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【宿題帳(自習用)】視点を変える(その1)


Ken Tanahashiさん撮影

以前書いたことでは有るが、見るというのは受動的だが、描くということで、見方を提示するのが画家である。

一点透視法(透視図法)を見つけるまで、人類は、さまざまな描き方をした。

日本では、例えば源氏物語絵巻」などの王朝絵巻は「吹抜屋台(ふきぬけやたい)」という手法で描かれている。

「源氏物語絵巻―伝・藤原伊房・寂蓮・飛鳥井雅経筆」(日本名筆選)

これは、文字どおり屋根や天井、間仕切りの壁や建具の一部を取り払って斜め上方からのぞき込むように屋内の人物や調度を描くものである。

主に、屋内にいる主人公や男女の機微を手に取るように知ることができるのである。

この描き方は、映画のクロースアップの手法を先取りしている。

映画では、どこかにピントを合わせると、他に合わないというカメラの特性が、映像を規定していた。

ところが、グレッグ・トーランドが「パン・フォーカス」(全焦点)レンズを工夫することによって、

映像が変化し、映画史上に残るオーソン・ウェルズの「市民ケーン」が誕生した。

『市民ケーン』1987年リバイバル日本版劇場予告編

まず、最初は、自分の視点を疑ってみること、次に「常識」的な視点を疑ってみることだ。

1960年に放送されていたNHKの「ブーフーウー」は、人形が踊るというものであったが、どうして動いて、お姉さんとも喋って、箱の中に入れられるのか、子供たちには分からなかったそうだ。

おかあさんといっしょ 「ブーフーウー」

https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=youth001

脚本を書いていた飯沢匡が、実は、3種類の人形を使っていたと書いていたので、アッと驚いたことがある。

2004年に放送されていた保険会社のCMに、子象が親象と並んで川で水を飲もうとすると、川岸が崩れて流れに落ちてしまうものがあった。

その後、親象が鼻をまきつけて救い上げる。

こんな画期的なシーンを、どうして撮れたのだろうと思っていたが、実は、後半の部分は、演出だということを、以下の本で知ることになった。

「テレビの嘘を見破る」(新潮新書)今野勉(著)

調教師が、別の象を使って、10時間がかりで撮ったそうだ。

それを紹介する朝日新聞の記事を引用した演出家の今野勉は、「40年以上もテレビ番組の制作にたずさわってきた私も見破れなかった」と書いている。

言われてみれば、後半は、別角度から撮っているのだから不自然である。

だが、うまく作り込んだ映像は、プロもだましてしまう。

およそ映像には、多かれ少なかれ、作り手の作為が忍び込んでいる。

どんなに視点を変えても、肉眼では見えないところがある。

世間という土壌に、数々の名作の花を咲かせた山本周五郎は、作中人物に語らせている。

「どんなに賢くっても、にんげん自分の背中を見ることはできないんだからね」

「さぶ」(時代小説文庫)山本周五郎(著)

ひとの視線を借りて、初めて見えるものもあるのだ。

SF映画で宇宙船の戦いがある時に、どのように撮影すればいいだろうか?

多くの人は、ミニチュアの宇宙船を、ピアノ線などで吊して、撮影するというだろう。

しかし、これでは、自由自在に動かすことができない。

映画「スター・ウォーズ」は、エピソード1以降の宇宙船の撮影の仕方を変えたという。

つまり、宇宙船ではなくて、カメラの方を動かすのである。

観客に見える映像は、全く変わらない。

カメラを自在に扱える技術の裏づけが必要だが、まさに視点の転換である。

次のようなクイズがある。

次の●を全部、4本の一筆書きで描け、というものである。

有名すぎて、今さらというクイズだが、視点を変える必要性を考えるために出しておく。

●    ●    ●

●    ●    ●

●    ●    ●

同じように、枠を外して考える問題に、「同年同月同日に同じ父親、同じ母親から生まれた二人がいますが、双子ではありません、どうしてでしょうか?」というのがある。

《答え》
双子じゃなくて、三つ子以上だった。

映画「いまを生きる」の中で、ロビン・ウィリアムズが演じる先生が、学生たちを机の上に立たせるが、まさに視点を変えている。

Dead Poets Society (1989) Trailer #1 | Movieclips Classic Trailers

【関連記事①】
高く澄みわたる冬の空。
https://note.com/bax36410/n/n39350a47b2aa

想像するだけでなく、実際に机の上に立ってみることが必要だ。

厚底靴を非難する声が多くて、例えば、石川三千花「服が掟だ!」には、靴岩石だと書いてあるが、実際、ちょっとでも背の高くなる靴を履くと、視線が高くなって、世の中が違ってみえることがある。

「服が掟だ!」石川三千花(著)

目を海外に向ければ、ルネサンス時代のヨーロッパで、上流婦人の間でチョピン(chopine)と呼ばれる厚い靴底の靴が、大流行したことがあった。

木やコルクの台座に鉄製の輪をつけ、表面を豪華な布地か皮革で覆い、刺しゅうを施した靴である。

小アジアが起源といわれる。

中世以後、チョピンは、トルコからのイスラム文化の流入とともに、イタリア、スペインに伝わり、英国、ドイツはじめ、ヨーロッパ一帯に広がった。

ゆったりとしたスカートを着て、チョピンを履くと、どの女性も見違えるほど背が高く見える。

30センチに及ぶチョピンもつくられた。

ショパン - 17世紀の贅沢な靴

https://dailydoll.news/ja/2023/04/29/chopin-shoe-history-11/

これを履くと女性は、独りで歩くことができず、二人の侍女を左右に置いて、肩につかまって歩く、ということになったそうだ。

「衣の社会学」加藤秀俊(著)

