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【課題帳】境界線を引くとは?

小学校では、既に、夏休みの課題帳を紙からタブレット端末を活用してデジタル化してるんだね。

その様な状況だけど、心配なのは、デジタル化が進むスピードに、人間の理解が追いついていないのが現状なんだよね^^;

浸透したデジタル技術を適切に活用するためにも、デジタルリテラシーの教育が必要になっています。

デジタルリテラシーは、絶えず進化するデジタル技術を活用し、社会や市場環境の変化に対応するための基礎となる素養ですが、それと並行して、情報リテラシー教育も重要です。

情報リテラシー教育の最たる重要性は、正確な情報を判別できることにあります。

他者がどのような情報を発信していようとも、自分は、こう思うと思える意思の強さがあれば、固定観念に振り回されずに生きていけます。

しかしながら、私たちは、一般的な傾向として、認知バイアス等の影響もあり、自分が知っている情報の価値を過大評価する傾向にあると共に、自分が知らない情報の価値を過小評価しています。

例えるなら、

①私が知っていることは、誰でもが当然知らなければならないことである。

②私が知らないことは、知るに値しないことである。

と、物事の判断が、直感やこれまでの経験にもとづく先入観によって、非合理的になっていると意識されなければ、自然に、そう考えてしまいます。

そういうふうに考えてしまうなら、その人の情報リテラシーは低いと判断されます。

情報リテラシーが高いとは、

①自分がどういう情報に優先的な関心を向けているのか。

②どういう情報から組織的に目を逸らしているのか。

の何れかについて、取り合えず意識化できる知性を持っているかどうかです。

また、デジタルデータの各種検索ツールの正体は、身も蓋もない言い方をすれば、知識の無い人に知識を授けるツールではなく、

①知識の豊かな人だけが、より良い知識を更に引き出せるツール。

②知識の乏しい人には、質の良くない知識しか与えないツール。

と言っても過言ではないと考えられます。

また、知識の豊かな者と乏しい者、リテラシーの豊かな者と乏しい者の格差を、拡大再生産するツールになってしまっているとも言い換えられるかもしれません。

そうなる理由のひとつが、私たちは、常に、ある種の情報を選好し、ある種の情報を忌避するといった個人的な基準があるためです。

その基準となっているのは、私たちが、ひとりひとり選び取っている自分にとっての心地よい世界についての物語なんです。

その私の物語(ストーリー)に整合する情報(私の世界)は、良い情報であり、その物語(ストーリー)に馴染まない情報(私の世界)は、悪い情報であると判断しています。

私たちは、どうも客観的事実よりも、主観的願望を優先させているんですね。

世界は、このようなものであって欲しいという欲望は、どうしても、世界は、このようなものであるという認知を、常に圧倒することになるそうです。

それは、人間である以上、仕方が無い事だと考えられます。

但し、自分を含めて人間とは、そういうものであるという認知を行うことはできる筈です。

私の経験した世界には、以下の認識が有るので、

①主観的なバイアスが掛かっていると認識できている

②限定的であるので私の見ているものが世界そのものであると認識できている

その結果、世界の全容を、私は知っているわけではないと言明することができれば、人は人と共存できるのではないでしょうか。

そう、私たちの経験した世界は、常に、限定的であることを知っておくことが、とても重要だと考えています。

この件に関しては、フッサールの他我問題(※1)が参考になると思います。

※1:
他人の心をいかにしてわれわれは知りうるかという哲学的問題。
例えば、友人と赤の交通信号を見る。
そのとき私と友人の赤の感覚は同じだろうか違うだろうか。

情報リテラシーというのは、自分が受信している情報を、常に疑えということではありません。

どのような情報も、紛う方なく、この世界の真正な一部であるとの認識で、一旦、受け取ってみることが大切です。

もしかしたら、有益な知見を含んでいることを知ることになるかもしれないからです(^^)

情報リテラシーとは、それらが、どのような間主観的構造(※2)によって、私の世界経験に関与しているかを知ろうとすることです。

※2:
フッサール現象学の用語で、自我共同体、モナド共同体とも呼ばれる。
彼によれば、私にとって存在するものはすべて、その存在の意味を、私自身の意識領域から汲みとるのであるから、〈我在り〉が私の原初的世界にとっての根源的な志向的根拠である。
それゆえ彼は、哲学的諸学科のうち本来第1の学科は、独我論的な自我論であるとした。
しかしその反面、自然的世界や文化的世界がわれわれ万人に妥当する客観的世界であることも自明である。(出典:世界大百科事典 第2版)

