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【備忘録】僕らは言葉でできている Vol.5

僕らは毎日、笑う。

泣く。

考える。

喧嘩する。

謝る。

愛を囁く。

人生が、ラブストーリーでありますように。

僕らは言葉でできている。

http://bokukoto.com/ 」より引用

♪貴方の言葉が 貴方の記憶が
わずかな世界を満たして
映画の終わりに数分あるような
心地よい今日だ

手に取る運命は 手放す運命が
増えていくだけ
そんな小さな綻びに 気づいていたのに

心が身体を見落とすまで 
明日のない世界へ行くまで
失うひとつを数えること

それを愛と呼ぶだけ

愛と呼ぶだけ

貴方の笑顔も瞬きひとつで
見えなくなるくらい未熟だ
それならもとより愛しい仕草を
知らないままがいいなあ

過ぎ去る生涯を 変わらぬ後悔を
命というから
どうしようもないほどに 貴方に
惹かれているのだろう

この手を伸ばせど届かぬ向こう
夢を見るより遠くまで
去り行く貴方を求めたこと

それを愛と呼ぶだけ

愛と呼ぶだけ♪

経験とはなにか新しいことを発見し、学び、能力の成長と蓄積をもたらすプロセスである。
予期しなかったものを獲得した時に得るもの──それが経験だ。
(Books&Apps)

「何かをこなしてきた」=「経験」というのは、間違いであり、その体験を「経験」と言えるのは、そこから学びが得られている場合だけである。
(Books&Apps)

採用では 「経験そのもの」よりも「経験を通じて、どのような学びを得たか」を調べたほうが、良い人が採用できる。
(Books&Apps)

人を見るには「何を語るか」ではなく、「どのような行動を取るか」を見れば良い。
(Books&Apps)

自分で決めてる感覚なら、モチベーションも何もない。
もし、モチベーションが気になるようなら、それは自己管理できているとはいえない。
モチベーションの減退は、疲れか、やらされ感だから。
(Books&Apps)

「自己管理には、自らの成果についての情報が不可欠である」
(ドラッカー)

「自己管理」ってのは、中身は3つ。
考え方、データ、そして業務設計から成る。
(Books&Apps)

基本的に「自己管理」は自分の仕事の進め方を自分で作らないといけない。
仕事を細分化して、順番を定め、トライアル・アンド・エラーを繰り返して自分で仕事を作っていく。
つまり、業務設計が自分でできる人しか、自己管理はできない。
(Books&Apps)

自己管理ができる人の条件は、
1.目標を自分で作ることができる
2.成果に関するデータを見て、自分の行動を修正できる
3.業務設計ができる
の3点となる。
(Books&Apps)

人は「この場所で、自分にしかできないことがある」と思うと、やる気が出る。
(Books&Apps)

能力開発の4つのステップ「知る、わかる、できる、教える」のしくみを理解すると、人に何かを教えるとき、一番成長できるのは教える本人。
だから、知識や技能は、自分一人に閉じずに、どんどん人に教えてあげるのがよい。
(Books&Apps)

映画「阪急電車 -片道15分の奇跡-」
(冒頭)翔子によるナレーション
人はそれぞれ皆いろんなやりきれない気持ちを抱えて生きている。
死ぬほどつらいわけではないけれどもどうにもならない思いを抱えて生きている。
そして、その気持ちは誰にも言えないのだ。
誰かに言っても仕方のない事だとあきらめるしかない。
皆、そう思っている。
自分自身で解決するしかないんだ。
この世界にはこんなにもたくさん人がいるのに、おなじ場所でおなじ時間を一緒に生きている人がこんなにもいるのにそれは何の意味も持たない。
名前も知らない人達は私の人生に何の影響ももたらさないし、私の人生も誰にも何の影響も与えない。
世界なんてそうやって成り立っているんだ、そう思っていた。
でも・・・・・・

愛は動詞。
「愛する」という行動が先にあって、その結果、「好き」とか「愛している」という感情が生まれると考えています。
つまり、「誰かのことを愛そうとする」もっといえば、「誰かのことを愛そうと努力する」ことこそが愛なのだ、と。

大人というのは常にある程度の裏表を作って生きてゆくものです。
嘘をついてはいけない、
いつもありのままの自分でいなければならないといまの日本人は考えるんですってね。
「みんないい子」だという誤った前提のもと、戦後の教育は行われてきたからです。
しかし、なあなあで生きてゆけるほど世の中は甘くない。
人は誰しも神と悪魔の中間で生きているんです。
純粋な善人も、純粋な悪人もこの世にはいません。
むしろ、人間の悪い面を理解し、それとうまく付き合う術を身につけてゆくことこそが、自立するということなのです。
(曽野綾子)

