私たちの人生には魚たちの思惑なんて入り込む余地は無いのだろうか

 序

 私がその事件に巻き込まれたのは、今でも何故なのか理解できないし、それが本当に現実だったのか(夢だったのか)分からない。それでも、私の心に沈殿しているし、大した硬度もなかったそれまでの価値観に傷をつけていったことは事実である。そのちょっとした嵐が私を飲み込み、過ぎ去った今、何を得て、何を失ったのか整理するためにここに記そうと思う。仮に私が死んだ後も、サーバーないしはこのサービスが残る限り、記録は残る。もし後世の誰かがこの記録を発見し、何か知見を見出したり、教訓を得られる事があれば、私の魂も多少救われ、いつか輪廻の先にあるという天国に近づけるかも知れない。

201×年2月6日 AM3:17

 イラスト用のアドレスにそのメールが届いているのに気がついたのは偶然だった。私は業務時間外にメールチェックする事は殆どない。それは3年前にフリーランサーとなってから守り続けているルールの一つである。ビジネス用の2つのメアド(プログラマ用に一つ、イラスト用に一つ)であれ、プライベート用の2つのメアド(スマホキャリアの一つ、フリーメールの一つ)であれ、変わらない。たまたま早寝ができた為、変な時間に目が醒めてしまったようだった。スマホのLEDがメール着信を知らせていた。腕を伸ばしスマホを開く。「Subject:絵画のご依頼」fromは見覚えのないアドレスだった。私はメールを開いた。

’拝啓 時下ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り厚くお礼申し上げます。さて、田中夢子様においてはフリーランスにて絵画のご依頼をお受けされていると伺っております。つきましては、以下の条件にてのご依頼を、ご検討いただけますでしょうか。ご返信期限:2月15日まで 納品期限:201x年3月末まで。....(中略)ご興味お持ちのようでしたら、こちらにお電話頂ければと思います。090(XXX-XXXX)  甚だ略儀ではございますが、まずはメールをもちましてご挨拶申し上げます。 敬具’

私はベッドから起き上がり、頭を振った。拝啓?敬具?そんな単語を使うような人は今まで周りにはいなかった。それに私の本名を知っている?フリーランサーとなってから、基本的には本名とは別の名を使っているからだ。更に言うと、イラスト仕事用のアドレスを知っている人は極端に少ない(はずだ)。残念ながら、フリーランスとしてはプログラマとしての仕事がほぼ100%で、イラストの仕事が舞い込むのは年に2、3件程度だった(しかもほぼ身内と言っていいような依頼元だ)。そんな私にこんな馬鹿丁寧なメールを?何から何まで、おかしな依頼だ。普段ならスパムメールかと思い即ゴミ箱に放り込むのだが、頭の隅に違和感、と言うかノイズが入るメールだった。

翌朝、遅めの時間に目が醒めた。深夜のメールが夢ではなかった事を確認し、ため息をついた。やれやれ、どうしたものか。幸い(と言うか不幸と言うか)プログラマの仕事が一昨日ひと段落し、次の案件まで2ヶ月ほど日にちがあり、撮りためたアニメや映画を一気に消化しようかと考えていた矢先だったからだ。試しに、メールにあった電話番号に非通知で連絡をとってみることにした。おかしな相手だったら、そのまま切ってしまえばいい。

呼び出し音が3回。きっちり3回だったと思う。カチャ。相手がでた「.........はい。」男性の声だ。

「.......あの、もしもし」

「タナカユメコ様ですね?お待ちしておりました」

私は唖然とした。

201×年2月6日 AM11:47

「タナカユメコ様ですね?お待ちしておりました」

私は返事ができず、黙ってしまった。男性の声が続いた。

「メールを見ていただいて、ありがとうございます。ご連絡いただいたと言う事は、ご興味を持っていただいた、と言う事でしょうか?」

私は10秒程黙って、ようやく返事ができた。

「...興味と言うか。分からない事が多すぎて。」

男はフフッと笑ったようだ。

「大丈夫ですよ。お気持ちは分かります。」ゆっくりとした喋り方で続けた。

「タナカ様が驚かれるのは当然です。こちらとしても、本来はもっと”当たり前の手順で”ご依頼を差し上げるべきだったのですが、時間も足りず、事情が入り組んでおりましてね。いたずらに混乱させてしまうと思い、このような手段を取らせていただきました。」

私は声も出せず、頷いた。男が見えるはずもないのに。

「これは失礼、私は”キド”と申します。この件に関しまして、全ての権限を任されております。」

この件?全ての権限?

