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「大人になりきれない人」の心理 加藤諦三著【読書感想文】

著者か、脳科学者の言葉であったか忘れたが、人は5歳の時に見た景色を大人になってからも見続けるというような一文を、新聞か何かで読んだ覚えがある。

5歳の時、自分を受け入れてくれる大人が身近にいて、安心できる環境がある、すると自分はこの世に存在しても良いと思え、世の中もよく見える。そういった見方は大人になっても続き、困難も乗り越えられるというような話だったと思う。

確かにそうだなと思った。私が今抱える問題や、心の奥底にある不安、恐れ、世の中の見え方、人との距離のとり方、付き合い方の根本は、5歳のときからそう変わってないと思う。そういった経緯があり、この本の紹介にある言葉『5歳児の大人』が気になり手にとった。

なお、著者がいう大人になりきれない人とは『一口でいえば、自分一人が生きるのに精一杯なのに、社会的責任を負わされて生きるのが辛くて、どうにもならなくなっている人たち』のことであり、つまりそれが『5歳児の大人』だと言っている。

それでこの『5歳児の大人』について、あらゆる方向から定義していて、非常によくわかるし、わかりやすいのだが、一方で短い一文が続く、固い言葉が多い等で読んでいて疲れ、肩が凝ってくるのがわかった。

あと、最初は自分のことが書かれていると思い読み始め、確かに当てはまる部分も多かったし、私が常々思う「不公平さ」についても著者なら少なからず理解してくれるとも思えた。でも途中から『5歳児の大人』に近いのは、私より私の父親で、そうとしか思えない、そう考えれば色々繋がることに気づいた。

父は大抵不機嫌で、それを家族、子どもに見せつけるような人だった。私の感覚だと1週間あれば5日は「普通に」不機嫌、2日は機嫌が良い。1ヶ月あれば1日は地獄のように不機嫌で、1日から2日は超絶機嫌が良い。

リビングの扉を開けた瞬間から、今日の父親の機嫌がわかり、私たち子どもたちは無言でそれに従わなければならなかった。そして今思えば、機嫌が良い日の方が私は父が怖かった。機嫌が良い理由も分からないし、いつ不機嫌になるかもわからない、その怖さの中でひたすら夕食に箸を伸ばすしかなかった。

機嫌が良いときの父は食卓に並ぶおかずが多いことを大層喜んだ。「魚、ほうれん草、こんぶ、あ、お新香もある」という風に。機嫌が良いから子どもに関心を持つというのではなく、ただ食事の内容を喜んだ。

あと「ペンギン歩きをしよう」と誘われることがあった。スーツ姿の父と向き合い手をつなぎ、私が父の足の甲に足を乗せ、縦横と歩く。機嫌の良い父は更に嬉しそうに、にやにやと足元を見ていたが、私は嬉しかったんだろうか。父が満足して「終わり」と言うのを、父に合わせて動きながら待っていただけなような気もする。スーツの匂いも好きでなかった。ただ誘われたら、断る選択肢はなかった。多分、怖かったんだと思う。

本文に戻ろう。肝心の、どうすれば5歳児の大人から年相応に成熟した大人になれるのか、という答えだが、それについては最終章である第6章『自分と向き合えば、生き方が変わる』に書いてある。しかしこれが何というか無理難題でツッコミどころ満載であった。

『まず、自分に欠けているものを知ること』で、これについてはもっともだと理解できる。その次に大事なことが『生きることを楽しんでいる人の生活を見習う』ことらしい。そして『外見を取り繕わず、今の自分に自信を持つ』と力説は続いているが、無理じゃない?それができないから生きるのが辛いのだと思うんだけど。ただ、この本を自ら読む気力がある人は辛さのど真ん中は過ぎていると思われるので、そういった人に向けては有効なメッセージなのだろうか。

それよりも5章『5歳児の大人たちと心の支え』の方が興味深かった。著者は『ブレイン スタイル』という本を訳し、その中で不毛な家であったり、不利な環境で育っても幸せになった人がいるという事実を知る。そこには3つの条件があり、そのうちの1つが他人とは関係なく、趣味を持つことの大切さであった。そしてこの3つの条件をクリアすることが、5歳児の大人を救うにも有効らしい。

なお、1つ目は『今日1日をきちんと生きる』とこれまた難題で曖昧、2つ目は『信仰と祈り』。自分の心を鍛えるために祈る、祈ることで救われる、ただ神仏に祈るのでは意味がないらしい。これは実践しようと思えばできそうだけど、もともと習慣にないことを定着させるのには、時間がかかりそう。






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