愛を教えてくれた、事たち・・・・・・
好きな人が嬉しいのが、わたしも嬉しい。
普段は自分が満たされることばかり考えているようなわたしが、他人に自分よりも美味しい思いをして欲しい、幸せであって欲しい、という気持ちを持てることに少し驚く。
好きでたまらないってこういうことなのか、と。

家族の問題は、どこか自分と地続きに思えていた親の存在に「他者」の輪郭を与えてくれた。
父と母はわたしの親である前に、一人の不完全な人間、他者なのだと。
そうしてはじめて、わたしは人を愛しく思うとはどんな感情なのか、少しだけ知れた気がする。
他者になることで、はじめて。

好きでしょうがないとか愛するとかいう気持ちは、その人にだったら自分の大切なもの全てあげたっていいという、自己犠牲がつきまとうものなんじゃないかと幼心には捉えていた。
けれど、今それは少し違うと思う。
自分がどう関わっているかは問題ではなく、相手が幸せであることそのものが、自分にとっての幸せだと感じられることが、きっと大事。
でも、そう思う前提には、自分の延長ではなく他者として相手を認識して向き合うことが必要そうだ。

人はみんな、どの感情も、相反する感情を持っていると思う。
だから、人は矛盾の中で生きている。
みんな、それは無意識に認識していて、認識して苦しむ人、臨機応変な人、色々いると思うんだけど、その矛盾という存在は知っているのに、自分の矛盾には気付いていない・・・
気付かないんじゃなくて、気付かなくてイイような感情コントロールの仕組みを作っている。

それは文字にしてみると当たり前のようなのに、なかなか難しい。
どんなに尊重し合えていると思えていた相手にだって、いつの間に掛け違えたのか「どうしてわたしが幸せと思うことをしてくれないの?」と、自分のコントロール可能なもののように期待してしまうことだって往往にしてある。

どんな状態なら愛しているのか、愛されているのか、いつもわからなくなる。
でも、あなたがあなたを、好きでいられる人であれば、それで十分だと思います。

幸福な戦士
彼は自分の望むところを知り
一つの目標を信じて疑わない
富や名誉や世俗の地位を求めて
膝を屈し身をかがめようとはしない
これらの徳は
おのずと彼にもたらされる
まるで恵みの雨が頭上に降りそそぐように
(ワーズワース)

誰が何と言おうと、俺は絶対これになるんだというものを夢と呼ぶ。
(レヴィー・クルピ)

生きていく上で、僕は3つのキーワードをいつも大事にしています。
それは「まあいいか、それがどうした、人それぞれ」です。
この3つの言葉を思い描いていれば、たいていのことはやり過ごすことができます。
(弘兼憲史)

チャンスに出合わない人は1人もいない。
それをチャンスにできなかっただけである。

大人物と小人物との差異は、一度意を決すれば、死ぬまでやるという覚悟があるかないかにある。
(フリードリヒ・シェリング)

はっきりした目標があるからこそ、厳しい練習や試練にも耐えていける。
目標達成までの準備をしているんだという意識も芽生える。

「マネをする」
これはあまりいい意味では使われないですが、実は、人が最も早く成長するために有効な手段。

「学ぶ」の語源は「真似ぶ」。
憧れの人を目標にして、徹底的にマネしてみよう。

野心的な夢を実現させたいなら、とにかく1つのことに徹底的に集中することさ。
(スティーブ・ジョブズ)

「自分はこの仕事で生きていくしかない」と覚悟を決めたとき、その仕事こそが天職になるんだ。

ゆうゆうと焦らずに歩む者にとって長すぎる道はない。
辛抱強く準備する者にとって遠すぎる利益はない。
(ラ・ブリュイエール)

苦しいこともあるだろう
云いたいこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣きたいこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である
(山本五十六)

怒らないでいられる秘訣
相手に期待しない。
物事に執着しない。
不快な情報にはできるだけ触れない。
(ネットの言葉)

