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(読書)「創造性はどこからやってくるか」郡司ペギオ幸夫 著


8月の初めに郡司ペギオ幸夫先生が「創造性はどこからやってくるか」という新書を著したという。なんということか。拙著とかなりタイトルがかぶっているではないか。


しかし、これは向こうが拙著に被せてきたのではない。郡司先生はそれまでに「やってくる」という著書を出していて、その続編的(実践編的)なものとして「創造性はどこからやってくるか」というタイトルになったというわけだ(書影が怖くて「やってくる」が別のホラーな意味にとれそうだが・・・)。

 とはいえ、タイトルがかぶっている以上はチェックしないわけにはいかない。どんなことが書いてあるのか、というと拙著とは全く異なる視点で創造性のことを考察している。美学や作家視点の記述だが、少々の心理学、神経科学の話もある。しかし、郡司先生はサイエンスだけに偏って創造性を考えることには懸念を抱いていて、むしろ、記号や論理だけで記述しきれる世界の中には創造性は見つからない、その外「外部」に触れることこそ創造性の発露につながるのだと指摘している。この「外部」というのが今述べた通り、ロジカルに言語で記述しきれるものではなさそうなので「こうだ」と説明することがまた難儀するが、確かに私たちの日常には、言葉には表しきれないが確かに「ある」と感じる感覚や直感のようなものがある(今私が感じているこのあたりの説明の苦しさ、もどかしさもまた「外部」のものなのかもしれない)。郡司先生は作品の中にこうした外部へのアクセスの契機をもたらすものがあることを創造的なもの(作品)の特徴として位置付ける。郡司先生はこれを「穴」とか「不完全」と呼んでいる。この穴は欠陥だとか不備だとかそういう意味ではなく、強いて勝手に言い換えさせてもらうなら「余地」「余白」のようなものではないかと考える。名作の彫像に肢体の一部がないことでそこに想像の余地を与える、物語の一部始終をあえて語りきらず、そこに想像の余地を与える。そういう「関わりたくなる余地」を用意して鑑賞者を惹きつけられるものが優れた創作物なのだろう。アニメや漫画なら「新世紀エヴァンゲリオン」や「ONE PIECE」などはその典型で、直接語られていない、描写されていない謎の部分がさまざまな考察・憶測をする楽しみを生んでいる。

 で、そうした「穴」を作るのが一苦労なわけだが、郡司先生はそのコツともいえることとして、「トラウマ構造」なるものを指摘している。このネーミングには少し賛同しかねるところもあるが、AとBという両立しがたい、あるいは共起しがたい概念やものごとを共存させることで、AとBのそれぞれの概念の見直し、再定義を迫る、ということのようだ。郡司先生が「授業の中で学生から挙がってきた秀逸な例」として絶賛していたのがDDTプロレスの「ヨシヒコ」である。このヨシヒコ、DDTというプロレス団体のメンバーではあるが、人間ではなく人形である。DDTではこのヨシヒコという人形をいち選手として認識し、人間の選手と戦わせるのである。私もこのヨシヒコのことはこの本を読む前から知っていて、最高に愉快なアイロニーとして気に入っていた。「プロレスなんて八百長、やらせ、ガチじゃない」という言葉に対し、真剣にまるで本当に死闘を繰り広げているように人形対人間の戦いが繰り広げられる。

 このガチなのにガチじゃない? 人間じゃないのに選手? プロレス技をかけているのかかけられているのか? という両立しがたい事象を前に、観衆は今までの認識の再定義を迫られる。「ガチ」ってなんだろう、「選手」ってなんだろう、「技をかける・かけられる」ってなんだろう、とつい考えたくなってしまう(そこで「もうわけわからん」と思考を停止する人もいるだろうが)。こうしてつい考えたくなってしまう問題提起や矛盾を備えているものはトラウマ構造があると言える。そうして今まで考えてもこなかった、認識することもなかったことへの思索から、言葉やロジックではつかめない発想の種が惹起されるということなのだと思う。ちなみに私はヨシヒコに対しては「なんだこれは」と思って考えた結果として「プロレスに向けられた冷ややかな視線に対する反論とアイロニー」という結論を得ているが、これも無理やり自分なりに言語化したもので、この言葉をヨシヒコを知らない人に説明してもきっとヨシヒコの面白さは伝わらないだろう。

 別の例では以前にも触れた話だが、久保(川合)南海子先生が「推しの科学」の中でアンパンマンとばいきんまんの二次創作同人誌のプロセスを説明しているが、負けてもしつこくアンパンマンにつっかかってくるのもある種のトラウマ構造を持っていると考えられる。「宿敵に連戦連敗」と「しつこく絡んでくる」という一見すると並び立ちにくいものごとが存在し(アンパンマンも再起不能にしてやればいいのにしないし、ばいきんまんもあきらめて手を引けばいいのにすぐ再戦を挑む)、この冷静に考えればおかしい状況を前に「この関係性は何だろう」という穴を感じる。そこでこの穴を埋めるべく新たな解釈を呼び込んで「アンパンマンとばいきんまんは実は相思相愛」という二次創作が呼び込まれる。これは久保先生によればアブダクションであり、言語と理屈が使われているが、アートの中には言語化とは別の形で穴を埋めることもありうる。

 郡司先生のこうした「トラウマ構造」による創造性の捉え方は、かなり質的ではあるものの、創造性研究を行う上でも一つの手がかりを与えうる。「創造的なもの」をあらかじめ定義してしまうと、そのこと自体が創造性を損ねてしまう。このことが昔からネックになっていたが、この「トラウマ構造」を基準に考えれば、生成されたアイデアの産物について新しく創造性の分類や評価が可能になるかもしれない。ただし、「トラウマ構造を備えること」を産物の創造性の定義としてしまうには1つ問題がある。それはトラウマ構造はおそらく見出そうと思えばいくらでもこじつけられてしまうことだ。これについてはまた別のエントリーの中で改めて述べたい。

 ただ、こうしたトラウマ構造を考えて実装することは簡単ではない。物語の中にトラウマ構造を実装しようとするにしても、単に説明不足だったり、登場人物の行動が一貫していない、支離滅裂なセリフがあるではトラウマ構造にはならない。ちょっとわからない、おかしい、と思わせながらも、なぜだろうと考えたくなるような求心力がないと、ただのわけのわからない物語に終わってしまう。こうした求心力の持たせ方はおそらくはメディアの種類によってもさまざま異なるだろう。絵画なら筆致や色遣いの魅力、構図などもあるだろうし、アニメや漫画ならキャラクターデザインや声優の演技などにも影響されるだろう。どのジャンルの芸術にもレイヤーが何層もあり、名作と呼ばれるものは、そのそれぞれのレイヤーで鑑賞する人を惹きつける工夫が施されている。本書の中には著者である郡司先生が自ら創作に取り組む過程も詳細に語られているが、自らが唱える「トラウマ構造」と呼ばれるものを、幾重も重ね、入れ子にした作品を作り上げている。どんな作品、どんな考えで仕上げていったのかは実際に本書を取って確認していただきたい。

 ひとまず、拙著のような関連研究を集めて説明するものとは全く異なるアプローチで一安心だった。また、そこで指摘される創造性のすがたもまた当事者事として考えてみたくなるまさに穴や空白のある魅力的なものであった。なかなかに難解な記述ではあったが読み応えのある本。おそらくはまた時間をおいてその時の研究者や世間の創造性観に変化があったときに立ち返ると面白いと思えるだろう。


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