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発達親子の生活(不登校・5)

どうも。アラフィフおばちゃんです。

どうにか小学校を卒業し、私と元夫の地元の中高一貫校への入学が決まった息子。
私は少し安心していました。
別にこうすることで不登校ではなくなるとは思ってはいませんでしたが、息子が「安住の地」を得てくれたのではないかと思ったのです。

私の大罪

私がこの(不登校・5)を何故なかなか書けずにいたのか、それにはいくつか理由があります。

・息子にとってこの時代の出来事が未だにトラウマになっていること。
・学校だけではなく家庭の問題でまで息子を傷つけてしまったこと。
・息子の唯一の居場所を奪ってしまったのに何も出来なかったこと。
・息子のメンタルを壊してしまったこと。

まとめるとこんな感じです。

私にとっては地元であるこの場所は、転勤族である息子にとっては今までの転勤の地と変わりませんでした。
もともと陰湿で排他的傾向があると言われるこの土地は、私が感じるよりも息子にとっては生きづらい場所でした。

関西からやってきた息子は学校では「異端児」でした。友人も数名いましたが、もともとのコミュ障もありなかなか学校に馴染めませんでした。

息子が周りに馴染めないことは今までも多々ありました。そんな時は学校を休ませて少しリフレッシュの時間を作ったり、息子の不満を聞く時間を作るようにしていました。
新天地では、今までと生活リズムも変わってしまいなかなかそういった時間を作ることが出来なくなっていきました。

そして、中学2年生の時に息子は「鬱」になりました。

自分が「鬱」で苦しい思いをしているのに、息子が「鬱」になるまで追い込んでしまった・・・
このことは、本当に辛いことでした。
幸い私は地元に戻ってから良い心療内科を見つけていたので、すぐに受診させました。
よく「鬱は心の風邪」とか言う方もいますが、風邪は薬で治るけど「鬱」は寛解はあるものの治ることはありません。
息子は今でも、心療内科に通っています。ゆっくり見守っていくしかないんだろうなと思っています。

息子は保健室登校をメインにしながら、どうにか高等部へ進学しました。その際には、学年主任との面談までしてどうにか「配慮」を求めてなかなか大変でしたけど・・・

高等部へ進んでも、保健室登校は続きました。私は不登校がどうこうということよりも、息子のメンタルを第一に考えていました。
しかし、家庭内は非常に居心地の悪い場所になっていきました。
このことは、このnoteを元夫も読んでいる可能性が高いのでここには書きませんが、完全に家庭は崩壊していました。

諸々あって、離婚することになり息子は当然のことながら私との生活を選びました。
そして、「大学へは進学しない」と宣言されました。
私は養育費を支払ってもらうことになっているので、奨学金も利用してどうにか4年分の学費は工面するから、大学へ進学してほしいと言いました。
息子の意思はかなり強かったのですが、最終的には私と当時の担任の先生と説得して大学進学を決めました。

大学進学後は、息子はかなり無理をしていました。4年で卒業しなければいけないという使命感がかなりプレッシャーになっていたのだと思います。私は私でずっと主婦業しかしてこなかったので、お金の工面に必死でした。
この時期は息子の弱音にも耳を傾けてあげられない日々もかなりあったので、つらい思いをさせてしまったと今でも後悔しています。

学費は半期ごとに一括支払いですので「無い袖は振れない」なんて甘いことは言っていられません。
逆立ちして血反吐吐いてでも、期日までに支払わなければならないのです。そのためには本当になんでもしました。
そのために息子に寂しい思いをさせた日々もありました。
それでもどうにか実父の優しさにも甘えながら、卒業までどうにか学費を支払い、一応のために借りていた奨学金も卒業と同時に一括返済しました。

先日息子が「なんかやっと安住の地に落ち着いた気がする」と言いました。幼稚園入園(3歳)から20年後のことです。
息子はやっと自由に生きられる場所を得たのです。
ボロボロのアパートだけど、上の階の音も丸聞こえだし、部屋の中も散らかり放題だけど、ここが息子の場所なんだ。

色んな差別やいじめ、ハラスメントなどを一緒に乗り越えてきました。時には意見のぶつかり合いで、この狭いアパート中に喧々とした空気が渦巻いていたこともあります。

でも一緒に笑い考え、お互いを支え合えるこの小さなアパートで私達はやっとあの頃辛かった話も少しづつ話せるようになり、幸せに向かって歩いています。本当にゆっくりと。
まだ片付けなければいけない問題も山積していますが・・・

今の息子は「障害者雇用」の壁と闘ったものの、自分は社会には不適合という判断をして、在宅で働いています。
私は「障害者雇用」でもダミー人格で過ごす事ができるので、出社して働いています。

ADHDとASDの正反対親子。不登校・保健室登校を経て今でも悩んだりもがいたりしながらもどうにかやっています。

二人でバカみたいな話をして過ごす時間が、今では一番大切な時間です。

不登校だっていいじゃない。保健室登校だっていいじゃない。大切なのは子供にとって安心できる場所が確保されていることだと私は思います。
息子にとってそれは自宅でした。
それが無くなってしまった時に息子は壊れてしまったけれど、壊れてしまっても大切な息子です。
息子を信じて裏切らない。責めない。
道徳的に悪いことをしたら、もちろん叱りますが世間体のために叱ったりはしない。
苦手なことをしっかり把握する(息子の場合は大声など)

食べれないものは食べれないし、体力が続かないのは体の作りのせいではない。大きな音が苦手なのも、人に触られるのが嫌なことも「直せ」なんて言っても仕方ないですよね。

それは「次のオリンピックでメダル獲って」といきなり言われるくらい無茶なことですから。
出来る限り頑張ってみる。出来なかったら違う道を探す。それで良いんじゃないかなと思います。

息子の不登校の歴史はここまで。

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