武道における「隙」というのは文字通り空間的・時間的な「隙」のことであり、また「心の隙」のことである。
身体の隙も心の隙も、居着きによってもたらされる。
身体の一部の過緊張は他のどこかの部位の過弛緩をもたらし、思念の一点への居着きも隙を作る。
居着くというのは、点としての入力に点として「反応」することであり、これは自他を含む場全体を平らかに「観察」することを妨げる。
観察とは時間の流れ、場の布置におけるおのれの位置を鳥瞰的に把持することである。
これは武道において最も重要な能力である。
どれほど凄まじい攻撃であっても、その一瞬前にその場を通り過ぎていれば、その一寸遠くに身をかわしていれば、人を害することができない。
それゆえ、武道では「機」と「座」を重く見る。
「機」とは「しかるべきとき」のことであり、「座」とは「しかるべき場所」のことである。
その時以外にありえないような必然的な時に、その場以外にはありえない必然的な場において、果たすべきことを果す。
それが兵法修業のめざすところである。
宗矩は機と座についてこう書いている。
「一座の人の交りも、機を見る心、皆兵法也。機を見ざればあるまじき座に永く居て、故なきとがをかふゞり、人の機を見ずしてものを云ひ、口論をしいだして、身を果す事、皆機を見ると見ざるにかゝれり。座敷に諸道具をつらぬるも、其の所々のよろしきにつかふまつる事、是も其の座を見る事、兵法の心なきにあらず。」(柳生宗矩、前掲書、25頁)
「機を見ず」して、「あるまじき座」にいることによって人はしばしば身を滅する。
自分がいるべき場にいるのかを配慮するのが「機を見る」であり、必要なものを然るべきところに配置することを「座を見る」と言う。
これもまた「兵法の心」なしにはありえない。
「機を見る」「座を見る」これは武道や能楽のみならず人事百般に通じる心得である。

「千年本」・・・・・・
千年以上読み継がれた本。
名著、とよぶ域を超えた本。
意識はしていないが、この本のどれかに誰もが必ず影響を受けている。
世界の思想の底流をなす本。
「百年本」・・・
百年単位で読み継がれた、あるいは読み継がれそうな本。
いわゆる「古典」多くの思想や技術に影響を与えた人類の至宝。
「十年本」・・・
これから歴史の評価に耐えられるかどうか、試されている本。
「本当に良い本」、「出会ってよかった」と同時代の多くの人が思う良本。
「一年本」・・・
いわゆる「ベストセラー」にはなったが、その後決して読み返されない本。
「ゴミ本」・・・
そのままゴミ箱に直行する本。

知的であるかどうかは、五つの態度でわかる。
一つ目は、異なる意見に対する態度
知的な人は異なる意見を尊重するが、そうでない人は異なる意見を「自分への攻撃」とみなす
二つ目は、自分の知らないことに対する態度
知的な人は、わからないことがあることを喜び、怖れない。
また、それについて学ぼうする。
そうでない人はわからないことがあることを恥だと思う。
その結果、それを隠し学ばない
三つ目は、人に物を教えるときの態度
知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、と思っている。
そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、と思っている
四つ目は、知識に関する態度
知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。
そうでない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしない上、役に立たない知識を蔑視する
五つ目は、人を批判するときの態度
知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。
そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。

知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだ、と思う。

私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る

リーダーシップとは「私がこれについては最も責任がある」という当事者意識のこと。

何れにせよ「時間がありませんでした」という言葉は、言い訳として使っていけないし、使えば無能と思われても仕方がない。

「会社の仕組みを作るには、経験と理屈の往復が必要」

情報共有の一番の壁は心の壁です。
「あの人となんかわざわざ一緒に仕事したくない」と思うことが相互に発生していくと、どんな仕組みを入れても、どんないい事業をやろうと思っても、うまくいかないもんだと思っています。
月一度に飯でも食いながら、酒を飲みながら「こうやっていこうぜ」「色々と大変だけど、ようやく次が見えてきたよね」「こないだ実はこんな人とあってさ」といいながら、話す時間を持つことが、情報共有の礎を醸成すると思います。