私たちは、ある種の情報の組織的な欠如や歪曲からも、本当は何が起きているのかを推理することができます。

そこで、そのことを理解する目的で、この境界線を課題として取り上げ考えてみたいと思います。



1.大切なのは物語

例えば、本も、音楽も、映画も、大切なのは物語。

物語という存在が重要です。

物語という言葉は、本来、誰かが何かについて語ること、という意味です。

誰かの主観の語られた出来事なのです。

しかし、物という言葉には、具体的な物体や出来事のことだけでなく、霊やあやかしという意味合いも含まれています。

それが個人的な出来事だったはずの物語に不思議な階層を生みだしてくれます。

他愛のない日常が神話につながっていく感覚です。

とても越境的な性格をもっている言葉だと思います。

そんな境界線を、簡単に越えられるものに、とても興味があります。

今いる世界ではない世界が、ずっと自分の傍らに有る感じ、とでもいいましょうか。

そんな不思議な感覚を与えてくれる本や音楽、そして映画には、越境的な性格が含まれているのでしょうね。

紙に書かれた言葉とか。

琴線に触れるメロディとか。

映像化された事象とか。

それらには、呪術的な存在感もあって、そこに面白さを感じています。

どこでもいい。

自分と世界の間に、とりあえず境界線を引いてみる。

例えば、

・清らかなものと穢れたもの

・内部と外部

・善と悪

等の境界線を引いてみる。

この境界線の選定は、本質的に恣意的です。

そこに線が引かれなければならない必然性はなくて、自身の感情の発露の結果として線が引かれるに過ぎない、とても曖昧な境界線です。

けれども、とりあえず境界線を引いたら気分が少しよくなってしまった。

だから、一度やったら、その悦楽にひたり止められなくなった。

線を引くのは、人間の本態的傾向だそうです。

その行為について、クロード・レヴィ=ストロースは、はっきり、こう断言していました。

「どのようなものであれ、分類は分類の欠如よりも何らかの固有の効力を持っている」(「野生の思考」より)

「野生の思考」クロード・レヴィ=ストロース(著)大橋保夫(訳)

どのようなデタラメな分類であってもカオスよりはましである。

人間はそう考えるそうです。

とりあえず分類してみる。

線を引きさえすれば、そこに秩序が立ち上がるからと考えるから「昼と夜」とか「生と死」とか「男と女」とかいう分類についても同じなんですね。

それらは、どれも恣意的な境界線に過ぎないことになります。

実際の世界は、すべてアナログな連続体であって、どこにもデジタルな境界線など存在しません。

ここから先が昼で、ここから先が夜だというような截然たる境界線は、自然界には存在していないんです。

それなのに、人間は、境界線を引くことを止めないから、物事の本質から遠ざかって行き、原因を探る道が判らなく(解らなく)なってしまうのだと考えられます。

2.わかる

ものをわかるということとは、わかる、と、わからない、の境界に達するということかもしれませんね。

そこまで行くと、わかるとは何なのかがわかるんだけど、なかなかそこまで到達できない場合があります。

分かる・分からないの境界も面白いと思うのですが、正常・異常の境界は、もっと面白いのかもしれません。

結局のところ、紙一重なんですよね。

私はとても正常です、と言っている人が、別の人から見れば、とてつもない異常に見えたりするわけで、そう見ている人も、また、異常に思われていることも少なくないのではないかと思います。

境界とは、そもそも、微妙なのかもしれませんね。

だから、土地の境界線や国や海の境界線をめぐって、争いも起こったりするのかなって気がします。

ただ、分かる・分からないは、自分の内だけの問題なので、自分で線引きをすればいいと思うんです。

その線引きをしたところを、他人に対しては見栄を張ってごまかしたりするから、後で自分が恥をかくことになってしまいます。

見栄を張ったところまで、さらに頑張れる人なら問題はないんですけどね(^^;

そして、その先は、まだ分からないと言えればいい。

そうなれば、分かってる人だとなるわけです。

何かを理解するときには、とにかく、境界まで行ってみることがポイントですね(^^)

