見出し画像

天才・偉人研究の盲点

 創造性の研究をしていて、「これが正解」「これが王道」というのはあまり決めるべきではないと思っているけれども、「私には性に合わない」、あるいは「好きになれないスタンス」というのはあったりする。今回は少しネガティブな姿勢でそのあたりを述べる。最初に言っておくと、これから挙げるスタンスやアプローチそのものを否定する気はないし、得られる知見にも価値があるのは間違いない。が、自分がその方法を主だった手段とするかというと、できればしたくないな、というそのくらいのものだと思っていただきたい。

 いくつかあるうちの1つは偉人を証拠に使うという方法だ。もっと具体的に言えば「天才」研究だ。大きな仕事を果たした偉人、賢人がやっていたこと、その人のたどった生き様から創造性の要因を特定しようというやり方は、多くの書籍で見かける。私自身もそういう主張の仕方は一度もやらなかったと言えばうそになる。例えばウォルト・ディズニーが脳内会議で自身の生み出したキャラクターと協同問題解決をしていただとか、伊集院光さんが悩みごとは尊敬する人の墓石相手にやっただとか、そんな話を講演や本の中で出したことはある。ただ、この方法でアピールされた場合に気を付けてほしいことがいくつかある。

天才・偉人研究の盲点➀ サンプリングのバイアス

 天才・偉人研究を扱った本の中でも良く見かけるのは、天才や偉人たちは何らかの精神疾患を持っていたんだぜ、という話。ゴッホの精神疾患だったり、色覚異常だったり、アインシュタインが自閉スペクトラム症だったりと、そんな話はよく持ち出される。しかし、こうした話でよく持ち出される事例には偏りがある。表現者が多く、特に美術や音楽に携わる人の例は多い。科学者の事例も見かけることはあるが芸術系の事例には及ばない。この時点で「天才=芸術・科学」のバイアスが入っている。私たちが現在称賛する天才と呼べる傑物は他の分野にも大勢いる。例えばアスリートにだって「天才」はいるし、芸術系でも書道、華道にも「天才」はいるだろう。藤井聡太さんは天才棋士だろうか、そうではないのだろうか? まずもって「天才」の線引き自体が難しい。顕著な業績を残した、表彰された者という定義で集計されやすいが、その業績や表彰も、客観的な指標でないことも少なくない(特に表彰関係は特定の委員の推薦で決まるなど、客観性に疑問が残る)。そして何よりも、伝記に残された情報というのは基本的に目新しい、あるいはショッキングな特徴になる。天才も私たちと同じように呼吸し、飯を食い、風呂に入る、なんてことを伝記や記事にわざわざ書いたりしないだろう。変なエピソードや尋常ならざる側面が書き残されがちだ。その一方で、「天才たちはこれだけの人数が朝型生活をしていますよ」などと都合の良い時だけ数に訴えることもある(この時の集計もバイアスがかかっていたりする)。

天才・偉人研究の盲点② それってあなたの解釈ですよね

 天才研究の問題として、なぜか故人が多い、現代の天才がフォーカスされにくいことが挙げられる。すでに亡くなった天才について残された資料をみて、この天才はASD(的)だ、ADHD(的)だと言ってみたり、この天才がこういう習慣を続けていたからマネをするとよい、というようなことを言ってみたりする書籍は少なくない。場合によっては、その天才と呼ばれる人物の残した創作物の特徴から、精神疾患を診断するような資料もある。それって坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、貴方の解釈ですよね、エビデンスにならないですよね、と言う話ではないか。作家の描いた物語の中で、精神疾患の登場人物を高い解像度で描写できたからといって、作者が精神疾患だと断じるのはさすがに早計だ。綿密な取材によって健全なメンタルのままで精神疾患を描き上げることだって十分できるはずだ。さもなくば岸辺露伴はとっくにメンタルお化けになってるし、それを描く荒木飛呂彦先生までメンタルお化けになってしまう。
 このアプローチをとるのであれば、せめて現在に生きている天才たちも故人と同じくらいに分析対象として扱うべきだろう。先にも述べた通り、遺された天才の資料にはバイアスが付きまとう。ましてやそれが本人が書いたものではなく、他人が書いたものならなおさらだ(本人が書き遺したものだとしても、本人ならではの記述のバイアスはある)。天才への客観的な観察が望ましいが、それはやはり故人ではなく現在の天才でやることになろう。現在生きている傑物の研究ももちろんあるが、その場合は「天才」研究としてではなく、「熟達者」研究として取り上げられることが多い。例えば、プロ棋士と初心者の眼球運動を比較したり、アマチュアサッカー選手とネイマール選手の脳の状態の違いを比較する研究(ネイマールは他の選手に比べてプレイ時の脳の活性範囲が小さく、その活性度も小さい。それはわずかな労力で他の選手が一生懸命やらなくてはならないことをこなせてしまうことを意味する)などはあるが、これらのプロには「天才」と呼ばれる人が含まれていてもおかしくない。ネイマールなどはまさしく卓抜した選手を天才とするならば十分「天才サッカー選手」だろう。このあたりの違いもあやふやなのが現状だ。


天才研究の盲点③ 悲しみだけを残しがち

 天才研究で、特に神経科学の知見と結びついた時にたまにあることだが、偉人とそれ以外の人々の生物学的な違い、ハードウェア的な違いを明らかにしてそこで終わってしまうことがある。具体的な例を言えば、アインシュタインは通常よりグリア細胞が多い、という話である。この話は知見としては意義があるが、専門家以外の人々が聞けば「ああ、脳の作り、生き物としてのレベルから違うのね」「がんばってもアインシュタインみたいにはなれない」と思わせてしまう。もちろん、天才や偉人と呼ばれる人物は必ずしもグリア細胞が多いとは限らない。そうでない偉人もいる。その一方で、先も述べたような、偉人には精神疾患が多い、という話を聞いて、「精神が壊れるぐらいじゃないと天才や偉人にはなれない」とか「私は天才だから精神的に非常識な面があってもいいのだ」とかそんな誤解をする人もいるが、もちろんそれも誤りだ。

 先に述べたネイマールの脳の使い方の違いに関する研究は、一見すると凡人と天才の脳の作りの違いのように見えるが、これはそうではない。積み重ねた修練の結果として脳の活用の効率化が起きただけだ。修練を積むことでこの域に達することができるかもしれない。熟練すればあんな風に脳を活用できる、あるいは脳の活動の様子をみて逆に熟練のレベルを見極められる、といった応用や未来につなげられる。天才研究は、単に凡人との差を見せつけるだけでなく、凡人にも活かせる知見にまでつなげてくれないと、悲しみしか生まなくなってしまう。
 

 そんなわけで、個人的には天才研究にはあまり魅力を感じていない。こと創造的な思考を目指す場合においては、限られた、バイアスのかかった少数事例を追いかけるより、別に天才でもない多様な事例、サンプルから手がかりを探した方が新奇性の高い、それでいて実現可能性もある答えが見つかるのではないだろうか。













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?