時間(「考える言葉」から引用)
「光陰矢の如し」という格言は、小さい頃からの教訓である。
何度となく耳にし、その都度頷いては納得し、心を引き締めていたような気がする。
だが、その経験を活かし、その後の日々において、充実した"時間"の使い方を常にやり続けてきたかというと、自信がない。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」って、ことだろう。
"時間"の浪費癖ってやつは、いったん身についてしまうと始末に負えない、厄介なものである・・・。
しかし、この格言の価値を真に理解し、人生の早い時期に、自分自身の信念とすることができたら、充実した人生が約束されるに相違ない。
「人生とは、"時間"との戦いである」という言葉がある。
"時間"は、その人の向き合い方によって、友にも敵にもなる。
"時間"を良き協力者として頼るにはどうしたらいいのか?
小生の場合、"時間"との向き合い方について改めて体系的に学ばせてもらったのは、P・F・ドラッカーの「自己管理による目標管理」からである。
成果をあげる人たちは、「"時間"が最大の制約であり、最も希少な資源であること」を知っている。
その"時間"を良き友とするためには何をなすべきか、先ずは「汝の時間を知れ!」という。
"時間"がどのように使われているのか?
時間をマネジメントすることの基本は、「"時間"を記録し、整理し、まとめる」という三段階のプロセスであり、極めてシンプルな考え方である。
① "時間"を記録し、"時間"の使い方を診断する。(記録と分類)
② 仕事を整理する。(廃棄、任せる)
③ 空いた"時間"をまとめる(時間のマトリックス、優先順位)
以上のように、"時間"をマネジメントすることは、仕事の成果にとって極めて重要である。
さらに加えて重要なことは、「人の"時間"を無駄にしていないか?」を、つねに心がけておく必要がある。
改めて、"時間"との戦いが気になるところである。
まさに、「光陰矢の如し」である。
月日がたつのはあっという間である。
だからこそ、時間を大事にしたいと思う。

仕組み(「考える言葉」から引用)
"仕組み"とは、物事の組み立て、構造、企てをいう。
何かを成し遂げようとするとき、モチベーション(ヤル気)の持続性が要求される。
しかし、モチベーションというのは初動が一番高く、時間が経つにつれて逓減していく傾向がある。
余程、意志の強い人であれば、別だと思うが・・・・・。
つまり、属人性に左右されやすいのである。
そこで、成果が出るまでやり続けることができる"仕組み"をつくることを提案したい。
多くの優れたビジネスモデルは、儲かる"仕組み"の提案であり、その持続性が一段と優れているのである。
例えば、マネジメントでいうと「仮説(P)~実践(D)~検証(S)」の経営サイクルは「先見経営・先行管理」のベースをつくるための唯一素晴らしい"仕組み"だと考えている。
ただ、この"仕組み"を使いこなし、自家薬籠中のものにするためには、それぞれの組織に馴染むように各自の創意工夫が必要となる。
「仮説」においては、その実行可能性の検証を見極める"仕組み"が必要となる。次の「実践」においては、実行のプロセスをきちんと記録し、検証できる状態を確保できるような"仕組み"がいる。
そして、「検証」においてはフィードバック機能が働く"仕組み"が求められるという風に、である。
さらに、これら経営サイクルの"仕組み"を運用するプロセスに「目標管理システム」を導入すれば、主体的人材の育成が可能となる。(但し、これもその運用に創意工夫が求められる)
「未来会計」という経営者の意思決定をサポートする会計の体系は、まさにそれらの"仕組み"を構築するためのサービス体系だといえる。
モチベーションは属人的な要素が強いという問題があったが、"仕組み"も課題がある。
それは、組織として"仕組み"を構築し、運用する以上、その"仕組み"を共有する人たちとの人間関係・コミュニケーションの良否に影響を受けざるを得なくなる。
つまり、組織内部の関係性をいかに良好にするか・・・。
「協働行為としての体系である」という組織の本質を、どう意識づけするか。
一つには、組織における目的の共有(理念の浸透)を徹底できるかどうか。
さらに、その目的に対し、個々人の貢献意欲をいかにして引き出せるかどうか。
"仕組み"とは、何かを成し遂げるための手段である。
それゆえに、組織リーダーは「何のために、何を成し遂げようとしているのか」という目的を、熱く語り続ける必要がある。それによって、"仕組み"は絶大な効用をもたらすことになる。