キドは続ける。

「怪しい依頼と思われるでしょう。ご安心ください。タナカ様の美大の油画科時代の恩師である、サイトウケンジ様からのご紹介です。」

斎藤教授。美大時代にお世話になった。今はどこか別の美術大学の学長だか、どこかの財閥の美術顧問だかになったという噂を聞いていた。日本で油画を描いていれば、避けられない大物だ。しかし分からない。私が斎藤教授にお世話になったのはもう10年近く昔だし、正直そんなに目立つ、優秀な生徒ではなかった。むしろ劣等生だったと言っても良い。実際、卒業してから交流は一切なかった。

私はようやく声を出せた。

「でも、なぜ私なんですか...どういう依頼なんでしょう...」

なんて馬鹿みたいな質問だろう。

しかしキドは気にしない。

「サイトウ先生は、タナカ様の事をよく覚えていましたよ。もちろん卒業制作の作品も。とても高く評価なさっていました。」

驚いた。私の卒業制作作品は大した評価もされず、ギリギリの成績で卒業していたからだ。作品だって、卒展に出したまま大学に寄贈していた。

「実は、私の目の前にあります。タナカ様の描いた絵画。なんと申しますか。私は美術に明るくないのですが、不思議な気持ちになりますな。魚なんでしょうね。まるで意思を持ってそこにいるようです。」

確かに私の絵なのだろう。私の油画作品の、ほぼ全ては魚をテーマにした物だからだ。

「タナカ様が主に魚をモチーフにした絵画を多く描いている事は存じ上げております。私たちがタナカ先生(!?)にご依頼するのも、もちろん魚の絵画です。」

私はもう、何も言えなくなっていた。

「メールにも記載致しましたが、期限は来月末。カンバスのサイズはPサイズの8号(455x333mm)か10号(530x410mm)。構図やモチーフは先生にお任せいたします。報酬は、お話をお受けいただけたら着手金として70万円。作品を納品していただいたら、200万円ご用意致します。これはお話を受けていただく前提なのですが、作品は未完成であっても、期限には必ず作品を引き渡していただきます。...ここまでで何かご質問ありますか?」

あるはずも無かった。

「...よろしい。最後に一つ、条件がございます。」

「...何でしょう」

私はようやく言葉を絞り出した。

「作品を引き渡した後、この作品に関しての一切の権利を放棄していただきたい。引き渡しされた後のその絵に関して、その後の行方や行き先を追求されることのないようにお願いしたいのです。大変失礼なお願いだとは思いますが。その為、ご依頼の報酬は相場の数倍をご用意したつもりです。」

「...」

「これでお話は終わりです。ご依頼内容は、ご理解いただけましたか?」

「...魚の絵を描きます。サイズはPaysageの8か10号。期限は来月末まで。」

パチパチパチ。電話の向こうでキドが拍手した音が聞こえた。

「素晴らしい。先生は実に聡明で、決断の速い方だ。それでは、何か不明な点などありましたら、メールでも電話でも構いません。ご連絡願います。それでは、よろしくお願いしましたぞ。」

ガチャ。電話が切れた。

私は暫く、電話の子機を眺めた。残念ながら、子機はもう何も教えてはくれなかった。

ゴトリという音が玄関から聞こえた。玄関に見にいくと、ドアの郵便受けに封筒が入っていた。何なのかは予想がついた。案の定、中には大金が入っていた。どっと疲れていて、70万円あるか数える気にもなれなかった。

201×年3月24日 PM7:31

 私の住んでいる小さなワンルームマンションの前に、大きな黒塗りのリムジンが停まっているのは、何とも言い難い間抜けさだった。

絵の引き渡しを問い合わせた所、今日の午後7時30分に引き取りに伺います、と返信があった。しかし、まさか私の住んでいる安マンションにリムジンで取りに来るとは思っていない。顔を真っ赤にした私がカンバス入れを抱えながらリムジンの横に立つと、運転手がドアを開けてくれた。乗り込み、ソファに座る。予想以上に沈み込み、驚いてしまった。

