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クリーム

 一人称単数の中で私が1番印象に残った作品は「クリーム」だ。いや、正直に言えば、1冊読み終えたときにクリームが他の作品よりも印象的だったというよりは、クリームの中に出てくる「中心がいくつもあって外周を持たない円」という表現が印象的だった。読みながら、ああこれは心の中、深層心理に関する表現だろうなと感じた。そしてもっとクリームの意味するところを感じ取りたいと思い、何回か読み直してみた結果、自分なりに解釈を深めてみたことを書いていきたい。

 この小説は、主人公のぼくが浪人生だったときに経験した奇妙な体験を、年下の友人に語るというものだ。ぼくは、以前同じ先生にピアノを習っていた一つ学年が下の女の子から、突然リサイタルの招待状を受け取る。彼女とは一度だけ連弾をしたことがあったけど自分よりピアノが上手な子で、連弾でぼくが間違いを犯すといつもいやな顔をするような子だった。
 ここで彼女の存在とは何かと考えたとき、二人で1曲を奏でるということは、二人で一つということ、すなわちこの招待状を送ってきた彼女は、ぼくの中にいるもう一人の「わたし」なのではないだろうかと考えた。

 河合隼雄「コンプレックス」岩波新書の第二章「もう一人の私」の冒頭には次のように書かれている。

 われわれはどうしてもしなければならない仕事を延引していたような場合、「やろう、やろうと思っていたのですが」といった弁解をすることがある。ここで、「仕事をしよう」と思っていたいのも「私」なら、実際に仕事をしなかったのも「私」である。あるいは、是非共しなければならないことをしようししているとき、「別にやらなくってもいいじゃないか」という「内心の声」を聞くときがある。このように、われわれは「私」というものが分離している感じを味わう。しかし、完全に分離してしまったわけではない。われわれは、そのような葛藤を処理しつつ、一人の人格として生きている。 

 では、主人公は何に葛藤していたのか。彼の立場は浪人生だ。現役のときまずまずの私立大学に入ろうと思えば簡単に入れるくらいの学力はあったが、数学が苦手なのに親に国立大学を受けるように言われて予想通り受験に失敗。でも、それは自分ではわかっていたことだし、微分積分には興味がないので、予備校をさぼって図書館で分厚い小説ばかりを読んでいた。

 なんだか冷めた感じの自己分析だ。浪人生につきものの葛藤が全くない。葛藤しなければいけないときに、そこをあえて避けて生きているようにも感じる。そんな態度にしびれを切らせて、もう一人の「わたし」から招待状が届いたのかもしれない。

 また、主人公にとってのもう一人の「わたし」が女性である点にも注目したい。ユングは夢の中に現れる異性像、すなわち男性の場合は女性像をアニマと呼んだ。

 アニマは男性の心の奥に抑圧されたものや、その人の劣等機能と結びつきやすく、アニマの再生や誕生は劣等機能が開発されていくことを示していると捉えることができます。
 河合隼雄「コンプレックス」岩波新書

 一方で彼女からの招待状は、主人公が劣等機能の開発していく第一歩だとも考えられる。ここでいう劣等機能とは、ユングが心理機能を4つに分け、思考と感情、感覚と直感はそれぞれ対立しているとし、個人が主として依存している機能を主機能、その対立機能を劣等機能と呼んだものだ。

 さて、浪人生活の秋にぼくは自分の心の奥深く無意識の世界にいるもう一人の「わたし」から招待状を受けて会いに行くことになる。でも山の上にあるリサイタル会場の門は固く閉じられていて会うことはできなかった。それは主人公がまだ葛藤することもなく、劣等機能の開発にはたどり着いていなかったからなのかもしれない。

 そして、ここからの展開が私は好きだ。

 少し坂を下ったところの道路に山側に、こぢんまりとした公園があった。敷地の広さだいたい家一軒ぶんくらいだろう。奥の突き当りはなだらかな崖の壁になっている。公園といっても、水飲み場もなく、遊具が置いてあるわけでもない。中央に、屋根のついた小さな四阿がひとつぽつんと建っているだけだ。