まるで日本の花魁や京都の舞妓さんの“こっぽり”と変わらない。

ただ、ヨーロッパで厚底のチョピンがはやった理由は、当時の道路が汚物やごみでいっぱいで、歩きにくかったからだという。

エコロジーが進んでいた江戸時代の日本人には信じられないことだが、汚物を、そのまま道路の捨てていたからだ。

セレンディピティというのはあるもので、須賀敦子「地図のない道」(新潮社)には、

「地図のない道」(新潮文庫)須賀敦子(著)

当時の高級娼婦だったコルティジャーネが、こんな靴を履いていたことが書いてある。

特に、ヴェネツィアでは、アクア・アルタと呼ばれる高潮のためにも発達したと書いてあった。

彼女らの悲しい歴史が描かれているが、後に映画「娼婦ベロニカ(A DESTINY OF HER OWN)」に、

コルティジャーネが主人公で厚底靴も少し出てくる。

ヴェネツィアのチョピン(1600年頃)など見ていると、日本の現代女性たちも、違う風景を楽しみ、自分を違った人格に感じたいと思えば、理解ができるのである。

文句を言う前に一度、厚底靴を履いてみるのも面白いかもしれない。

何ごとにも、ちょっと距離を置いて見ることが、大切だ。

とはいって、簡単ではない。

マルクスは、「ドイツ・イデオロギー」の中で、ドイツ人は、ドイツの文化にどっぷりと浸っていると批判しているが、では、マルクスだけがどうして特権的な仕事ができたのか、ということがある。

「ドイツ・イデオロギー (新編輯版)」(岩波文庫)マルクス/エンゲルス(著)広松渉(編訳)小林昌人(補訳)

エンゲルスは、マルクスを天才としているが、にわかには信じがたい。

「イヌは名詞である」というのは、「メタ言語(後段言語)」というが、なかなか、高見に達することはできないと、凡人は知っておいた方がいいだろう。

メタというのは、ツッコミだ。

エピメニデスのパラドックス(「クレタ人は、みなウソツキだとクレタ人が言った。」)を思い出せばいい。

「メタ言語能力を育てる文法授業—英語科と国語科の連携」秋田喜代美/斎藤兆史/藤江康彦(編)

「言語と行為」J.L.オースティン(著)坂本百大(訳)

「言語行為―言語哲学への試論」(双書プロブレーマタ)ジョン・R. サール(著)坂本百大/土屋俊(訳)

「表現と意味 言語行為論研究」ジョン・R. サール(著)山田友幸(訳)

「孤独の発明 または言語の政治学」三浦雅士(著)

内田樹は、メノンのパラドックスについて、次のように説明している。

「知に働けば蔵が建つ」(文春文庫)内田樹(著)

ソクラテスは、かつて、「「問題を解決する」という言い方は背理である」と言ったことがある。(メノンのパラドクス)

もし、問題を解決できることがわかっているなら、問題は存在しないことになるし、問題を解決できないことがわかっているなら、誰もそれを問題としては意識しないから、やはり問題は存在しないことになる。

多くのパラドクスがそうであるように、このパラドクスも、時間的現象を無時間モデルに適用することによって背理となっている。

時間というファクターを入れると、パラドクスは解消する。

私達が問題を立てて、それに解答するというのは、問題を解決できることが、暗黙裏にはわかっており、明示的にはわかっていないという時間的現象なのである。

確かに、私達は、解答できることがわかっている問題しか取り扱うことができないのだけれども、暗黙裏にわかっていることが、明示的にわかるレベルに移行するまでには、時間がかかるのである。

どんなエリアの研究者でも、この方向に行けば、答えに出会えるという直感に導かれて研究を行う。

この直感が訪れないものは、そもそも、研究を始めるということができない。

鉄道や航空で、うっかりミスと呼ばれる事故がある。

直ぐに、気のゆるみと決めつけられるのだが、実は、こうした事故を、気のゆるみと片づけておいてはなくならないのである。

気のゆるみというものを人間はするものだ、という視点から議論を始めないと、いつかまた、別の人が気のゆるみ事故を起こしてしまう。

産業災害研究の世界には、ハインリヒの法則というものがあり、これは、「同じ人間の起こした同じ種類の330件の災害のうち、300件は無傷で、29件は軽い障害を伴い、1件は重い障害を伴っている」というものだ。

更に、障害を伴うにせよ伴わないにせよ、すべての災害の下には、おそらく数千に達すると思われるだけの不安全行動と不安全状態が存在する。

ハインリッヒの法則で、300の無傷の事故と、29の軽い障害を伴う事故のときに事故の潜在危険を認知できないと、1件の重い障害を伴い事故を起こしてしまうともいえる。

例えば、2003年に、JR北陸線で停車駅を間違うという、うっかりミスが連続した。

実は、この年のダイヤの改正で、それまで停車駅が固定していたのに、列車によって、同じサンダーバードでも、止まる駅がまちまちになったのだ。

乗っている我々でさえ、「ええっ、こんなところに止まるの?」と思える駅で止まるのだから、ベテラン程戸惑うものだ。

飛行機事故は、事故が起きても、パイロットは問責されずに、真実を語ることが要求される。

つまり、起きた事故は仕方がないので、次を防ぐ、という方策なのだ。

あなたの周りにも、うっかりミスは許されない、などと息巻いている人はいないだろうか?

自分が無謬だと思ったとたん、神様になってしまうのだ。

そして、人間は、神様にはなれない。

カーリングは、トリノ五輪以降、日本でも人気が出始めたが、私の記憶が正しければ、ビートルズの映画「ヘルプ!」にも登場していた。

冗談のようなゲームだと思っていたら、きちんとしたルールがあることが分かった。

テレビでゆっくり見て、果たして見ているだけでルールが分かるだろうかと思ったことがある。

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