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【セクハラ疑惑から考える】謝らないリーダー像

もはや、今更感が漂っている話題を取り扱う。

幻冬舎の名物編集長である箕輪厚介氏が、編集者の立場を用いてフリーライターのA氏に肉体的な関係を迫ったというセクハラ疑惑が文春オンラインから報じられた。

数日後に、箕輪氏が彼のオンラインサロンで「何がセクハラだよボケ」など二次加害発言をしたことが加えて問題になっている。

(参考)
加害者周辺で被害者バッシングが起こるのはテンプレ 箕輪厚介氏の二次加害発言について|小川たまか

箕輪氏のセクハラや、擁護するために二次加害に加担する彼のファンの質を話題として取り上げることはたやすい。

証拠としてメッセージが残っているにも関わらず、被害者を悪だとする論理は明らかに破綻しており、まともな教育を受けた人ならどちらに問題があるか理解できるからだ。

そのため、倫理的な議論に関してはそれが得意な方々に任せるとして、わたしは今回の事件で疑問に思ったことを素朴に取り上げようと思う。

なぜ、箕輪氏は事実を認めなかったのか

上記の参考記事によると、過去にも箕輪氏の女性軽視を匂わせる発言が批判されている。

箕輪氏は2018年に公開されたハフポストのインタビュー記事の中で、「女性をゲットする」という言い方など「男子校ノリ」であることの指摘を受け、「申し訳ない」「反省しています」「慎重に行動します」「悪気もない」などと語っています。当時の指摘に向き合ったのであれば、ここまでの惨事は起こらなかったはずでは。今回のことは表向きの反省パフォーマンスや「悪気はなかった」ではすまされないのではと感じます。

このインタビュー記事から把握できるのは「箕輪氏の発言が、場合によっては女性軽視と受け取られかねない」ことだけであり、それ以上の意味は持たない。

人の価値観など多種多様なものであるのだから、発言が不快と思われることは避けようがない。であるならば、「嫌なら見なければいい」とつっぱねてしまえば、互いに不利益を被ることがなく、最適解であろう。(彼自身、女性軽視を宣言していないのだから)

そのため、「箕輪氏のジェンダー観とセクハラ疑惑」を結びつけて語るのは難しい。彼が女性をぞんざいに扱う人間かどうかは議論のしようがないからだ。

しかし、インタビュー記事で彼の言い方に彼自身が「反省しています」と語ったことは大切である。自身の価値観が一部の人間を不快にしていることを認めて、「悪気はない」と釈明しているのだ。

自分の発言が原因で、あらぬ誤解を生んでいることを認識しているのだ。

「わたしはこう思った」という感情論は、多くの共感なしには重要な意見として成り立たない。なぜなら、共感が得難い感情論であれば「その人の個性」として片付けられるからだ。

ヴィーガンの「動物がかわいそう」という意見も、大多数の共感を得ることができず、「そう思うのは自由だけど、強制はするな」と跳ね除けられるのだ。

つまり、事実をもとに意見をいわなければ、たいていが「それもありだよね」という個性の話に着地し、人の誤ちを正すような議論には繋がらない。

インタビューの件は、まさに成り立たない議論を表しており、箕輪氏に事実上の落ち度はないと言えるだろう。

しかし、その件について箕輪氏は自らの言葉遣いを「反省する」といい、多少なりとも非を認めたのだ。

対して、今回のセクハラ疑惑。

彼のメッセージが履歴として残っている。つまり、彼がセクハラをした事実が明るみに出ている。どこからどうみても、箕輪氏がA氏に迫っていることを覆すことはできないのだ。

だが、彼は自身のセクハラを認めていない。

セクハラ=人権侵害であることを法務省が明記しており、だいたいの線引きはされている。そのため、インタビューのときと違って、箕輪氏に落ち度があることは明らかだ。

(参考)
●企業における人権研修シリーズ セクシュアル・ハラスメント|財団法人 人権教育啓発推進センター

では、そのセクハラとはどのようなものでしょうか? 男女雇用機会均等法では「 職場において、労働者の意に反する性的な言動が行われ 、それを拒否したり抵抗したりすることによって解雇、降格、減給などの不利益を受けることや、性的な言動が行われることで職場の環境が不快なものとなったため、労働者の能力の発揮に重大な悪影響が生じること」と定義しています。

これでは、まだ「純粋な男女関係として、興味があった」と言っていた方が議論の余地はあっただろう。

だが、文春オンラインではこのように書かれている。

「仕事の発注元である担当編集者に対して断り続けるのも負担で、結局は『仕事を手伝ってあげるだけだから』という箕輪さんの言葉を信じ、夜9時ごろに仕方なく家に上げてしまいました。でも、間違いでした。