守破離(「考える言葉」から引用)
人が道を究める、上達の極意として"守破離"という3つのステップがあるといわれている。
ネットで調べてみると、「守り尽して、破るとも、離るるとも、本ぞ忘るな」という千利休の言葉が語源だという。
また、室町時代の世阿弥の「風姿花伝」に出てくる能を究める極意「序破急」によるという説もあるそうだ。
"守"とは、基本を忠実に身につける段階をいう。
素晴らしい師匠に出逢い、その流儀を完全にマスターできれば最高である。
その時、大切なことは謙虚と素直さ。
分かったふりをせず、すぐ師匠に素直に聞いてみることである。
有名な同業者が、「うちの事務所は"ハイ"と"イエス"しかない」と話していたが、この段階での学ぶ姿勢をいっているのだと思う。
白紙の状態で居れるか・・・。
次に"破"とは、仕事に創意工夫を重ね、自分流をつくりあげていく段階である。
ここで大切なことは、傲慢や慢心に陥らないことである。
税理士として駈け出しの頃である。
顧問先の経営にとって良かれと思い、自説を滔々と述べていると、「それって、あんたの上司に相談した結果なのか?」と問われ、そうじゃないと答えたら、「良く、上司に相談してくれ」と一言・・・。
人は、内容ではなく、誰がいったのかで、安心しているのである。
虎の威を借りる重要性を知り、「うちの所長が・・・」と前置きしていうと聞き入ってくれたのである。
そのうち、「あんた自身はどう思う?」と聞かれるようになったことを覚えている。
自分流が認められて、はじめて"破"である。
そして"離"とは、師匠から離れ、自分流を世に問うときであろう。
後継者でいうと、引き継いだ会社の抜本革新を断行し、第二創業を始めるときである。
先代から継承した事業を、次元を変えて成長させていくことが問われる。
この時に大切なことは、「不易流行」の見極めである。
そして、時流を捉えて、自らの強みをどう生かしていくかであろう。
"守破離"は、上達の極意だという。
3つのステップ(守~破~離)を踏みながら、道を究めていくのであるが、私流にいうと逆算したらどうだろう。
つまり、"離"の構想を先にイメージしておく。
来るべき時のあるべき姿(離)を描き、現状との差を捉える。
その差を埋めるために何をなすべきか(守と破)を考える。
未来からの逆算である。

行動(「考える言葉」から引用)
「人間は一本の葦であり、自然のうちでもっとも弱いものにすぎない。しかし、それは考える葦である」(『パンセ』パスカル著)。
あまりにも有名な、パスカル(1623-1662)の言葉である。
宇宙という広大無辺な自然の中で、ほんの一点にすぎない存在・・・。
だが人間は思考によって、宇宙を包み込める存在でもある。
創業の当初、経営者に参加して頂いて、『葦の会』という勉強会を主催していたことを思い出す。
経営者は考える人であり、つねに考え抜いて経営の舵取りをすべきであるという趣旨であったと思うが・・・。
また、"考える言葉"シリーズも、その流れから生まれたネーミングである。
思考と"行動"について次のような話をしたことを反芻している。
「私たちは、つねに思考して、"行動"することを旨としている。しかし昔から言行一致あるいは知行合一の大切さが繰り返し言われているように、思考と"行動"を合致させることはそれほど難しい・・・。そんなとき、どうすればいいのだろうか?」
何故か?考えるに、私たちは自らの思考を思うように自己管理できないのではないか。
「こうしようと決めた矢先に、他にもっといいやり方が・・・」と迷いが生じ、望むように考えることができないのである。
人間は、また感情の生き物である。
喜怒哀楽という感情は、思考ではコントロールできないものである。
哀しいときに、なぜ哀しいのか?
考えても、哀しさから抜け出すことはできない・・・。
気分が落ち込んだ時に、いろいろ考えても堂々巡りをするだけで解決の糸口さえ見いだせない時がある。
世にいう優れた経営者って、思考と"行動"のスイッチの切り替えがうまい人ではないかと、ふと思う。
松下幸之助さんの「やってみなはれ!」という言葉は有名である。
いろんな解釈はあると思うが、要するに"行動"には必ず結果が伴う。
やってみて初めて分かることだってたくさんあるという事だろう・・・。
それに、思考と違って、"行動"は一歩踏み出せば思い通りになるものである。
チェンジ・オブ・エアという言葉があるが、海外に出ると開放的な気分になって、日常のしがらみがスッーと消えてしまい、大胆な発想が浮かび、いくら考えてもまとまらなかったことが見事に整理できた経験って、誰にでもあると思う。
先送りするぐらいだったら、まず"行動"をしてみよう!
"行動"すれば、必ず結果が出る。
そこからまた思考してもいいのではないだろうか。

