている。一人で待つということは他人と「待つ」行為を共有できないということである。さらに「待つ」以外の行動も制限されてしまう。

「待つ」を題材にした作品といえばサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』だが、この戯曲ではエスドラゴンとウラジミールがゴドーを待つ第一幕にはなかった切迫感が、第二幕でウラジミールしか前日(第一幕)の記憶を持っていないことで生まれている。その空気の違いは、不条理劇といわれる要因の一つといえる。

これらのことを踏まえて女性一人称の告白体で書かれた『待つ』は戦時下の女性の視点で世界の不条理性を描いているのではないか。
 
 
参考文献
1「太宰治『待つ』が提起するもの」村上林造 日本文学 2004年53巻8号
2「太宰治 作品ガイド一〇〇」斎藤理生・松本和也『太宰治 100年目の「グッド・バイ」』河出書房 2009年5月30日
3『太宰治 弱さを演じるということ』安藤宏 筑摩書房 2002年10月20日
『ベスト・オブ・ベケット1 ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット 安堂信也 高橋康也訳 白水社 1990年

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