(引用元は太字化されていません)

うーん、アウト!w

これは、対価型セクシャルハラスメントに該当する。肉体関係を迫るきっかけとして、仕事上の関係を用いているからだ。これでは、明らかに箕輪氏がクロであることを認めなければならない。

にもかかわらず、本人はセクハラを否定している。メッセージをした事実も、迫ろうとした事実も認めながら、それが「セクハラであること」だけは認めていない。しかも、クローズドなオンラインサロンという場所のみにおいて。


これに関して、「オンラインサロンの配信だけで釈明をした」という不思議な出来事に注視しながら話を展開していく。

イケハヤ氏とオンラインサロン

あなたは「脱社畜サロン」というオンラインサロンをご存知だろうか?

これは「まだ東京で消耗しているの?」というフレーズを世に広めたプロブロガーのイケハヤ氏が設立したサロンである。

ここは、サロン生のやりがい搾取をはじめに多くの問題を抱えていたが、多くのサロン生が退会したきっかけとして有名な「プロフィール虚偽疑惑」を紹介する。

(参考)

詳しい事実は、上記のnoteにて書いてあるが、こちらでも軽くまとめようと思う。

脱社畜サロンに所属する正田圭氏が、Twitterプロフィール欄の「2〜3桁億円のM&Aをメイン」という記述をしていた。そこで、業界に詳しい人が「そのようなことをしている人で正田圭という名前を聞いたことがない。虚偽の実績ではないのか」と尋ねたところ、正田氏「実績はないが、現在そのような案件を取り扱っている」と回答。まるで完了させていたかのような書き方が誇大広告ではないのか、など問い詰めたれた結果、正田氏は開き直って「(プロフィールを)盛って何が悪い」と発言。
彼をめぐる騒動は、脱社畜サロン内やTwitterでも賛否両論があった。

つまり、運営側の人間が誇大的なプロフィールを書き、サロン生を誤解させたが問題になっていた

正田氏の行動が許されるかどうかは、それぞれの判断に任せるとして、ここでサロンリーダーのイケハヤ氏の対応を見ていこう。

これは、「解釈違い」を説明しているだけだ。「進行中であっても、プロフィール欄に書いてもいいのではないか?」という話に対して、賛同しているイケハヤ氏の発言があるだけでしかない。(悪質な言いがかりというのは、過剰な発言であるような気がしないでもないが。)

しかし、このツイート以前には

まさに、事実そのものがなかったかのようなものいいである。実際に誇大広告なのかどうかは抜きにして、多くのユーザーに誤解を生んだ事実」は明らかに存在している。デマであると主張するのは、いささか不適切だ。

ここで、箕輪氏とイケハヤ氏の対応が共通点を持ち始める。

彼らはどちらも『事実』を否定している。
箕輪氏は彼の発言が一般的にセクハラと認められる『事実』を、イケハヤ氏は正田氏のプロフィールが誤解を生んだ『事実』をそれぞれ否定しているのだ。

何度も言うが、事実を否定するのは難しい。そこから生まれたものが解釈違いであると主張するのならまだしも、そこにある『事実』をなかったこととするのは労力がかかることである。

そのため、事実をなくそうとするよりも、事実により生まれた解釈に対して「そういうつもりはなかった」と弁明する方が賢い考え方であろう。

両者は、彼らの土俵においてそれなりの実績があるため、賢い人間であることは間違いない。発言の節々に、自身のポジションをはっきり表すような姿勢が見て取れることからも戦略的な人間であることは確かだろう。

彼らの売り方から考えるに、どういったことを言えば周りの人間が喜び、どうすれば自身のキャラクターが立てられるかを理解していることからも、世間の空気には敏感な部類の人間だ。

それなのに、存在している事実を否定するような滑稽とも見れる行動に出てしまったのはなぜだろうか。

ここに彼らがオンラインサロンのリーダーであることが強く関係してくる。

イケハヤ氏は、脱社畜サロンにて正田氏の件で質問したユーザーを退会させた。(直接の原因は、サロン内の会話をTwitterにあげたというサロン規約に違反したからであるが)

箕輪氏はオンラインサロンの配信で、セクハラ騒動が事実無根であることを訴えた。

彼らは自身のオンラインサロンを優先に行動をした。特に箕輪氏は、自身が事実無根であることをTwitterをはじめとした開かれた場ですれば、多くの人に知ってもらえるのにもかかわらず、あえてクローズドなサロンだけで発信したのである。

つまり、オンラインサロンに向けて発信した方が戦略上有利だと両者は考えたことになる。これを深めるために、オンラインサロンリーダーとしての戦略について考察をしていく。

謝らないリーダー像

まずは前提を統一するために、リーダーの役割を見てみよう。

安直ではあるが、Googleで「リーダーとは」と検索してみると、https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/092500202/にて