体験(「考える言葉」から引用)
私たち人間は、いろんな"体験"を積み重ねながら成長する。
"体験"は、その意味において、成長に欠かせないものである。
だが、"体験"がそのままその人の成長へつながるとは思えない。
なぜなら、多くの"体験"を重ねたからと言って、他の人よりも成長できているとは言えないし、同じ場にいて同じ"体験"をしていながら、その"体験"を活かして成長する人もいればそうでない人もいるからだ。
では、"体験"を自らの成長につなげる人とそうでない人との差は、何から生まれるのであろうか?
一言でいうと、その"体験"に対して、深く検証できているかどうかである。
いくら"体験"をしても、その後に深く思考することをしなければ消化不良を起こすだけで、血肉にはならない・・・。
つまり、その人の価値観の形成に何ら役に立っていないのである。
企業で行う目標管理も同じである。
「あるべき姿」を描き、「現状」との差を捉え、その差を埋めるために何をなすべきか、目標を設定する。
つまり、「仮説(Plan)~実践(Do)~検証(See)」の経営サイクルを導入したとしても、うまく機能しているところもあれば、そうでないところもある。
やはり、"体験"のあとの検証が拙いのである。
どんなに時間をかけて立派な経営計画を立てたとしても、その仮説の実行可能性の検証がなされてない限り、実践でつまずく。
仮に実践ができたとしても、そのプロセスの記録がなく、検証できなければ、次の仮説へのフィードバックができず、経営サイクルが機能しなくなるのである。
つまり、"体験"から何も学べず、何も身につかないのである。
まして今や、過去と未来が繋がっていない時代である。
単に、テクニカル的な成功"体験"だと、未来の失敗の原因となる。
むしろ、捨てなければならない・・・。
ここでいう、捨てるとは「次元を変えて活かす」という意味で捉えてみたい。
つまり、"体験"の枝葉末節的な要素(ハウツー的な知識や経験のレベル)ではなく、本質的なものの見方や考え方といった要素(自己の人生の目的そのものに影響を与えるような思考のレベル)で捉えられるような思考である。
自らの"体験"を通して、自らに問うべきは「この"体験"は、自らの価値観にどのような変化をもたらすのであろうか?」である。
価値観とは、自分自身の生き様である。
それがまわりの人々の生き方にどんな影響を与えてきたのだろうか?
それは、"体験"によって進化したのだろうか・・・?

人間として(「考える言葉」から引用)
最近読んだ「超訳 ニーチェの言葉」(白取春彦 訳)の一節に、次のような言葉があった。
「自分をたいしたことがない人間だなんて思ってはならない。それは、自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうようなことだからだ。そうではなく、最初に自分を尊敬することから始めよう。まだ何もしていない自分を、まだ実績のない自分を、"人間として"尊敬するんだ・・・」
これは、勇気づけられる言葉である。
肝は、"人間として"の自分である・・・。
人間は有史以来、集団的創造の歴史をつくってきた生き物である。その一員であるという自覚さえあれば、尊敬に値するという。
"人間として"の自分を自覚し、尊敬すると、どうなのるか?
ニーチェ曰く、「自分を尊敬すれば、悪いことなんてできなくなる。
"人間として"軽蔑されるような行為をしなくなるものだ」と・・・。
そういう風に価値観が変わると、生き方が変わり、そして、自分の可能性を信じたくなり、理想の自分像を明確にイメージできるようになる。
それが他の人も見習いたくなるほどに、自己成長を促してくれるという。
"人間として"の自分を自覚し、尊敬するということは、統合の思考(「全体は部分であり、部分は全体である」という考え方)が根底にあり、理に適っている。ゆえに、力強いのである。
その真逆の思考が、分離思考・・・。
「他人を信じてはいけない、裏切られるだけだ。信じられるのは自分だけ・・・」ということを、口にする人がいるが自己矛盾に気づいていないのだ。
自分が人間であるように、他人も同じ人間である。
他人を信じられないということは、同じ人間である自分自身を否定するのと同じ・・・。
本来、分けることができない自分と他人を分けて考えようとする分離思考から生じる限界なのだ。
現に、そんな人ほど、自分との大事な約束を破ってしまう人が多い。
ニーチェの言葉には、他にも"人間としての"本質を語っている言葉がたくさんある。
「自分をだめだと思ったり人に対して憎しみを覚えたりしたときは、疲れている証拠だ。そんなときは、たっぷりと眠るのが一番だ」という。
これも、救われる言葉の一つである。
お釈迦さまは、人間はすべて十界を互具しているという。
ゆえに、誰の心にも仏界がある。
"人間として"の自分を尊敬することから始めてみたいと考える。