3.バウンダリー

境界とは、自分と他人とを分ける境目のこと。

どんなに親しい間柄でも、境界は必要です。

親友どうしでも好みが違うことはあります。

そして、これらの境界は人によって異なります。

心地よい境界線を引ける様になれると、

①安心感

②愛されている実感

③心の平穏

を得られ、自分が尊重されていると感じられます。

境界線は、他者が自分にどう関わるか、自分が他者にどう関わるかを示す指標となります。

でも、そこで終わりにするのではなくて、境界線を理解することが大切です。

自分以外の他者やモノとの境界線は、自分とは、別のものであるということを成り立たせたまま活動するために必要な防護服のようなものです。

私たちは、その様に理解することで、周囲からの影響に左右されずに、ある程度、安定して他者や未知の事柄とうまく関わっていくことができます。

例えば、友達関係であれば、自分がしてもらって嬉しかったことと、友達がしてもらって嬉しいことは、必ずしもイコールではありません。

また、辛いことがあったとき、そっとしておいてほしいという人もいるでしょうし、話を聞くより、一緒にカラオケに行って騒いでほしいという人もいるでしょう。

他人の気持ちと自分の気持ちが違うという事実は、多くの人が理解していることのはずなのですが、それがわからなくなってしまうことは多いのではないでしょうか。

さて、自分と他人の境界線のことをバウンダリーといいます。

バウンダリーには、さまざまな種類があります。

身体の境界。

パーソナルスペースの境界(不快だと感じる人との距離)。

持ち物の境界(誰の持ち物か)。

責任の境界。

思考の境界、等々。

そして、これらの境界は人によって異なります。

バウンダリーが緩い人は、このように境界に侵入されてもあまり不快に思わず、反対に人の境界に侵入してしまいやすい傾向があります。

反対にバウンダリーが保てている人は、境界に侵入されることに対してきちんと対応し、人の境界を侵入しにくい傾向があります。

バウンダリーは個人によっても異なりますが、相手との親密性によっても異なります。

そして、対人援助職において、このバウンダリーを意識することは非常に重要なことになります。

バウンダリーが緩むと他者であるという認識が緩むことになります。

そのため相手の権利を無意識のうちに侵害してしまう危険性もあるのです。

バウンダリーをしっかり保つためには、自分の気持ちをはっきりと表出することと、相手の気持ちを尊重することが大切です。

人に気を使いすぎてしんどい。

人が思い通りにならなくて腹が立つ。

人との距離感が近いと言われる。

等々という方々は、バウンダリーが緩んでいる可能性があります。

自分と他人の境界線を意識することで生きやすくなり、他者との関係も良好に築くことができるようになります。

支援者になるうえでも重要な概念ですので、以下の項目も含めて、是非、知っておいてください。

【境界線の持つ意味】
・必要以上に頑張りすぎないための安全策となる
・セルフケアのよい練習になる
・人間関係における役割を明確にしてくれる
・人間関係において、許される行為と許されない行為をはっきり示す
・人間関係において、何を期待すべきかを知る基準となる
・自分の要求を満たし続けるために、他者に頼りやすくなる
・自分の要求を主張しやすくなる
・心地よい人間関係を築きやすくなる
・問題を明確にする手段となる
・安心感を得られる

【もろい境界線の行動パターン】
・情報を過剰に共有する
・共依存
・巻き込まれやすい(自分と他者との感情的な区別がつけづらい)
・断れない
・お人よし
・他者の意見に左右されやすい
・拒絶されるのがとてつもなく怖い
・不当な扱いを受け入れがち

【かたくなな境界線の行動パターン】
・他人と物事を共有しない
・壁を作る
・傷つくのを避ける
・人付き合いが希薄
・他人に高すぎる期待を抱く
・厳しいルールを常に守る

【心地よい境界線の行動パターン】
・自分自身の価値を明確に示す
・自分の考えを尊重する
・相手と必要に応じて共有する
・信頼を置いた人からほどよく影響を受ける
・心苦しく思わずに断れる
・他人から頼みを断られても、被害者意識を抱かずに受け入れられる

【参考図書】
「心の境界線 穏やかな自己主張で自分らしく生きるトレーニング: 心の平穏と、充実した人生を送るためのコミュニケーションメソッド」ネドラ・グローバー・タワブ(著)山内めぐみ(翻)

【おまけ】
amazarashi「境界線」

佐野元春&ザ・コヨーテ・バンド「境界線」


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