見出し画像

ただただ滅入った映画

とても嫌な気分。嫌だ、嫌だ。
これが劇場を後にするときに感じた素直な気持ちだった。いささかの消化不良も残っている。他人の考察を読んでしまうと自分が何を感じたのかがわからなくなってしまうから、ある程度自分の中で消化しきるまでは、他人の考察や解説は見ないようにしている。でも、それすらも耐え難く帰りの電車でスマホに答えを求めた。

まず、綾野つづみさんの記事がすばらしい。浅すぎ深すぎず。私はこんなにキレイに消化することはできなかったが、一度読んでしまうと、もうこれは私の感想な気がしてしまう。

それともうひとつ、うまみゃんタイムズさんの解説も素晴らしい。主張をし過ぎずに、作り手の意図と、受け手に必要な知識とを補ってくれる。

お二方の記事に救われて、嫌な気持ちが少しずつ落ち着いていく。その一方で、電車に揺られながら思考が巡る。もしも「あなたは光の子?それとも闇の子?」と質問をされたら、私は迷うことなく「それで言うと、私は闇の子ですね。」と答えるだろう。そして「だからといって、誰かに危害を加えたいと思っているわけでもないし、何なら、みんなが平穏に暮らせたらいいと思っているくらいなので、悪魔ではないと思うんですよね。」と付け加えたくなるだろう。無関心でいられること、または無関心を装うことができることは、倫理観が欠如している私のせいなのだろうか??それを正面から否定することはできない。だって、そのことを自覚し自分でそのような選択をしている認識があるから。でも、悪魔ってほどではないと思うんですけどね。自覚し認識し、その上でなおかつ、無関心を装い続けるというのは、悪魔の所行に見えなくは無いですけど…。結局は、無関心を装うことができるのも、自責することができるのも、私の個人の性格や倫理観の問題なんかではなく、人間という生物の能力なんじゃないのかな?と思い始める。つまりは、人間というのは努力とか教育とは別の次元で、そういった性質を持ち合わせた生物で、ときにはいくらだって残虐になれるし、それによって他の生物には成し遂げない特異な進化もしてきたんじゃないかと、でも、人類はそんなに野蛮で悪魔的な生物ではないこと、たとえそのような性質をもった生物であっても、高度な倫理観により自らを自制し、それに抗うことが出来ること、それを証明するために過去を学び、同じ過ちはを繰り返してはならないこと、つまり、つまりそういうことを言いたかったんだっけか?この映画は…そんな事を考えていると、自宅の最寄りの駅についた。

改札を出て歩きながらまた考える。そういえば、数か月前の同じ曜日の同じ時間、同じシアターで「PERFECT DAYS」を見たっけな。あれはいい映画だったな。上映が終わる前にもう一度見に行こうかな。自分の関心領域を恣意的にコントロールし、その頃にはすっかりと嫌な気分ははれていた。

関心領域のワンシーン
アウシュビッツ強制収容所に隣接する所長ルドルフ・ヘス邸の実際の写真


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?