べいすいの日記①コンテンツの奴隷にならないように

今日からnoteを始めることにした。

私は、Webを中心に活動しているフリーのライターだ。普段は本名で活動しているが、この場では匿名の一個人として活動しようと思う。

noteを始めた理由は、自分の思考を整理するために都合が良いと感じたからだ。普段は仕事で文章を書いているが、文章を書くこと自体はあまり好きではない。ただ、ライターという仕事を続けるうちに、脳内で考えていることを文章に落とし込む(アウトプットする)ことの重要性に気づくようになった。なぜ重要かについては、話が長くなるうえ、今話したい内容とは逸れるため、今回は割愛する。

ともかく、自分が考えたことや感じたことを文章に落とし込むことで、自分がどういう人間なのかを客観視するために始めたnoteである。先述の通り、こうして仕事以外で文章を書くことは好きではないため、更新頻度は少なくなるだろうが、スタミナがあるときに書いていこうと思う。

コンテンツがあふれた現代における、コンテンツとの向き合い方について


今日書いておきたいと思ったテーマは、「コンテンツがあふれた現代における、コンテンツとの向き合い方について」だ。いまさら改まって言うまでもないが、現代ではコンテンツが数え切れないほど存在する。形式も文章や動画、写真、音声などさまざまで、それをアップロードするメディアもごまんとある。我々は、これらのコンテンツとどのように向き合うのかを考えなければいけない。

Youtubeで目についた動画を追っていたら、一日が終わってしまったということは、現代人なら誰しも経験したことがあるのではないだろうか。(Youtubeの関連動画に表示される動画は、なぜあんなにも魅力的に見えるのだろうか)向き合い方を間違えれば、コンテンツを消費しただけで人生が終わりかねない。これは単なる比喩ではなく、本当にそれだけのコンテンツがあると思っている。

私がこのテーマについて考えるべきだと感じたきっかけは、会社員時代にアニメを見ていた際に感じた虚無感だ。

当時は、毎クールのアニメを追いかけることに必死で、土日は録りためたアニメを見ることだけに時間を使っていた。おそらく毎クール20本前後は視聴していたはずだもちろんこれよりも多くのアニメを見ている人も少なからずいるだろう。ただ、当時の私にとって、アニメを見ることは義務のようになっており、あるときから苦痛に感じるようになってしまったのだ。息抜きのためにアニメを見始めたはずが、毎週見ないといけないというある種の強迫観念にとらわれ、休む時間を削ってまでアニメを見ていた当時の私。今振り返れば滑稽にも思えるが、当時はアニメを見ることこそ土日にするべきことだと本当に思っていた。(ちなみに私がアニメを見ていたのは、2016~2019年あたりだが、当時は毎クール必ずクオリティの低いアニメが何本もあり、なんだこれと思いながら見ていた記憶がある)

さらに、途中からは見ること自体が目的になっていたため、内容も全然頭に入ってこなかった。当時見たアニメについて覚えていることはほとんどない。私と同じように、毎クール何十本もアニメを見ながらも、それを苦痛に感じている人はそれなりにいると思う。私の場合、仕事の都合などで見る時間が取れず、ぱったりと見なくなったが、中には何年もそのような生活をしている人もいるのではないだろうか。(もちろんアニメに限った話ではない)

では、どのように向き合えばよいのだろうか。

私は、コンテンツを「消費」するのではなく、「昇華」していくことが求められているのではないかと思う。

ここで言う「消費」の定義は難しいが、単にそのコンテンツを視聴・閲覧すること程度に考えてほしい。重要なのは、「昇華」することである。あらかじめ断っておくが、私がここで言う「昇華」は、私なりの言葉であり、精神分析などで使われる用語とは異なるものである。私の中で最適な言葉が見つかっていないため、「昇華」という言葉を用いている。私なりの「昇華」の定義は、「コンテンツに触れた際の自分の心の機微から、自分がどのような人間であるのかを改めて考える」ということだ。要するに、マンガやアニメを見て、自分が何を思ったのか振り返り、その振り返りから自分の性格や信念、志向などを考察することである。もっと単純な言い方をすれば、自分はなぜその作品が好き/嫌いなのかを説明できるようにすること、とも言い換えられるかもしれない。

ここからは、具体例を挙げて持論を展開していきたいのだが、もう書く気力がないため、明日か明後日にでも続編を書こうと思う。仕事外での執筆は面白いが、本当に疲れる。選んだテーマも、最初にしては壮大すぎたかもしれない…。







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