「やあ、タナカ先生。初めまして。」

リムジンのソファの向かい側に、初老の男性が座っていた。スーツが似合っている。生まれた時からスーツを着ているような男だ。膝の上にNECのノートPCが置いてある。彼はノートPCの画面を覗いていた。

「初めまして。キドさんでしょうか?」

「はい。お目にかかるのを楽しみにしておりましたよ。」

キド老紳士は、目を上げるとニッコリ微笑んだ。

「...先生、っていうの、やめてもらえませんか。私はただのフリーイラストレーター兼プログラマーなんです。」

老紳士はノートPCをパタンと閉じ、目を大きくしてこちらを見、ハッハッハッと笑った。

「それでは、ご依頼致しました作品を見せていただけますかな?」

私はカンバス入れから絵を取り出し、キドの方に絵をむけて手渡した。キドは少し目を細め、受け取り油画を眺めた。ほう、と小さく声をあげたようだった。

「これは、、、鯉ですかな?鯉が、、、空を飛んでいる?いや考え事をしているのかな、、、」

「解釈は、お任せします。どうでしょう。ご満足いただけましたでしょうか。もし何かありましたら、期日まで少々余裕を見ましたので、手直しいたしますが...」

「いや、これで結構です。前も申し上げましたが私は美術に明るくないのですが、良い絵だと思います。私は好きですよ。」

私はホッとした。もちろん今から気に入らないと言われても困ってしまうだけだが。

「...これで”タナカ先生”のお仕事は終わりになります。報酬は後日必ずお渡し致します。これで、このままおかえりになられても結構です。ですが、もし...」

「...もし、タナカ先生がご興味ありましたら、この作品が今からどこに行くのか教えて差し上げても構いません。今回、タナカ先生はとても良く依頼をこなして下さった。その感謝の気持ちと考えていただければ。もちろん、他言は無用なのですが...」

私は、うなずいた。

201×年3月24日 PM8:03

 キド老紳士はゆっくり話し始めた。

「まずは私の素性から説明さしあげた方がよろしいかな。私は木戸惣一郎と申します。」

名刺を差し出した。私は慌てて両手で受け取る。真っ白な長方形の紙に「木戸惣一郎」とだけ書かれた名刺だ。肩書きも何もない。

「総日ホールディングス、をご存知ですか?」

「え?いやもちろん。」確か旧財閥から連なる大企業だ。知らない人は余程ニュースなどから程遠く生きている人だろう。

「私はその創業家である、西宮家に仕える者です。現在の当主は、7代目の知家様なのですが。幼い頃から、お側に仕えております。」

リムジンはいつの間にか発進していた。スムーズすぎて気が付かなかったのだ。

「その知家様が、ここ数ヶ月、原因不明の病に伏せっておりましてね。もちろん命に関わるような病ではないようなのですが。日中、疲労感が強く、時には酷い眠気に襲われ、気を失う事もありました。充分に睡眠を取っていらっしゃるのですが。医師達がいうには、膠原病の一種なのではないかとの事ですが、原因ははっきりしないのです。ただ、西宮家にたびたび現れる血筋に、同様な病に苦しむ方はいらっしゃったそうです。その御先祖達には不思議な共通点がありましてね。」

私は黙って頷いた。この話が、どうしたら今回の分からない事だらけの絵画の依頼になるのか、全く理解できなかった。

「西宮家には、稀に”遠見の才”がある人物が現れるようです。遠見、とは文字通り遠くを見る、という意味ですが...」

木戸はタバコに火をつけた。

「所謂、勘が良いと言いますか。見えないものが見えているようなのです。それは、ビジネスや投機などにおいてとても有効に働くものでした。それ故、過去から現在にいたり、西宮家は繁栄してきたのですが。そして、その”遠見の才”を持つ者に共通する事、その一つが...」