大局観(「考える言葉」から引用)
「忙」とは「心を亡くす」と書く。
目先の事に追われ、日々をバタバタと忙しくしている人の特徴は、一つに"大局観"の欠如である。
つまり、本来の目的(根本)を見失って、枝葉末節的なことに振り回されていることが多い。
企業の掲げる理念やビジョンこそが、その組織の存在意義であり、「何のために」という目的を考えるときの原点である。
また、経営者にとって大切な"大局観"は、それをベースに培われるものだと考える。
"大局観"というと、安岡正篤氏の思考の三原則を思い出す。
第一は、目先にとらわれず、"長い目"で見る。
第二は、物事の一面だけを見ないで、"多面的・全面的"に観察する。
第三は、枝葉末節にこだわることなく、"根本的"に考察する。
経営者など上に立つ人にとって、これは心得ておくべき大切な考え方だと思う。
これらは、「わが社をどんな会社にしたいのか(理念・目的・ビジョン)、社会にどう役立ちたいのか(使命観)、日々の経営判断において大切にしている物差しは何か(価値観)」等々、ものの考え方のベースとなる。
市場のコモディティ化が叫ばれている今日において、企業の独自性を発揮させる唯一の手段は、理念経営の確立だと言われている。
確かに、同感である。
しかし、理念をつくって、壁に掲げているけれど、形骸化している企業が多い。
つまり、それを社内外に浸透させるまで、徹底されていないのである。
今回の後継者塾は、「理念のもつ効用とは何か?また、理念を浸透させるために何をなすべきか?」などを、徹底してグループ討議した。
先ず、後継者にとって必要なことは、自社の掲げる理念という大義(錦の御旗)に対し、熱意と信念を持ち得ているかどうかである。
そして、"大局観"を持って、その実現のための方向性を指し示し、周囲を奮い立たせるようなリーダーシップとコミュニケーションを自家薬籠中の物にすることである。

誠実(「考える言葉」から引用)
「人に対して"誠実"であるか」・・・。
これは確か、安岡正篤先生の『人生の大則』という本に紹介されていた「大和的生活法」(=日常的な生活における基本となる考え方と過ごし方)の一つとして示唆された内容であったと思う。
人に対して思いやりがなく、不誠実な人間は世間から信用されない。
つまり、「あいつはちゃらんぽらんだ」となると、どんなに能力があっても相手にされなくなってしまうのだ。
ピーター・F・ドラッカーは、真摯さ(=integrity of character)という言葉で「経営者の条件」として掲げ、"誠実"であることの重要性を次のように述べている。
「人間性と真摯さは、それ自体では何事もなしえない。しかしそれらの欠如はほかのあらゆるもの(仕事上の能力や強みなど)を破壊する」と・・・。
つまり、その人間の人格の統合、価値観に関わることであると捉えているのである。
では、"誠実"とは何をいうのか?
少し、考えてみたい。
"誠実"とは、「私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること」「いつわりなくまめやかなこと」とある。
無私、真心、真摯、律儀、忠実、至誠、篤実などが類似語として挙げられる。
もう少し、具体的に"誠実"な人の特徴を考えてみよう。
① 正直である、うそをつかない。
② 約束を必ず守る。
③ 言行一致で一本筋が通っており、裏表がない。
④ 面倒見が良く、打算がない。
⑤ 間違いに対して、素直に謝罪する。(言い訳をしない)
⑥ 結果に対して責任をとる。
⑦ 他人の心情を察して、親身に行動できる。
⑧ 仕事に対して真面目に取り組む。
⑨ 美辞麗句、調子のいい言葉を使わない。
⑩ 人を見て態度を変えない。
「自分自身と人に対して、いつも"誠実"であれ!」(ニーチェ)という言葉があるように、"誠実"とは自分自身に対しても問われることである。
自分が大事にしている"誠実"とは何か?
自問自答してみよう!