 気持ちを整理するためにその公園に入り、四阿で腰を下ろすと自分がひどく疲れていることに気づく。遊具も何もなく、中央に屋根のついた四阿だけがある公園。これは、能舞台のメタファーだろう。そして、やがて遠くから聞こえてくるキリスト教の宣教車の声。これは能の謡のメタファー。
 宣教車から流れるメッセージは、人はみな死ぬこと、死後その犯した罪によって裁かれること、しかしイエス・キリストに救いを求め犯した罪を悔い改める人は罪が許されることだった。

 ここでもう一人の「わたし」である彼女がとっていた態度、つまり連弾をしているときにぼくが間違いを犯すといつもいやな顔をしたということにつながる。つまりこれは、もう一人の「わたし」からの悔い改めよというメッセージなのか。

 ぼくはそのキリスト教の宣教車が目の前に姿を見せ、死後の裁きについて更に詳しく語ってくれるのを待ち受けた。なんでもいい、力強くきっぱりした口調で語られる言葉を、おそらくぼくは求めていたのだと思う。でも車は現れなかった。

 宣教車が遠ざかっていき何も聞こえなくなったとき、ぼくは彼女にかつがれたのかもしれない、と直感する。そしてぼくは自分の何がいけなかったのかを考えているうちに心は混乱し、気がつくと呼吸がうまくできなくなっていた。
 ぼくは目を閉じて身体が正常なリズムを取り戻すのを待っていた。そして、ふと気がつくと、四阿の向かい側のベンチに老人が腰かけていた。シテの登場だ。

老人は言った。「ええか、きみは自分ひとりだけの力で想像せなならん。しっかりと知恵をしぼって思い浮かべるのや。中心がいくつもあり、しかも外周を持たない円を。そういう血のにじむような真剣な努力があり、そこで初めてそれがどういうもんかだんだん見えてくるのや」

 目を閉じて必死にそんな円のことを考え続けたが、答えが見つからず、再び目を開けたとき、老人の姿はそこにはなかった。そして雲の隙間から一条の光が差しこみ港のクレーンのハウスのアルミニウムの屋根を輝かせる。そんな神話的な印象深い光景が描かれているところからも、この老人は神のような存在なんだろうと思われる。

 以上からこの小説を私なりに解釈すると、浪人時代の葛藤を避けていた主人公が自分の奥深くにいるもう一人の「わたし」から呼び出されるも会うことができず、能の世界に引き込まれ、神ともとれる老人から「中心がいくつもある円」という謎解きのようなことばと、この世界で大切なクリームについて教えられるというストーリーだということになる。
 ところが、小説の書き出しに、この話には「結論がない」となっている。主人公が話し終えたとき、年下の友人はこうたずねる。

「話の筋がもうひとつうまくつかめないのですが、そのとき実際に何が起こっていたのでしょう?そこには何か意図なり原理なりが働いていたのでしょうか?」

 それに対して、主人公はこう答える。

 「でも原理とか意図とか、そういうのはそこではさして重要な問題ではなかったような気がするんだ」

 主人公はこの出来事を、単なる奇妙な出来事としかとらえてないのか。そこに意図を見出そうとはしないのかという疑問が湧きあがる。

「ぼくらの人生にはときとしてそういうことが持ち上がる。説明もつかないし筋も通らない、しかし心だけは深くかき乱されるような出来事が。そんなときは何も思わず考えず、ただ目を閉じてやり過ごしていくしかないんじゃないかな。大きな波の下をくぐり抜けるときのように」

 ここを読んで、私は主人公から「勝手に分かった気になってるんじゃないよ」と言われた気がした。そんなことより大切なのは「中心がいくつもあって外周を持たない円」について考えを巡らせること、あるいはしょうもないつまらんこと、そして自分の中にあるはずの特別なクリームについて思いを巡らせることだということを突き付けられたのだった。

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