タバコをひと飲みし煙を吐き出すと、灰皿で消した。

「頻繁に、魚になる夢を見るそうなのです。」

201×年3月24日 PM8:34

「魚???」

急に魚が登場したので、驚いて変な声が出てしまった。

木戸老紳士は真面目に答える。

「そう。魚です。自分の姿は見えないようなので、どんな魚なのかは分からないそうなのですが。あ、知家様がおっしゃっているのですが。」

私は開いた口が塞がらない。

「魚といっても、宙を泳ぐそうです。感覚的には、幽体離脱、というんですかね。そういったものに近いそうです。ただ、実際行きたいところに行けるし、夢で見たことは、後日確かめると本当に起こっているのだ、と。」

「ふむ。それで見たいものを見にいけば、ビジネスだけでなく有利に働くことは多いんでしょうね。」

私は諦めて、全面的に話を信じることにした。もう始めから私の理解を1万メートルほど超えているのだ。反論しても仕方ない。

「そうなのです。しかし、現代は違います。西宮家には資産が潤沢にありますし、そうなると不動産や株が勝手に利益を生み出し、危険を冒す必要がないのです。予見の力など、無用の長物なのです。それなら、病と共に治療してしまえないか、私はそう考えました。何より、病に苦しむ知家様をこれ以上見たくないのです。」

「なるほど。」

「私は知家様の許しを得て、その力と病を封じる術があるのか、調査する権限をいただきました。それはあらゆる方面でです。医学方面はもちろん、所謂オカルト方面に関しても、です。様々な方法を試しました。私自身、馬鹿らしいと思わざるを得ないような方法までね。それでも、病は無くなりませんでした。調査をはじめて2ヶ月程経ったある日、私はある古い文献を目にしました。そこには、非常に興味深い物語が書いてあったのです。そこで...」

リムジンは知らない間に、港の倉庫前に停車していた。

「そこに書いてあった方法を試してみようと考えた訳です。」

リムジンのドアが、音もなく開いた。

201×年3月24日 PM9:28

 木戸老紳士と私はリムジンを降りた。木戸の後を私はついていく。木戸は絵を両手で大事そうに持っている。港の海沿いまで歩き、止まった。私もその後ろで止まる。

「先生。お気を悪くしたら、申し訳ありません。」

木戸はそう言うと、魚の絵を右手で持ち、大きく振りかぶると海に向かって放り投げた。カンバスはクルクルと回りながら遠くまで飛んで行った。海に落ちる音は聞こえなかった。私は、リムジンを降りてからなんとなくそうなる気がしていたので、あまり驚かなかった。

「これで終わりです。なんと言うか。せっかく描いていただいた作品を、このような事に使ってしまって。申し訳なく思っています。」

「いえ、いいんです。私の方こそ。こうなるのがあの絵の運命だったんだと思います。なんとなく、理解しています。」

「そう言ってくださって、感謝します。先生。それでは、お付き合いありがとうございました。家までお送りいたします。」

私は、満足気な顔を木戸に見せた。木戸も、ようやく人間らしい笑顔を返してくれた。私たちは、ゆっくりリムジンの方に歩き出した。

後ろの海の方から

チャポン

と大きな魚が飛び跳ねたような音がしたような気がした。

後日談

 その翌日、朝起きるとドアの郵便受けに分厚い封筒が入っていた。試しに数えてみたら、300万円とメモが入っていた。”感謝のお気持ちとして報酬を上乗せさせていただきました”と書いてあった。(後日、確定申告に必要な書類も全て送られてきた)

西宮和家さんの病がどうなったのかは分からなかった。西宮家は極端な報道嫌いのようで、インターネットはもちろん、雑誌や文献はまるで無いに等しい状態だった。私は西宮家を調べるのを諦めた。

私は370万円を元手に絵画教室兼アトリエを開設した。とはいえ、年の半分はプログラマーとして働いているし、描いた絵もあまり売れない。

たまに眠れない夜に、木戸老紳士を思い出す。ゆっくり眠るご主人様を見守り安心しているのか。今も病を治す方法を探し続けているのか。もしかしたら、別の作家さんの魚の絵を港の海に放り投げているのかも知れない。

これで、私の話は終わる。もちろん私の人生はこれからも続くし、私の描いた魚達は今日も明日もカンバスの中を泳ぎ回るのだろうか。魚達の思惑は、描いた創造主の私にも分からないのだ。

お気持ち程度いただければ、私がビアを飲めます。