ドラッカーの基本的な定義は、いつもどおりシンプルでした。彼は、リーダーシップについてこのように述べていました。「リーダーの最も基本的な条件は、『フォロワー』(信頼してついてくる人)がいることだ」 どんなに高邁なリーダーのイメージを追い求めても、またどんなに高尚な理念を掲げても、信頼してついてくる「フォロワー」がいなければ、リーダーとは呼べません。そういう基本原則について、言っています。

オンラインサロンのリーダーと通常のリーダーに明らかな違いがないことから、ここではサロンリーダーを通常のリーダーと同じものとして考慮する。

一方で、オンラインサロンのフォロワーは従来のフォロワーと同じであるようには考えづらい。従来のフォロワーは、彼らの金銭的な利得も加味されるのに対し、オンラインサロンではボランティアで働きたいと考える人が一定数いる。

すなわち、信頼する前提条件の中に金銭的な利益は存在しないのである。

そういった面で、オンラインサロンのフォロワーはファンが混ざったものとして考える方が適切であろう。

ここから、サロンのフォロワーはリーダーへの信頼度が従来のものよりも高いことが想像できる。リーダーが好きだから、居場所が好きだからという理由だけで私財を投げ打ってでも活動できることからも、それは明らかだ。

次にリーダーシップについて考える。今後求められるリーダー像| THE ADECO GROUP の「良いマネージャーとすごいリーダー」の違いを参考に見てほしい。

すごいリーダーの条件として、「強烈な価値観を持っていて、それを押し通す」「この人についていきたいと思わせる、持って生まれた人間性」という部分が考察の材料に役立つ。

つまり、サロンのリーダーは「強烈な価値観を押し通す」「フォロワーについていきたいと思われる」ように努めなければならない

ここで書かれているようなリーダーとしてあり続けるために、常に力強い姿を見せなければならないのだ。

そのため、彼らのリーダー像を脅かすような事件は否定した方が都合が良い。事実を認めた場合、価値観を押し通すリーダー像が崩壊する危険性をもつからだ。

ここで、フォロワーたちのファン的要素を強めた解釈が大きく意味を持ち始める。彼らはサロンリーダーに対して強い信頼をもっていることで、彼らは「できる限り、リーダーを信じたい」と考えるのである。

この信頼関係は、リーダー像があるからこそ成り立つものであり、一度崩壊してしまえば信頼さえも崩れる原因になりかねない。

「オンラインサロンは宗教だ」という人間は多いが、まさにそれに近いことが起きているといえるだろう。ここでカルト宗教の予言という有名な例を取り上げる。

隕石の落下による世界の崩壊を予言したカルト宗教がいたが、予言の日になっても隕石は落下してこなかった。それに対して、信者たちは「教祖が隕石の落下を防いだ」と解釈することにより、さらに信仰を深めていった。

これは、信者たちが自分の宗教を信じるために、事実を無視するor突飛な解釈をするよい例だ。

信者にとって、あらゆる事実をねじ曲げて解釈しようとするほどに、「教祖(リーダー)を信じる」という気持ちが高い優先度をもつのだ。

似たような現象が、箕輪氏のオンラインサロンにも確認されないだろうか

実際に、彼を慕うフォロワーはセクハラ被害者であるA氏のメッセージ対応や過去の経歴を取り上げ、「彼女がハニートラップをしたため、箕輪氏に主な非はない」というウルトラCな曲解を成し遂げたのである。

彼らが箕輪氏を擁護するために、箕輪氏に強いリーダー像が求められる。箕輪氏は配信にてセクハラを断固認めないことで、強烈な価値観を押し通そうとするリーダー像を守ったのだ。世間に弁明することを諦めてまで。

イケハヤ氏にも同じことがいえる。正田氏の疑惑をデマであると跳ね除けることにより、オンラインサロンと彼のリーダー像を守った。フォロワーは、正田氏の件で騒ぐ人々を僻んでいる馬鹿と一蹴し、彼への信頼を守った。

これが、箕輪氏とイケハヤ氏が事実否定という悪手に見えるような行動をとった理由であろう。

終わりに

そういう視点で、「謝らないどころか、事実さえ認めようとしない人」を観察してみるととても面白い。明らかにおかしいことであるのに、正常であるようなツラをしている人間を、馬鹿で愚かであるとわたしたちは考えがちだ。

しかし、こういった問題を起こしている人間の多くは政治家だったり、プロ〇〇、天才〇〇だったりする。彼らの態度が、戦略上で行われるものであるのなら人格批判がいかに空虚で無意味なものか理解できるであろう。



本買ったり、コーヒー飲んだりに使います。 あとワイシャツ買ったり