チャンス(「考える言葉」から引用)
「"チャンス"の女神に後ろ髪はない」という西洋の格言がある。
"チャンス"が来たときに、それを"チャンス"だと思わないと、通り過ぎてから気づいても手遅れで、後悔しか残らない・・・。
良く、耳にする格言の一つである。
確かに、事業を大きく成功させている人たちは、ビジネスモデルの独自性も然ることながら、時流をしっかと捉えている。
千本倖生氏も、『挑戦する経営』(経済社)という著書で、次のように述べている。
『どんなビジネスにも「今が参入のタイミングだ」というポイントが必ずある。開いたと思ったらすぐに閉じてしまうこの窓を決して逃さないことだ』
つまり、優柔不断だと"チャンス"を逃してしまうということである。
確かに、チャンスに強い人は、いつもチャンスをつかんでいるし、下手な人は、いつも逃してしまい、後悔をしている。
では、その差はどこで生じるのであろうか?
少し、考えてみよう。
(1) 「人生の目的」をもって生きている
「やる」と決めていることがあるので、いざ"チャンス"が目の前にくると、すぐに飛びついて行動できるようになっている。
また、価値ある「人生の目的」が"チャンス"を引き寄せているともいえよう。
(2) チャレンジ・ゾーンに身を置いている
"チャンス"を掴む人は、つねにチャレンジ・ゾーンに身を置いているので決断が早く、すぐに行動に移れる。
一方、決断の遅い人は、慣れ親しんだ快適ゾーンにどっぷり浸かっているので、"チャンス"を見逃してしまう傾向がある。
(3) 「捨てる」勇気をもっている
一つの可能性に賭けるということは、ほかの可能性を「捨てる」ということでもある。
その勇気を問われることがある。選択の決断である・・・。
変化の激しい今日、過去の成功体験にしがみついていると、未来の失敗の要因になってしまうことだって起こり得る環境である。
「機を見るに敏」という言葉がある。仕事においても、「これは"チャンス"だ!」と思ったら、つかまなければならないし、人間関係においても、「人生にとって重要だ!」と思える人とは、しっかりと手を組む必要もあるだろう。
IGグループが提唱する未来会計とは、「"チャンス"を掴み、自らの手で未来を創造する」ためのサービスである。
経営計画とは、"チャンス"をものにするための台本づくりだといえよう。

わたしは50歳は折り返した人生における新入社員と考えています。
まさに元号も令和に変わり、何かを変えるにはうってつけのタイミング。
今までの自分をいったんリセットし、新たな学びを得て、変化していく自分を楽しみたいものです
人はやる気になれば、いくつからでも変わることができ、成長していくことができます。
その秘訣は、「自分には関係ない」と思わないことです。
変化に気づいたら「とりあえず試してみる」。
テクノロジーは前にしか進みません。
試しにやってみて、自分の仕事や生活が便利になるという予感がしたら、その恩恵を受けられるように徹底的に使い倒しましょう。
50歳からは教える、のではなく、教わる。
50歳からはお金より時間のほうがはるかに重要。

「気付き」は他人から得られるものだが、「学び」は自分でしか手に入れることができない――。
「気付き」と「学び」の違いについて、私はポイントが2つあると考えています。
●受動的か/能動的か
●点か/線か
いったん得た「気付き」をどのように「学び」に変換するか。情報に振り回されないためにも、これからの時代は「気付き」と「学び」を区別してとらえることが大事だと私は考えています。

やり直しの機会は、あなたが相手に与えることができる最高の贈り物のひとつである。

自分の心の内を言葉で伝えなくても察してもらえると思ってはいけない。

人は手に入れたものを「自分のもの」として所有したがります。
自分が所有することに強く執着します。
そしてその執着心ゆえに、手に入れたものと自分が別のものであることを忘れてしまい、その結果、それらと自分が一体化してしまうのです。
それゆえ、それらを失ったとき、自分の一部を切り取られたかのような喪失感を味わいます。

所有しているかのように、錯覚しているだけなのです。
すべては、一時的に借りているだけなのですよ。
人間は死んでゆくとき、借りていたものをすべてお返しして、命ひとつであの世にゆきます。

人間はみな、年齢に関係なく、お世話になりっぱなしで生きている。
しかしそれを勘違いして、自分の力だけで生きているような錯覚を起こしてしまう。
その錯覚から目覚めていく過程が老いなのだと思うのです。

人はすべて、なにがしかのうしろめたさを抱いて生きざるをえない。それが真実です。

幸福であるためには、目をつぶらなくてはならない部分がある。

人間は決して完全にわかり合えない。
だから、どれほど相手を信頼していても、「100%信頼しちゃだめよ、98%にしなさい。
あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておきなさい」といっています。

清濁併せ飲む好奇心を持つ。

折れない心を持つためには、世界の暗部を見つめることが必要。

人生経験が少なければ、まちがった選択をすることもある。
だが、まちがった選択は必ず何らかの経験をもたらす。
そうして経験を積めば…よりよい選択ができる! これが選択と経験のサイクルだ。

「こういう本を読む人間でありたい」「こういう本を愛する人間だと思われたい」という意識で本棚に本を並べることで、本当にそういう人間になっていく。

ご縁は広げるものではなく、深めるもの。

「信頼関係」というのは、言葉に出した瞬間、偽物となる。

大切なのは、自分の知識の欠損部分を知り、それを補うことだ。

現実の出来事を説明できないなら、本物の知識は身についていない。

「気になる存在」とは、「会いたい存在」のこと。

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